朧夜の神話【カフェ浪漫主義35】
古来西洋の神話や伝説はみな全て韻律詩で書かれてきた。
散文や口語調では厳かさや格調が出ず、何より美しくも格好良くもならないのは英雄叙事詩などを例にとればよくわかるだろう。
神話も宗教哲学も伝説ファンタジーも、韻文による格調の高さゆえに後世にまで伝わってきたのだ。
明治末の日本で苦心惨憺の末に神話の再誕を果たしたのが薄田泣菫だ。

黒高麗面取壺 李朝時代
古民藝珈琲碗と皿 昭和前期
この聖なる詩集『二十五絃』は、比類なき美麗な文語韻律による日本の神話ファンタジーだ。
春に読むのにふさわしい天上の音楽のような妙なる調べは、おそらく日本語によって書かれたあらゆる詩文の中の頂点だろう。
美しきものは常久に、
可惜身なりや、翡翠の
かいまみ許さぬ花のすがた。
照斑あをき冠毛や、
瑠璃色背にながれて、
さながら水曲の水脈にまがひ、
はた長嘴の爪紅は、
零露を啜るにふさひたりな。
これは短編の『翡翠の賦』の一部分で、まだ主題の神々も登場していない導入部の只の小鳥の描写でさえこの調子だ。
長編の『雷神の歌』は衣通姫と別雷命の神話に添え、佐保姫や筒姫ら四季の女神達と日本の美しい自然を歌っていて、そこかしこに綺羅と散りばめられた高雅な詞華もまさに神々しいばかりだ。
我が国の古典的浪漫主義の金字塔と言うべきこの詩集を机辺に置けば、いつでも行きたい時に神々の楽園に移転し己が詩魂を浄化できる。
この麗しき雅語古語を散りばめた気韻玲瓏たる泣菫の詩体は当時の文人知識人達の圧倒的な称賛を受けたが、残念ながらその後大正昭和の文化の大衆化の中に埋もれ忘れ去られて行く。
芥川龍之介が「いつかこう言う詩人になることを夢みていた」と泣菫に心酔していた一方で、夏目漱石は泣菫の詩について「才能も力もあるが、よくわからない」と言ったのは当時有名な話だった。
漱石はまあ……日本の古語はあまり知らなかった。当然一般大衆はさらに良くわからなかったのだ。
泣菫の詩は当時の世間を相手に詠んだものではなく、久遠なる聖性に向けて唄っていたのだと思う。
詩は本来神々への詠唱なのだから、漱石や俗人達にわからなくとも一向に構わなかっただろう。
また、金と緑青地に竪琴の詩神サッフォーを陰刻したクロス装丁も、今の出版界ではあり得ないほど豪華で気品がある。
猟書神ラングの教えに従い、この『二十五絃』と『白羊宮』に蒲原有明の『有明集』など名作中の名作詩集は、万が一に備え初版を3冊づつ揃えてあるので後生まで安心だ。
西洋でも19世紀末から新たな神話詩が盛んに登場してくる。

萩珈琲器 渋谷泥詩
ワーグナーの楽劇はどれも神話ファンタジーだった。ワーグナーの曲は演奏時間が長く、原語に馴染みのない人にとっては親しみにくいかもしれないが、ネルソンス指揮の『愛の死(トリスタンとイゾルデ)』はソプラノ独唱の入らない器楽版なのでかえって聴きやすい。
ヴォーカルの入らない演奏は珍しいのだが、この曲は独唱がない方がメロディーの美しさと荘厳な世界観を堪能できると思う。このネルソンスの演奏はドルビー・アトモスということもあって素晴らしい録音だ。
泣菫と同時期の詩人に上田敏と石川啄木がいるが、この二人は特にワーグナーを敬愛していたようで「ワグネルの藝術は〜」などと方々で語っている。その影響もあってか、敏と啄木の詩にも『二十五絃』にあるような神話的な描写が数多く登場する。かつて小泉八雲が目指した「日本の面影の再話」はこの頃の神話詩をもって十分に結実していたのだ。
ゲームやアニメを通じて神話ファンタジーに親しんだ人であれば、それほど苦労せずにこれらの音楽や詩がもつ一段と深い格調がわかるようになるだろう。
