《創作大賞2024:恋愛小説部門》『友人フランチャイズ』第11話 懇々クジラ 244.5~
《第4章 第1節 懇々クジラ 244.5~》
友人フランチャイズ契約を結んで、1年4ヶ月が経っていた。正確に言うと、489日。僕が今、水穂ちゃんに貯金している時間は244.5時間。
その間に僕は、秋山くんって言う、友達って言うよりは戦友に近いような人ができた。やっぱり秋山くんの描く作品は凄いし、鳥肌が立つ。でも、嫉妬とかそう言うのはもう無い。
水穂ちゃんとは、なんだか、絆が深まったと言うか、深めてくれたと言うか、そんな感じ。でも、僕のパーソナルスペースが少しだけ狭くなったのは絶対に水穂ちゃんのおかげだと思っている。まぁー、その日に決めて、その日に実行って言うスタンスは今でも変わらないけど、慣れてしまえば、それが良かったりする。
秋山くんと大学の食堂で、そんな事を考えていると、ポケットに入れている携帯が振動した。相手は水穂ちゃんで、携帯の受信フォルダを開きメールを確認する。
拓星様⭐︎お願いがあります!今日、門番が仕事?で遅くなるからさー、もし、バイトが休みだったり、早く終わったら、お店の住所を送るから迎えに来てよー!(244.5⭐︎)
僕は、そのメールを見て、一気に血の気が引いた。
それを目の前で、スプーンとフォークを器用に使いナポリタンをくるくる巻きながら、食べている秋山くんが「なに?なに?どうしたの?」っと新しいおもちゃで遊ぶ前の子供の表情で僕を見ている。
「水穂ちゃんから、夜、働いてるお店まで迎えに来てって言われたんだけど……正直行きたくない」
「なんで?水穂さんの頼みだろう?行けばいいじゃん」
「いやね、迎えにいくのは構わないんだ。でも、場所が……」
「場所って職場だろ?1年以上の友達で行ったことないの?」
「うん。行った事ない。門番さんがおっかないってのもあるし、いつも水穂ちゃんの仕事が終わった後に会っていたから」
僕は水穂ちゃんを迎えに行くのは構わない。でも、門番さんがいる所となると、話は変わってくる。
「門番さんって怖いの?」
秋山くんは自分には関係がないと、思っているのか、僕の表情を見て興味を示している。
「怖いって言うもんじゃないよ。水穂ちゃんと遊んだりして、送る時はいつも、水穂ちゃんの住んでいるアパートの踊り場にいて、筋肉を鎧みたいに着てて、長い髪の毛を靡かせながら、タバコの煙をプハーって吐いてて、ほんっと獣みたいなんだよ」
「げっ。聞いてるだけで、怖いかも。なんか、付き合ってる彼女を送ったら、おっかないお父さんが玄関先で待ってるような感覚だね。くわばらくわばら。──じゃーさ、今日の水穂さんのお願い断るの?」
「いや。今日バイト、早上がりだから、迎えに行くよ」
「行きたくないなら、断ったり、無理に嘘の用事を作ったりするんだけど、それをしない小絲くんは、やっぱり根が付く程のお人好しなんだね」
「そうでもないよ。今、君に行きたくないって愚痴を言っているんだからね」
「ぎゃはは。確かに!あっ。やば。俺、次のグラフィックデザインの講義取ってるんだった。だから、行くね。夜、頑張れよ」
秋山くんはそう言って、いつの間にか食べ終わったナポリタンのお盆を持つと、席を立った。そして「これ、今回は俺の番」っと手紙を渡して講義に行ってしまった。
僕達はあれから、こうやって手紙のやり取りをしている。電話番号もメールアドレスの交換もしているけど、手紙がしっくり来るって2人で決めてずっとそうしている。
それより、水穂ちゃんにメールを返さないと。
今日、22時30分にバイトが終わる予定だから、行くよ!だから、住所送っといて!あと、門番さん今、機嫌いい?(244.5⭐︎)っと。門番さんの探りを入れて……よし送信。
すると、すぐに水穂ちゃんからメールが返ってきた。
きゃー!拓星様⭐︎来てくれるの?住所送っておくね。門番の機嫌はいつもと変わらないよー!それに仕事中の門番は優しくて可愛いから楽しみにしといて。
水穂ちゃんから送られてきたメールの内容の門番さんが可愛いって部分に、初めて会ったあの日から疑問が残っている。確かあの時も水穂ちゃんは門番さんに、仕事中みたいにしてれば、もっと可愛いのに。って言ってたような?でも、やっぱりこわい。そして、僕は夜の決戦のために、Aランチを食べ終わると、追加でカレーライスを注文した。
バイトが終わり、僕は今、ビルとビルの隙間を通る冷たい風に体を縮こませながら、ネオンが煌めく、歓楽街を歩いている。まだ、夜の11時くらいなのに、酔っ払っている人とそうじゃない人が半分半分いて、僕が来るには敷居が高いと言うか、無関係と言うか、そんな場所だと思った。
確か……この辺だよな。水穂ちゃんが働いているお店。……辺りのビルを確認しながらメールに添付された写真のビルを探した。そして、写真と似たビルを見つけると、マフラーに埋めた顎を出し、1つの雑居ビルの前に足を止め見上げる。ビルはBARとかスナックとかの看板が眩しく輝いて少し怪しげの雰囲気を出している。
メールには2階って書いていたので、ビルに入ってすぐのエレベータに乗り込み文字が剥げている2Fのボタンを押す。もあっとお酒やら香水やらタバコやらの混じった匂いを残す、エレベータはゴトンっと揺れ動き出した。
ドアが開くと、細い廊下が伸びていて、左右に、数店舗のお店があるのか、各部屋の入り口に個性豊かな看板が並んでいる。
そのまま右を見ながら奥へと歩みを進める。エレベータから降りて7店舗目のお店……メールにはそう書いているけど、店名教えてくれた方が早いのにっと心の中で突っ込む。
え?これ?っと、もう一度、メールを確認して、エレベータの方から店舗を数える。……間違いないみたい。
その店は「オカマバー⭐︎フルーツバスケット」っと書かれていた。他の店舗より外観の色に反対色が多く、耳を澄ますと少し古めのアイドルの曲が漏れてきている。でも、その声は華やかな女性の声じゃなくて、野生味のある男性の声を残した女性っぽい声。
そして、恐る恐る扉を開ける。ドアの隙間から、裏返った野太いアイドルの歌い声がはっきりと聞こえてくる。
「いらっしゃ……なんでお前ここにいるんだよ」
え?っと、ドアの前で立ちすくんでしまった。その声の持ち主が、いつも水穂ちゃんの部屋の前を守衛している門番さんだったからだ。
いつも、ボサボサしてた髪は、肩の部分で綺麗にカールされ、突然、僕が来たことに驚いているのか、幾重にも重ねた付けまつげをバサバサとパタつかせている。
東洲斎写楽が描いた大首絵のモデルの様に白く塗られた顔。何でも一口で丸呑みしそうな真っ赤な唇。その顔の下には金色のドレスを着た巨大なリカちゃん人形が僕を見つめたまま、固まっている。
「え?あ……あ……」
薄暗いに店内に赤と青と黄色と緑のスポットライトがぐるぐるとあちこちを走っていて、音楽のBGMだけが、緊張感を含んで流れている。
お客さんは1人女性が来ていて、門番さんとカウンターを挟んで座り、マラカスを持ったまま、僕と門番さんを交互にみている。
一時の緊張状態。それを破るように、カウンターの奥から水穂ちゃんが顔を出した。
「グリトニー!お前……って言うな!拓星は、私が呼んだお客さんなんだよ!」
岩のように固まった門番さん……いや……このお店ではグリトニーさんなのか?に水穂ちゃんは注意すると、荷の腕に軽くパンチを入れた。
「拓星。ありがとう。外寒かったでしょ?入って」
そう促され、僕は、店の扉を閉めると、いつでも逃げられるように入り口に1番近いカウンターに座った。
「あっ。あと、拓星。こちらの方を紹介するね。私が凄くお世話になってる恵子さん。それで、恵子さん。こちらはあの小絲 拓星くんだよ」っと、席につくと、早々に横に席が3つ離れた恵子さんに僕のことを紹介してくれた。
「小絲って言います。よろしくお願いします」
会釈しながら、挨拶をすると恵子さんは目線を下から上に流す様に僕を見て「……君には少し会ってみたかったの。よろしくね」っと、凛とした声で言った。
パンツスーツを着こなした、恵子さんは、水穂ちゃんを可愛いと表現するならば、涼しく刺す大人の女性って印象。
挨拶を済ませると、恵子さんは固まった、グリトニーさんに「ねー。次はしんみりした曲、歌って」っとリクエストをした。
リクエストにぶるっと、固まった体を震わし、野太い声に女性の声を載せた門番さんは、またグリトニーに戻ると、恵子さんにウインクを放つ。
「んー。ちょっと空間が淀んじゃったけど、恵子のお願いだしなー。まっ。いいわ。任せて」
グリトニーさんはそう言って歌本をペラペラとめくった。選曲が終わり曲を入れると店内にしんみりとしたBGMが流れはじめた。
「ごめんねー。グリトニーはあんなだけど、案外拓星の事、気にしているんだから」
僕の前にコースターを置き、その上にマグカップを置くと「ココアで良かったよね?」っと僕の隣に座った。
そして、グリトニーの野太い声が音楽に乗り出す。歌い始め、ビクっとグリトニーの大きな声に身体が反応したけれど、徐々に歌詞の調べに力強い声が載っかって、いつの間にか聞き入っていた。
「グリトニー上手いでしょ?」
「うん。上手い」
「時々ね、お店閉めてアパートに帰っている時、アイツちゃんと、飯食ってるのか?って拓星の事、気にしているんだよ」
「そうなの?」
僕はいつも、水穂ちゃんを送る度に、踊り場から感じる門番さんの視線が痛くて、勝手に嫌われているんだろうなって思っていた。
「嫌われてるって思ってた?」
「うん。だって、いつも凄い形相だから」
「門番もなかなかの不器用だからね。なんてたって、お父さんの元お弟子さんなんだから」
目の前で、愛の調べを歌う門番さんは、大工だった水穂ちゃんのお父さんが亡くなるまで、お父さんの弟子だったって聞いた事があった。
でも、大工だった門番さんが何故、今、グリトニーとして、オカマバーを経営しているのだろうか。少し気になったけど、水穂ちゃんが言っていた、女性のHow to触れるのは〜って事を思い出して、聞くのをやめた。
そんなグリトニーさんの歌に胸を撃たれたのか、恵子さんはカウンターに突っ伏して、グスグスと鼻を鳴らしながら、泣いている。
「え?恵子さん大丈夫なの?」
「あー、恵子さんはいつもの事だから大丈夫」
泣くと言うより、号泣に近かった。だから、ちょっと、お客さんなんだから、心配をしてあげた方が。ってニュアンスを含ませたつもりなのに、水穂ちゃんは手をヒラヒラとさせ答えた。
「青春時代を離脱してた私には無理無理。大人の恋の相談はグラトニーに任せてれば大丈夫」
そう答える、後ろではグラトニーがカウンターから腕を伸ばして恵子さんの肩を摩りながら「男ってもんはねー」っと、語りかけている。
「なんか、またデート断られたみたい」
そう言われて、2人の大人の会話に向けていた視線がまた水穂ちゃんに戻る。そして、頬杖を付くと、あまり見ない方がいいのか、2人と僕の間に体を入れた。
「恵子さんの付き合っている人が、仕事人間で、約束しても仕事を理由にデート断るんだって。だから、その度に、ここ来ては、グラトニーに慰めて貰ってるの」
そう言っている、水穂ちゃんの後ろで「そうよ!恵子!あなたは綺麗よ!蝶よ!そんな男には、もう少し私に構わないと飛んでいくわよ!って言ってやればいいのよ」っと、グリトニーさんの熱を帯びた声が響いている。
2人の会話を聞いてて、感じた事がある。付き合うって曖昧なのかもって。結婚みたいな契約じゃなくて、ふわっとした約束みたいな。だから、恵子さんみたいに泣いちゃう人いるんだろうな。……って、そう感じた。
友人フランチャイズ契約を結んでいる僕達はもしかしたら、恵子さんカップルよりも関係は深いのかもしれない。カップルからしかできない事もあるけど、それを捨ててでも、水穂ちゃんとはこの関係がいいなって思ってしまう。
「ねー。水穂ちゃん」
「なーに?」
「友人フランチャイズ契約を結んでくれてありがとう」
「あら?嬉しいこと言うのね。どうしたの?」
「うん。何となく」
僕は熱いグリトニーさんの恋愛談義と恵子さんの鼻を啜る音を聞きながら、コースターの仕分けを手伝った。
「違う。違う。そこはこうやるの」っと言われている後ろで「恵子。あなたは孔雀よ!何度も蘇る、孔雀なのよ」っと、お湯が沸きそうなくらいの熱くかっこいい声。
その時、恵子さんには悪いけど、結構この雰囲気がずっと続けばいいのになって思ってしまった。
***
閉店する時には、恵子さんもさっきまで、泣いていた事を感じさせないくらいにまで、元気になっていた。
「さぁー。門番くん。次行くわよ」
もう夜中の2時なのに元気すぎる恵子さんは、ハンドバッグをぶんぶん回している。そして、待ちきれないのか、急かすようにグリトニーさんから門番さんに着替えているトイレのドアをバシバシと叩き出した。
「ちょっと、恵子、待ってよ」っとトイレから、野太い門番さんの声が聞こえる。
「グラトニーの方が可愛いのに」
こちらでは、カウンターの横で100枚づつに並べたコースターを箱詰めしながら、水穂ちゃんが残念そうに呟いている。
2人を見ていると女性ってどこか、少し崩れていて、完成されていないものを、可愛くて愛おしく思うものなのだろうか?と考えてしまう。
僕に映る門番さんは、アパートの踊り場で水穂ちゃんを待ってる姿とか、今日、恵子さんの話を聞いたり、歌声で感動させる姿とか、多分、女性2人とはまた違う感覚だと思う。どちらかと言えば、兄貴みたいな感覚。
そして、恵子さんに急かされトイレから出てくると「恵子。もう、ちょっと待ってて」っとジーンズのファスナーを閉めながら、門番さんはカウンターの奥にある、キッチンに入って行った。
数分後、お腹をキュルっと刺激する濃厚な匂いがお店の中に立ちこめた。そして、湯気が上がる丼を2つお盆に乗せ、キッチンから出てくる。
「腹減ったろ」
そう言って、僕と水穂ちゃんの前に消化器官を刺激していた犯人が入る丼を置いた。
大きいチャーシューが入った味噌ラーメン。他にも、コーンにもやし、あと、海苔も入っている。スープに半分だけ溶けるバターの香りが背徳感を更に上昇させる。
「門番ありがとう!」
僕の横では、割り出しを軽快に割り、ズルズルと勢いよく食べ、うまっ。うまー。っと水穂ちゃんが目を丸くしている。
「食えよ。あと、いつも、水穂の事、ありがとうな」
門番さんは顎の下に白く残ったファンデーションの部分を掻きながら、小声で言った。
水穂ちゃんは門番さんがいつも僕の事を気にかけているよって言ってたけど、やっぱり、アパートの踊り場から、ずっと睨む目を思い出すと、俄かに信じれなかった。でも、今、目の前で頬を掻きながら僕に笑いかける門番さんを見てると、水穂ちゃんが言ったように不器用な人なんだと、納得する事ができた。
「ねっ。だから言ったでしょ?門番不器用なの」
「水穂、余計な事言うんじゃねーよ。黙って食え!」
「何が、余計な事よ!いつもいつも、拓星は?拓星は?って言ってるじゃない。だから、今日、門番に黙って呼んだのよ!」
「だからか!こいつがここに来たのか!」
「こいつって言わないで、いつもみたいに拓星って呼べば良いじゃない!」
門番さんと水穂ちゃんは兄妹のように喧嘩していた。それをさっきまで暴れていた恵子さんは2人の言い合いを止める事なく、背筋を伸ばし何処か、虚な表情で眺めている。
「門番さん!これからは、水穂ちゃんと一緒にいる時はしっかり送り届けますので、安心して下さい!いただきます!」
2人の言い合いに割って入るように言うと、門番さんは「おう。頼むわ」っと僕の肩を叩いた。それを水穂ちゃんは柔らかい表情で、無邪気に笑った。
「麺が伸びないうちに食え!」
門番さんにそう急かされ、味噌ラーメンに目を落とす。ふー。ふー。っと、熱々のスープの中に纏ったちぢれ麺を箸で持ち上げ息を吹きかける。すると、舞い上がった濃厚の味噌スープの匂いが更に食欲を刺激する。ズルズルと麺を啜ると、こってりとした味噌の味が口いっぱいに広がり、後を付けるように、バターの香りがやってくる。
チャーシューはほろほろと崩れ、口の中でコーンはプチプチと軽快にリズムを刻んだ。
バターが1番溶け込んだ部分のスープを飲むと、濃いミルキーな味と濃厚な味噌スープが口の中で混ざり合い、お腹をギュルっと喜ばせた。
「どうだ?うめぇか?」
「おいじいーです」
口一杯に味噌ラーメン含みそう言うと「おー!そうか!また食いにこいよ」っと門番さんは微笑んだ。
そして、そのままカウンターの奥からバックを持つと「水穂を家までよろしくな」っと僕に言い残し、待ちくたびれている恵子さんを連れて店から出て行った。
僕は門番さんをずっと怖い対象として見ていた。アパートの踊り場で煙を吐く獣だと。でも、今日、恵子さんに対しての熱い姿や、水穂ちゃんと言い合っている姿を見て、今まで門番さんに抱いてた、恐怖心がスッと無くなっていた。きっと、門番さんから僕の心に触れてくれたからなんだと思う。これからは、時々、門番さんの家にも尋ねて行こう。僕はそう思いながら、作ってくれた、味噌ラーメンのスープを飲み干した。
門番さんの作ってくれた、味噌ラーメンを食べ終え、水穂ちゃんが閉店作業をしている間僕は丼を洗い、終わるのを待っていた。
「よし!おまたせ!帰ろっ!」
そして、僕達はオカマバー⭐︎フルーツバスケットを後にした。ビルの外は雨が降った後なのか、アスファルトの地面が濡れ、所々水溜りができている。その光景を水穂ちゃんは「これじゃ泥濘んでて、いつもの公園行けないじゃん!新しいスニーカー履いてきたのに!」っと、空に向かって罵声を吐いている。
「じゃー、ゆっくり帰ろうよ」
空を見上げ文句を言っている横顔に提案すると、「当たり前じゃん」っと歩くスピードがいつもの半分くらいになった。そして、残念そうな顔に花が咲いた。
ゆっくりと僕達は歩いた。歓楽街を抜け、遠回りになる小道に入ったり、休憩と言う体で立ち止まってみたり。顔は冷たくなったけど、心は晴れやかだった。
気付けば、そこの赤いポストを右に曲がると、目的地の所まで来ていた。
水穂ちゃんは、そこに据えている、濡れたベンチに腰をかけ、両手にココアを持ち足でパタパタと地面を蹴っている。
「最近、拓星変わったね」
ふと、地面を見つめながら言った。
「どんな所が?」
「なんか、友人フランチャイズを契約した時に比べて、肩の力が抜けてる感じ?」
水穂ちゃんと出会って、距離が近く度に水穂ちゃんの人間性が僕に移ってきたのかもしれない。あと、秋山くんのおかげもあるのか、少し自分の中のパーソナルスペースが狭くはなったような気がする。
「僕はね、水穂ちゃんに出会う前はね、人の心に触れると、すぐに心が藍色になっちゃって、人に関わるのが怖かったんだと思う」
「うん」
「っで、そんな僕に水穂ちゃんは嫌気をさす事なく僕の心に触れてくれてたんだ」
「それで?それで?」
「でね。水穂ちゃんの家に初めて行った日、お父さんとお母さんが亡くなった事を知って、その時に何もできない自分が悔しくて、まだまだ、駄目だなって思った。でも、何もしなくていいって僕は僕のままでいてくれるのが特別だから。って、水穂ちゃんは受け入れてくれた」
「うん。うん。私は今も拓星は特別だなって思ってるしね」
「ありがとう。僕も水穂ちゃんは特別だよ──それでその後、秋山くんの件があって、その時に秋山くんが僕に抱いてた思いに触れてる事ができて、水穂ちゃんが僕にしてくれたように僕も秋山くんの心に触れてみようって、秋山くんに思いの丈を伝えたんだ」
「っで、どうだったの?」
「良かったよ。秋山くんを嫉妬の対象じゃなくて、ライバルって思えるようになったから」
「うん。うん」
「それからかな?……自分から誰かに話しかけるって言うのは、まだハードルが高いし、パニックになったら、頭が真っ白になって思考が止まるけど、誰かが僕に心に触れようとしてくれたら、僕もちょっとその人の心に触れてみようかな?って思えるようにはなった。そしたね、少し肩の力が抜けたんだ」
「って事は、話を総括すると、水穂様が凄いって事だ」
「そうだね。水穂ちゃんも凄いよ」
「もーって、何よ!拓星のくせに」
「僕は水穂ちゃんがいてくれて良かった」
小道を通り抜ける風は、段々と強くなり僕たちの時間を邪魔するかのように大粒の雨が降り出した。
「雨だ。行こっか」
「うん」
水穂ちゃんは、ゆっくりとベンチから腰を上げると、赤いポストを左に曲がる。
そして、アパートに到着すると、雨は嘘の様に降るのを止めた。
「え?一瞬だけ?」
「通り雨だったかな?」
「拓星、上がって行く?」
水穂ちゃんは、玄関の扉を開け、入り口に立つ僕に視線を重ねる。水が滴る髪の下で、水分を含んだ藍墨茶の大きな瞳が僕の体を部屋に招き入れようとしている。
「ううん。今日は帰るよ」
「うん。……じゃ、雨降るか分からないから、折り畳み傘貸すよ」
このまま、アパートの扉の縁で仕切られた境界線を越えてしまうと、僕は水穂ちゃんと友人フランチャイズを続けてはいけない関係になりそうな気がして、もう一歩踏み込む事をやめた。
「折り畳み傘、ありがとう。返しに来るね」
「分かった。暗いから気をつけて」
折り畳み傘を借り、境界線から三歩下がり、部屋の中から僕を見つめる、水穂ちゃんへ、いつも言っているように言葉を転がした。
「おやすみなさい」
すると、水穂ちゃんも初めて講義室で会った時と変わらない表情で、優しくゆっくりと転がし返してくれた。
「うん。おやすみなさい」っと。
《第4章 第2節 懇々クジラ 244.5~ へつづく》
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