惜春の日本浪曼派【カフェ浪漫主義40】
我が荒庭に咲き競っていた椿や桜もだいぶ散り、今週は窓の外を眺めるたびに惜春の想いがつのって来る。
この春の終わりに紹介したいのは、前回の三島由紀夫らが若き日に参加していた日本浪曼派の古書だ。彼等がまだ若かった戦前の著書は、行く春の情趣と相まって古き良き日本への郷愁を深くする。
戦前に出た亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』は、我が大和路の旅に必ず持って行った本だ。菜の花や桃の咲く長閑な畦道から眺めた法隆寺や法起寺の塔は、今でも鮮やかに思い起こせる。

『大和古寺風物誌』は単なる旅案内を超え、日本文化のまほろばを感じさせる名著だ。全ての日本人の心の故郷である飛鳥斑鳩から奈良大和路に対する、当時の教養人達に共通する深い心情がこの書から伝わって来る。また、眼前現実の風景から古代ファンタジーを幻視出来ているのは、日本浪曼派の面目躍如と言うべきだろう。
敗戦後も日本の心の原点を再確認しようと、この書を読み大和路へ旅に出た人も多くいた。文庫化された以降も版を重ね、入江泰吉や土門拳の大和路写真集の人気にも繋がって行く。
もう一冊の『藝術の運命』は当時の日本芸術の諸相に的確な批評を加えた、戦前の評論集としては一級の書だろう。大抵の評者が何らかの思想的な偏向を持っていた戦前戦中にも、落ち着いた広く公平な視点で文化の普遍性までを見通しているのは立派なものだ。
鎌倉文士達も色々な評論を書いているが、亀井に比べるとやや若さ青臭さが滲み出ているのは、奈良京都と鎌倉の歴史の差だろうか。我が鎌倉に居た日本浪曼派の林房雄にも、是非鎌倉の文化を紹介するこのレベルの本を書いてほしかった。
日本浪曼派の頭目だった保田與重郎は大和桜井の生まれで、彼が万葉集や古歌に親しみ自らも和歌を詠むのは、誰に習わずとも自然の事だったろう。

彼は『萬葉集秀歌選釋』や『校註祝詞』といった万葉時代の本をよく書いていて、この歌のイメージも調べも古代ファンタジーだ。
三輪山の鎮めの池の中島の
日はうららかにいつきしま比女
大和路の花鎮めを想い、戦前昭和頃の志野の花入に春の名残の牡丹桜を投入れた。戦犯扱いで公職追放を受けた保田の荒ぶる魂もこれで少しは鎮まるように、桜志野の茶碗と桜大福もお供えしておこう。保田自身は濱田庄司らの民藝を好んでいたようだが、彼の書は美濃焼にもよく合う。
市杵嶋姫命は、アマテラスとスサノオの誓によって生まれた宗像三女神の一体で、弁財天としても祀られている。豊穣を司る美神への讃歌は麗らかな春の日に相応しく、棟方志功もよくこの歌で板画を描いていたようだ。
保田が和歌に詠んだ自然への憧憬を引き継いだのは、現代詩や短歌ではなく歌謡曲や演歌であった。阿久悠や小椋佳といった名作詞家による歌詞のいくつかは、まさに浪曼派的な自然と抒情が絶妙に調和したものだった。
この「山河」は、詞が小椋佳、曲が堀内孝雄、歌が五木ひろしによるもので、3人の音楽活動の集大成とも言うべき名曲だ。小椋佳と堀内孝雄もこの曲を気に入ってセルフカバーしており、3人で一緒に歌ったコンサートもある。
顧みて、恥じることない足跡を 山に残したろうか
永遠の水面の光増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に 俺の山河は美しいかと
七五調を核にしながらも景と句は漢詩的で、俗っぽさの内に古詩や夢幻を想起させるところがこの詞の妙味だ。もし保田がこの曲を聴いたなら間違いなく絶賛するはずだ。
けふもまたかくて昔となりならむ
わが山河よしづみけるかも
目のあたりの山川の景観さへ、「わが山河」とおのづからに口に出るところが、われわれの日常の風景観だつた。
このような保田の自然観は、小椋佳の詞に表れる人生観と何ら変わりはない。小椋佳自身は日本浪曼派周辺よりも北原白秋を愛読していたようだが、堀内孝雄がアリスで組んでいた谷村新司は亀井勝一郎を最も敬愛していた。いずれも立派な浪漫主義者だったのだ。
保田亡き後の歌壇は現代短歌・前衛派が席巻することになるので、純粋な和歌集を遺した歌人としては保田が最後になるかもしれない。一方、奇しくもこの「山河」が発表されたのは2000年のことで、20世紀最後の『紅白歌合戦』の大トリを飾った。私にとってはこの曲が最後の愛すべき歌謡曲なのだ。
慕情を誘う名曲に浪曼派時代の原風景を想い浮かべて、春の名残をより深く愛しむことにしよう。
