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花鳥諷詠の日々【鎌倉の隠者37】

【鎌倉の隠者】
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まだまだ冴え返る日も続くが我が荒庭は杏や木蓮が咲き出し、花期の長い数種の椿と共にいよいよ闌春の気配となって来た。

谷戸のあちこちの桜も早咲きの種は蕾も膨らみ、彼岸前後には染井吉野も見頃となるだろう。

我が谷戸の楽園で一番早く咲くのは、護良親王陵の山際に立つこの大島桜だ。

我が谷戸の早咲きの桜

あまり巨木にはならない種類らしいが、朝方の一瞬の光に神々しいまでの輝きを見せる時がある。

この桜と午前10時頃に山上から降り注ぐ陽の角度が上手く合う時には、愛用の100年前のライカレンズの幻視により、春陽の光芒と花の精とが揺らめき合っているように見える。年に1〜2日間だけ現れる麗しき春の小さな奇跡だ。

古いタングステンフィルムの青味がかったトーンも効果的だった。オールドライカのレンズとファインダーがこの通りの映像を生の現場で見せてくれるので、ブログ用の写真もネット上にアップロードする時の調整以外にはCG操作はほとんど必要なく楽に仕上がる。

もう少し朝早い時間のこの木には小鳥達が蜜を吸いに次々と訪れているが、もう私の病眼では動きの速い小鳥にピントを合わせるのは無理で、フルマニュアル機のオールドライカにはオートフォーカスなど付いてはいないのだ。

病眼に滲む桜の光かな (自詠)

以前これと似たような句を作っているのだが、こちらの方が完成度が高いので入れ替えたい。

普段書斎の入口に掲げてある高浜虚子の扁額を、仲春の花時には外への出入りの都度目に留めるように玄関脇に移した。

直筆扁額 高浜虚子
古民藝茶器 水差し 昭和前期

虚子のこの語は勿論古詩にある花鳥風月の捩りだが、詩歌を詠む者にとってはこれほど良い題語はない。この書は眼にするたびに、花の色香や鳥達の歌を慈しみ四季の月日を心から楽しめと教えてくれる。

彼の唱えた「花鳥諷詠」とはただ花や鳥の句を詠めと言うのではなく、自然の四季に深く親しむ詩的生活を送れと言う事で、禅の「三昧境」のように花鳥諷詠三昧の人生には至福の美しさ楽しさがあるのだ。

しかしその境地が一部の俳人達には理解できず、古臭い爺臭いと大反発を喰らった。「安閑と花鳥など詠んでいないで現代都会人の苦悩を詠め」とか、「所詮俳句など老人の暇つぶしだ」とかの稚拙な罵詈雑言が当時の俳句雑誌などに残っている。

現代人だろうが未来人だろうが所詮凡人達の悩みなど、禅で例えれば昔からありふれた煩悩の類いに過ぎず、詩歌に詠むにも値しない俗事だろう。

そんな世迷い言は未来永劫解決出来ないので、賢者は俗世からは離れて花や小鳥達と戯れている方が余程良い。また虚子はその書も一流で、文人の中では池大雅と並べても見劣りしない。

地元鎌倉の先達でもあり昔から機会ある毎に彼の佳句の短冊軸を集めて来て、いつの間にか12ヶ月掛け替えられる分揃っていた。お陰で四季の花鳥の楽しみに加え、四季十二ヶ月の床飾りまで楽しめている。

弥生三月は日本の風土が最も美しく感じられる季だ。

諸賢も是非野外に出てその風情を深く味わうと共に、千余年の日本文化の精粋である和歌や俳句の名作でも思い浮かべれば、己れもまた磨き抜かれた古い文化の一継承者である事を自覚享受できるだろう。

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