梅花書屋の夢【鎌倉の隠者35】
立春は過ぎたものの強い寒気団が居座っているようで、寒暁には開きかけた梅が凍えている気がする。
梅渓の幽居は古来から文人達の理想とする暮しなので、我が荒庭にもある数本の梅花が氷結して傷まないかと庵主としては心配になるのだ。
下の写真は伝説の林和靖の梅花書屋らしく、上方の深山には唯一この詩仙と共に棲んだ鶴が舞っている。

江戸時代の文人らに神聖視された林和靖(林逋)の、漢詩千古の絶唱と言われる『梅花』は池大雅の書で以前紹介した。
このような幽陰の庵に梅を愛でながら詩文を案ずる文人達の、高雅な夢幻郷を描いた図は我が国にも沢山残されている。
宮仕えで市塵に塗れながら世俗の柵から逃げられぬ多くの風雅の士達も、皆このような絵を飾り離俗の浄域に想いを馳せたのだろう。
古の詩仙に倣い私も鎌倉の幽居で拙い句歌を楽しんでいる。俳句は季語のお陰で身辺の四季の細やかな風物の目が行き、結果として名作が詠めなくとも文人の高雅な暮しの気分は十分に味わえるのが長所だ。
幽庵の陽は淡けれど梅真白 (自詠)
次は我が地元鎌倉の巨星、高浜虚子の梅の庵の句だ。

古萩徳利 茶器 大正〜昭和初期
東より春は来たると植ゑし梅
春の女神佐保姫の佐保は平城京の東にあり、春を呼ぶ東風の吹き来る方角だ。
また鎌倉も全国に先駆けて東風の吹く土地だから、庵の東庭に梅を植えたと言うこの句がいかにも似合うのだ。
戦前の鎌倉は山に囲まれた農村の面影の濃い所で、由比ヶ浜にあった虚子庵もまた古からの文人の伝統である俗世を離れた梅花書屋だった。
特にこの庵の椿や梅の春庭を詠んだ句は多く、彼がそんな文人風の暮しをどんなに楽しんでいたか良く伝わってくる。
あれだけ文人精神を深く理解し古き良き暮しを具現していた人物の草庵が、記録も保存もされずに壊されてしまったのは無念極まる所で、もし現存していれば現代人にも日本の理想の暮しの良き手本となっていたろう。
落柿舎に来てふと思ふ鎌倉の
虚子の庵は何と言ふ名ぞ
吉井勇も鎌倉の住人で虚子とはこの上無き風雅の友だったが、虚子には庵号なども無くただ虚子庵と言っていた。勇もたびたび虚子庵に遊び、互いに文雅の話は尽きなかった事だろう。
梅花書屋はまた花鳥の小楽園でもあり、俳句歳時記を見れば麗しき春の花や鳥の季語が綺羅星の如く並んでいる。虚子もきっと己が庵庭を季語の楽園としたかったに違いない。
今年は立春後も大寒波が居座り、鎌倉も数年ぶりの雪で一度開きかけた梅や椿も開花が止まっている。

日曜の朝方は我が谷戸にもうっすらと雪が積もっていたので、着膨れながらも荒庭で雪見茶を楽しもう。
厳寒の朝にも健気に咲く紅梅と椿を彩りに添えたが、この日は流石に鳥達の声は聞こえない。
静寂の雪笹の中で梅と茶盆の真紅が身の芯まで滲み通り、志野茶碗の薄紅の肌から両の掌に至福の温もりが伝わってくる。こんなひと時にはこの幽陰の小世界がしみじみ愛おしく思えてくる。
詩歌の徒、風雅の士としては年に一度くらいは雪の鎌倉を見たいと思うが、小動物達には梅が咲いた後の雪はさぞ難儀だろう。
春窮とは春が遅れて動物達に花の蜜や啓蟄の虫などの餌が不足する事で、ことに鶯は鳥の中でも小さく弱い方だから、冴え返りの朝は庭にパン屑やビスケットの屑を撒いてやるのが最近の日課だ。
そんな些細な事だけでも、鶯の初音を今日か明日かと待ち暮す日々がより一層希望の光に満ちた日々となるのだ。
