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兼業作家の仕事術 ─コミュニケーションと時間を手に入れろ!─


筆者とデスク風景

ある日のDM

ちょっと前に、年下の友人からDMが届きました。
「本当にどうすればいいかわからなくなりました。伏見さんは全てうまくやっているように見えます。どうすればいいんですか?」

働きながら文筆業を始めた彼は職場で悩みを抱え、そのせいで書き仕事もうまくいっていないということ。
時間にも追われていて、若さがどんどん奪われていくことに焦りを感じている。
会社で働くことに希望を持てないし、とはいえ書くことでは生計が立てられない。
どちらにフォーカスしていいかわからない。先が見えない。
そんな思いを、率直に吐露していました。

こうした悩みは、決して珍しいものではない。
他の人と話していても似た悩みを聞くし、なにより私自身が同じような悩みを抱えていました。

であれば、私がどのように悩みを解決していったのかを具体的に書いていけば、色々な人の役に立つのではないか?
そう思って、このnoteを書くことにしました。



序章 兼業作家はどうやって生きてきたか


兼業の文筆家・YouTuberはどうやって時間を作ってきたのか。どうやって生活してきたのか。どうやって生きてきたのか。

私は「てけしゅん音楽情報」というYouTubeを運営している「しゅん」こと伏見瞬と申します。「てけ」こと編集者の照沼健太くんと二人で「今の音楽がわかる」動画を発信しています。

さらに、私は文筆家として、音楽や映画に関する文章を書いたり、ラジオやPodcastやトークイベントで話したりしています
下記リンク先はその一部です。

同時に私はYouTube出演・運営と文筆業と兼ねて、月〜金の日中に会社員として勤務していました。
某企業の営業職として、ずっと働いていました。
そして、収入の安定が見込めるようになり、もっとやりたいことにフォーカスしたいと思い、2025年の9月をもって16年間続けた仕事を辞めました。

なんでそんな生活ができていたのか?どうやって生きてきたのか?

ここでは、「YouTuber」兼「文筆家」兼「会社員」としての仕事術を、紹介していきます。
同時に、私が生きていく上で感じてきたいくつもの苦難をどのように克服してきたかを、語っていきます。
現在と過去をそれぞれ描くことで、立体的に役立つ話ができると思うからです。

DMを送ってきた友人の悩みは、三つに分けることができます。

1.職場での人間関係がうまくいってない
2.忙しくて時間が足りない
3.会社の仕事にも副業にも将来的な展望が持てない

これら全て、私も抱えたことのある悩みでした。
この一つ一つの悩みに応えるような文章を書いていきたいと思います。


第1部 人間関係がうまくいかない人へ

第1章 そもそものコミュニケーションから学ぶ

コミュニケーションは「外国語」だった

会社員として働くにも、作家としてやっていくにも、YouTubeを続けていくにも、基本的なコミュニケーションは必要になります。
時間をうまく使うためには、人の助けや協力が必要です。
人生に希望を抱くことにも、人との関係が重要になっていきます。
つまり、あらゆることにおいて人間関係は基本になってくるのです。

コミュニケーションがうまくできないと、大変大きいビハインドを負うことになる。
なので、コミュニケーションに関しては多めに語っていきたいと思います。

私自身、幼少期からずっとコミュニケーションでうまくできなかった。
本当に他人との距離がわからない人間だったのです。
だからたくさん悩んだし、たくさん苦しんだ。仲良くなりたい人たちが自分の前に楽しそうに歩いていて、自分は輪に入れずに一人でいる。向こうが私を敬遠していることは知っている。そんな状況で息が詰まりそうだったこともある。あの日の秋の空気の冷たさを、今でも体に感じます。

何が苦しいって、自分の苦しみが他人のせいだと思えないことです。迫害されるのも、自分のコミュニケーションのせいだとしか思えなかった。
コミュニケーションができない人は、容易に人を傷つけます。
距離感を間違えた言葉は、人に強く不快な思いをさせる。
普通の会話をするつもりで、加害者になっていることがあるのです。
だから、他人が悪いなんてこれっぽちも思えなかった。
誰のせいにもできない苦しみは、ひどく耐えがたかった。

学生時代の私にとっては、「コミュニケーション能力」自体がまるで外国語のようでした。みんな普通に話せているのに、僕だけ話せない言語みたいだった。
いつのまにかわけもわからないまま、自分だけが蚊帳の外にいる。そんな経験が沢山ありました。

だから私は、コミュニケーション能力を意識的に身につける必要がありました。外国語を学ぶように、コミュニケーション能力を身につけた。
それはつまり、コミュニケーションのルールを意識して学習した、ということです。

コミュニケーションには法則があり、お約束がある。
いくつものルールが構造的に重なることで、コミュニケーションは成立している。
そのルールを身体化していけば、意思疎通の苦手な人が得意な人に変化できる。
経験上、僕はそれが真実だと確信しています。


ふざけても誠実でもいけない

今考えると、子どもの頃に私が嫌われたことも納得できます。あれはマズいよなぁ、という記憶が山ほど浮かぶ。
たとえば、自分にとっては親しみのつもりで友人のことを馬鹿にして、それが原因で嫌われることがありました。
テレビのバラエティだと、人をいじったりすることでコミュニケーションが成立している。その楽しそうな雰囲気に憧れて、実際に自分でやってみるとただ嫌な思いを与えたりするだけでした。

ふざけたりじゃれたりすることは、互いのルールを無言で理解していることが前提の、非常に高度なコミュニケーションです。
僕は初対面の人間にもふざけたものいいをするところがありました。

とはいえ、会話にユーモアやスリルが必要なのも事実。
ただ、距離をとって丁寧に接していれば仲良くなれるわけではありません。ふざけあうことで親密さが生まれるのも、紛れもない真実なのです。

コミュニケーションの苦手な人は、ここでダブルバインドに陥ります。
「距離感を保って、ふざけずに」と「距離を近づけて、ふざけろ」のルールが同時に発生している。
どっちなんだ!と怒りたくなります。

しかし、これは実際はダブルバインドではない。矛盾したルールがあるわけではありません。
ルールは、時間の経過によって変化するからです。


アピールはいらない

初対面では、親切さや丁寧さが大事です。最初から互いのことを詳しく知る必要はない。
自分を面白い人間だと、個性的な人間だとみせる必要もありません。

多くの場合、そうしたアピールは逆効果です。冗談を言うにしても、他人を馬鹿にしたりするものではいけない。

人と出会った最初のタイミングは、警戒心を解くことだけを考えたほうがいいと思います。
かつ、いきなり親しみやすさをおしつけてもいけない。
初対面で、仲良くなる必要はないのです。

存在を認知されて、嫌なイメージが相手に付属しない。それだけで十分だし、それ以上を求めてもいけない。
無理に喋る必要はありません。簡単な自己紹介をして、あとは相手の話を聞いていればいい。
それ以上の展開は、次回以降に任せます。

人間関係で大事なのは、効果を急がないことです。
初対面の人が冷淡でも、落ち込む必要はありません。
次に会ったときに、相手が思いのほかフレンドリーになることがあります。警戒心が解かれるには、ある程度の時間が必要なのです。

世の中にはいきなり他人と仲良くなれる人もいます。それは非常に勘が優れた人でしょう。
しかし、そんな難しいことができる必要はない。
繰り返し会う中で関係を築くことは、初対面で仲良くなることよりも、遙かにハードルが下がります。


ルールが変わるのがルール

ふざけたりじゃれたりすることは、ある程度の関係ができたときにはじめて必要とされます。
3、4回会ったあたりが一般的でしょうが、回数は重要ではない。
重要なのは、人間関係において、ルールが途中で変わることです。

向こうの表情や口ぶりに親しみが表れたら、それがサインです。
人によっては、2回目会ったときにすでに親しみがでているかもしれないし、5、6回会わないとでないかもしれない。
サインがみえたら、ちょっと距離を近づけてふざけたことをいってみたり、自分の中のネガティブな気持ちを少し出してみる。
その反応を見て、相手との距離を測っていきます。
距離を測るやり取りの連続の中で、信頼を抱きつつの心地よい距離感が発生するようになります。

もちろん、親しみを一切出してくれない人もいる。
そういう人とは、縁がないと考えておくしかない。
でも、数年経って再会したら親しく話せたりするので、人間関係は不思議なものです。

逆に、初対面ではとてもフレンドリーだったのに、次会ったときに距離を取る人もいます。
私も少しこの傾向があるのですが、このタイプの人は、社交性を自分の義務だと感じている人です。
初対面では互いの自己紹介で社交が成り立ちますが、次会うときにどうしたらいいかわからなくて、社交を放棄する人です。
しかし、それが相手への拒否を意味するとは限りません。複数回会う機会があれば、親しみは増していく場合もあります。

いずれにしても、一回会っただけで人に近づくことは普通できない。
そのときに盛り上がってもそうでもなくても、初対面であらゆる距離を超えることはないのです。


当たり前がわからない人のために

話すのは嫌いじゃないけど初対面が苦手だ、という人がいます。
僕が観察した限りで、そういう人は意外と信頼できる友人関係を持っている。
初対面が苦手という意識を持っている人はいきなり距離を詰めるふるまいがなく、少しずつ距離感を変えることが自ずとできているからだと思います。
結果的に、人との関係作りに成功している。
これは、初対面で和気藹々と話したあとで、早めに関係を築こうとして失敗したことのある、僕自身の経験からも言えることです。

初対面は距離をつめすぎてはいけない。いきなり自分をアピールする必要はない。
いまの僕にとっては至極当たり前のことですが、高校生や大学生のときの僕は本気でわかっていませんでした。
この文章が、かつての僕と同じように人間関係に苦しんでいる人の参考になればと思います。
外国語を学ぶようにルールや構造を身体に少しずつ染み込ませていけば、苦しみは減っていくはずです。


第2章 発達障害者の自己啓発書サバイバル

「顔が広い」

この章では、コミュニケーションと読書との関係について書いていきます。
本を読むことが、どのようにコミュニケーションや社交に役立たせられるか。

私は、文筆の仕事を始めてから、よく「顔が広い」と言われるようになりました。
人から言われるまで「顔が広い」と思ったことはありませんでした。
でもたしかに、私にはライターや編集者はもちろん、音楽家・小説家・映画監督・劇作家・美術作家・デザイナー・経営者などの友人がいます。
そこには、有名な賞を取っていたり、世間で知られていたりするような作家の方も含まれます。

文化産業の多分野に広く知り合いがいるという点で、たしかに私は顔が広い。文学フリマのような催しに出店すると、知人・友人への挨拶で一日が終始したりします。
幅広い仕事が飛び込んでくるし色々な情報を得ることができるので、顔の広さが私の仕事の武器になっているのは間違いありません。

しかしながら、私はもともと大変にコミュニケーションが苦手な人間です。
今年2025年に公開された映画『ファースト・キス』にこんなシーンがあります。
主演の松村北斗さんは古代生物学者の役(※)で、もう一人の主演である松たか子さんに向けて自分の好きな古代虫の話を延々と続けます。
松村さんの役は、他人が見えていない、人とのコミュニケーションがうまく取れない人として描かれている。
今風の言葉でいえば「発達障害」の傾向を感じさせますし、その傾向は二人の結婚生活が破綻する一因になっています。

※正確には結婚を期に学者の道を諦めて会社員になる役なのですが、タイプスリップものである話の筋を細かく説明すると脱線が大きいので簡略化します。

映画の中では、そうした発達障害的傾向も半ばチャーミングに描かれているのですが、実際に他人が見えていない人間はもっと面倒な問題を抱えます


ASD✖️目立ちたがりは最悪

私は、「ASD傾向がある」と医師から診察を受けたことがあり、長年付き合っているパートナーからも「ASDだね」とずっと言われていました。
そうした診断名を得たのはここ4,5年のことです。それまで、特に10代の頃は、なんで人とうまくいかないか、なんで人から嫌われるのか、理解できなかった。

私は昔から人気者でありたいという心情を強く持っていました。
この傾向は、ASDの性質と掛け合わさると最悪の結果を生みます
自分の好きな話ばかりして他人との距離感がわからないのに、声が大きく目立とうとする。
自ずと嫌われていきます。

具体的な例を一つあげるとわかりやすいかもしれません。
中学生の頃に、あぶらとり紙というものが世に出ていました。
私はオイリー肌なので、顔の油脂がよく取れました。その油脂を吸ったあぶらとり紙の模様が面白くて、友人に見せつけていました。
半年くらい後になって、友人から絶縁宣言を食らった時に、あぶらとり紙を人に見せるのは気持ち悪いという言葉も含まれていました。
言われるまで、それが「気持ち悪い」と認識されているとは、中学生の私は気づかなかったのです。

このような恥ずかしいエピソードが、いくらでも浮かんできます。
中学生の後半で、ようやく自分のコミュニケーションはなにか間違っているんだと気づきます。
しかし、どうすればいいかがわかりません。「悪口を言わない」という指針を立てましたが、それだけで事態は改善しない。
高校生の頃も、大学生の頃も、私はまわりから浮いていて、友人関係をうまく築けないことに苦しみ続けていました。


変化のきっかけ

ようやく、人並みの付き合いができるように感じられるのは20代の中盤です。
その辺りから、多くの人とそれなりに楽しい会話ができるようになっていきます。

何が変わったのか?

もちろん、人との会話のうまくいかなさに苦しむ中で、色々学んできたことがあります。
二度と繰り返したくないたくさんの失敗のなかで、自分なりのルールや身体知ができあがったとも言えます。
しかし、それだけではない。私のコミュニケーション不全を改善できるきっかけは、自己啓発書やビジネス書を読んだことでした。

それまでに、私はたくさん本を読んでいました。
大学生になった直後に周囲を溶け込めず、好きだった同級生に気味悪がられるようになったころには、なんらかの救いを求めてヘッセの『デミアン』を必死に読んでいました。
在学中に、ドストエフスキーもニーチェもフロイトも大江健三郎も三島由紀夫も読みました。
まぁ、一般的なインテリ文系大学生と言っていいのかもしれません。
そうした本は好きだし、今でも読みます。

しかし、そうした古典的な書物は、人と円滑にコミュニケートする方法を教えてくれませんでした。
音楽が好きだった私はバンドで成功したかったので、卒業後はとりあえず残業が少なそうな会社に入りました。
しかし、入社してから、そこでの業務が全く向いてないことがわかりました。他の人に比べてスピードも遅いしミスも連発する。
しかも周囲はヤンキー的な、休日にはパチンコ行くのが当たり前みたいな人たちに囲まれた環境。
周りからは冷たい目で見られだし、非常に苦しみます。

その頃。
ずっと、自己啓発書は詐欺みたいなものだとなんとなく馬鹿にしていたけど、是が非でもどうにかしないといけない一心で一冊の本を手に取っていました。
『「人たらし」のブラック心理術』という本でした。


自己啓発から基本を学ぶ

いかにも胡散臭い、自己啓発臭がぷんぷん漂うタイトルですね。
しかし、手にとって読んでみると、なかなか馬鹿にできない。
これは、人との上手な接し方について書かれた本でした。

本にはこのような項目が並びます。

・〝性悪説〟を信じて行動せよ
・人間関係では、〝細かいこと〟こそ気をつける
・人に会う前に、「舞台」を整えておく

〝性悪説〟を信じるとは、人の関係は脆弱であり、親しい仲でも驕るな、という意味です。
人間関係は「善」より「悪」に流れやすい、だから親しい仲でもサービスを心がけようという話をしています。

〝細かいこと〟というのは、挨拶であったり、ちょっとした冗談に笑って返したりといった、小さな出来事こそ気を配ろうといった話。

「舞台」を整えるとは、相手を迎えるに相応しい環境を作っておこう、話してる時に携帯電話をみないように、みたいな意味です。

…「ブラック心理術」というより、「人間関係の基本」じゃないですか?
この後、疲れてるときや空腹なときは不機嫌になりやすいから人と会うのを避けようとか、笑う時はきちんと声をだそう、みたいな具体的なアドバイスも出てくる。

私が感銘を受けたのは、「嫌われたらリカバリーは難しいから諦めよう」という話でした。
一度悪い印象を持たれるとリカバリーは非常に難しくなるのは実験結果でも出ており、無理に回復しようとしても得られるものは少ないという。データや実験の結果を論拠に持ってきているのにも、気持ちよく説得されました。
この本を読んだ後、私は別の部署に移るチャンスをものにして、それ以降の人間関係はかなり円滑になりました。
また、同時期にTwitterを通して知人・友人が増え、大きい読書会などにも顔を出し、色々な人との付き合いが増えていきました。
この時期に知り合ったのが、YouTubeチャンネルとこのnoteを一緒に運営しているてけくんだったりします。


質より量の社交術

本を読んだからといって、全てがいきなり解決したわけではありません。
本に書かれてる内容を実践するのが大事です。
効果のない方法は「自分には向いていない」と外していったり、効果的だと思ったらより洗練させていったり。
別の悩みが出てきたら他の方法を試したり別の本を読んだりと、知識と行動の積み重ねで少しずつ変えていきました。

先ほどの「初対面でアピールはいらない」というのも、中学から大学まで変に目立とうとして失敗を繰り返してから、ようやく気付いた知識です。

『「人たらし」のブラック心理術』で特に役立ったアドバイスは、「長くしゃべればしゃべるほど、信頼感は強まる」というものです。
話した内容ではなく、話した会話の量で信頼度が変わる。これもテキサス大学の実験で導かれた結果なのですが、たしかに、人に会って話した時間が長いほど、信頼は出来上がっていく。
質より量を大事にした方がいい。
「顔が広い」と私が言われるのは、興味を持った人とはなるべく会って話して、長い時間を共有しているからだと思います。
人と会う時間は、ケチらない方がいい。
むしろ、色々な人と会う時間を中心に、スケジュールを設計していきましょう。
そうすれば自ずとチャンスが回ってきたり、人からの刺激で新しいアイディアが生まれる。人との付き合いや情報収集から、リスクを減らすこともできる。
話を長くするのにも技術がいるのはたしかです。ですが、ひとまず人に会いに行くことはできる。
その時間は、たとえうまく話せなかったとしても、無駄にはなりません。


両極の効用

検索してみると、「発達障害と自己啓発書は相性が悪い」という内容の文章を多く見かけました。
しかしそれは、「本を読みさえすればうまくいく」という思い込みだとうまくいかないという話で、実践を加えれば社会生活に有効であることは変わりません。
そう考えると、難解な哲学書や古典的な小説も役には立っています。私が自己啓発書やビジネス書を読んでも全部を鵜呑みにせず「使えるところだけ使おう」という態度でいられるのは、その前に色々本を読んでいたからです。

私は大学の卒論でフランスの文筆家ジョルジュ・バタイユについて書きましたが、バタイユの思想は話のスケールがデカすぎる&キリスト教神学とヨーロッパ哲学が背景にある&実践するには破滅的なことばかり書いている、ということで日常的には全く役に立ちません。
そもそもバタイユは、役にたつこと=有用性という概念を批判した人でもあります。
しかし、普段の日々から感じ取ったものを別の観点から見るための力をくれるのは間違いありません。
そもそも兼業作家をやっていく人であれば、哲学書や小説は読んでおいたほうがいいですしね。

すぐに論旨を理解できる直接的に役に立つ本と、何を言ってるかわからない日常にすぐ応用できない本。この両極を行き来する。
両極の行き来は、二つの仕事を行き来する兼業生活ともつながりますし、人といる時間と一人の時間をどう行き来するかの社交のバランスにも繋がっていくものです。


第3章 会社員は「演技」する

劇団としての会社

この章では、会社員としてうまく働く方法を考えていきます。

兼業をしたいという方は、ほとんど全員が、何らかのかたちで会社に所属している方かと思います。
かくいう私も、新卒から現在の会社に入社して、15年以上所属しました。
文筆業を始めたのは2017年からなので、およそ8年ほど兼業を続けていた。

もちろん、皆さん、いろいろな会社との付き合い方があると思います。
どんな会社に勤めているのか、どういう思いで働いているのかは、人それぞれ。
ですが、ほとんどの会社に共通する、守らなくてはいけないルールが、 3つあると思います。

会社で守らなくてはいけないルール:
①始業時間に遅れないこと
②会社の利益のために働いてるという演技を続けること
③法律

以下、簡単に解説していきます。


「演技」が大事

①始業時間に遅れないこと
始業時間は、実は大事です。 フレックスだったりテレワークだったりを採用しているところもあると思いますが、始業時間に間に合わないと白い目で見られるのは間違いない。朝が弱い人、疲れやすい人にとっては、非常に厳しいルールかもしれません。

②会社の利益のために働いてるという演技を続けること
会社で働く上で一番大事なのは演技です。
会社は、全体が一つの舞台となっている劇団のようなものだと考えた方がいい。 実際にはいろいろな人間のいろんな感情やいろいろな思惑が渦巻いており、それを一つにまとめるということは大変困難。というか大きな会社であれば不可能です。
そんな中で全員が一つの会社として所属し、事業をきれいな歯車として回していく。 そのためには、全体の演技が必要になっていきます。
実際に会社に働いていると求められるのは、本当に会社の利益のために働くことではなく、「会社の利益のために働いているんだ」という演技です。

本気で会社の利益のために働いたとすると、 意外と評価されないというか、逆に上司から嫌がられること、 「ちょっと嫌だな」という雰囲気を出されることが結構あります。
こういう時に気づくんですよね。「実は上司も演技をしているんだな」と。 会社の秩序を保っている演技の質を変えて本気で働かれると、上司も困ってしまうのです。

そう考えると、「始業時間に遅れない」も全体の演技を保つための約束事だから、①と②はまとめてもいいのかもしれない。
とはいえ、時間遵守は「演技」の中でも一番わかりやすく基礎的で、例外的なほどに大きなルール。なので別立てにしました。

③法律
これは説明不要ですね。守っておくのが賢明です。

逆に言うと、その3つ以外は別に守らなくてもいい

もちろん、サボっているのがバレたらよくないけれども、 会社の利益のために働いているという演技を崩さないのであれば、全然問題ないのです。


飲み会に参加すべきか?

実際会社員として働いていると、会社にいる間に真面目に働くこと以上に、飲み会に参加することが求められたりもする
正直、めんどくさい、いきたくないと思う人もいるでしょう。
しかし、飲み会に参加していなと、爪弾きになってしまう可能性も否定できない。
どうするべきか?

ここでも、「劇団」として会社を考えることが役に立ちます。
「会社のために働く」演技に利する飲み会なら、参加した方がいい。
上役が若手社員とコミュニケーションを求めている、なんて場合がこれに当たります。
そこで参加しないということは、 一緒にこの劇団でやっていく意思がないんだな、と判断されかねません。
これは重要だ、という会には参加しといた方がいい。

その分、会社にいる間に自分の時間を作ればいい。
別に頑張らなくても大丈夫だなという作業は手を抜いてもいい。
重要ではない飲み会だったら、断っても問題はない。
会社で動く時の判断材料は、演技に必要かどうかです。

そのために、まずは自分のいる会社がどういう「劇団」かを認識して、 自分は何を必要とされているのか、言いかえれば自分の配役を考えて、役に合わせて演技をする
それさえできていれば、他は自由だと言って過言ではありません。

会社にいる間、演技をする時はきっちり演技をする。それ以外は自分の時間に使う。そのような時間の使い分けを早めに判断できれば、 会社とうまく付き合いながら兼業もできるのではないでしょうか。


会社で良好な関係を保つために

私はお固い一般企業、と形容できる会社に所属していました。

普通だったら、私はめちゃくちゃ浮くはずです。
当然、音楽に関する文章を書いたり、YouTubeをやったりしている人間は周りにいませんでした。
それどころか、本や映画が好きな人もいません。
批評家であることもYouTuberであることも会社には隠していますから、それに関する話もできません。
全くのひとりぼっちになってもおかしくないですが、意外と普通に溶け込んでいました。

内心「変な奴だな」とか「話づらいな」と思っている人もいるかもしれません。
でも、重要なのはうわべです。
うわべさえ整っていれば、ほどほどに馴染んでいれば、問題なく仕事は続けられます。

会社で悩むことも沢山ありましたし、今でも嫌になることはあります。
でも、人間関係で今は悩んでいない。
人間関係が良好なら、それだけで会社を続ける理由になります

会社で馴染めるかどうかは、究極は一つのことができるかどうかです。
これができていないと、他の社交術を頑張っても無駄です。
会社で働き続けている人から誰もがやってる、でもそういう人たちにとっては当たり前すぎて、なかなか言葉に表されない基礎がある。
社交性の第一条件があるんです。


「個性」は自分から出さない

それは、話し相手に同意を示すことです。
どんな話題でも「そうですよね」「わかります」「ほんとにね」と共感の言葉を返し、相手の発言を否定せずに受け止めるところから会話を始める。それだけで、一定の信頼関係が築けます。

会社内での業務上の会話、取引先や顧客との打ち合わせではもちろん同意が大事ですし、雑談でも同様です。「今日は寒いね」「最近忙しいですね」という会話は、特に意見を聞きたいわけではない。なんとなくの同意と、会話のきっかけが欲しいだけです。
こうした意味のない会話ができることで、相手との間に親しさが安心感の空気が生まれます。

会社や学校を一種の「劇団」だと言いましたが、同意に基づいた会話は、同じ演技を共有していることの確認なのです。
違う戯曲を演じている人は、会社の共同体から弾かれていきます。
共有された台本の中身を守るように、まず同意を示すことが円滑な人間関係の基本になるのです。
そこに、個性などは不要です。
同意のできる人間だということがわかってはじめて、各人の個性は意味を持ちます。

会話のモードは状況によって変える

もっとも、討論番組やトークイベントのように観客がいる場では、状況が異なります。
面白さや議論の深掘りが目的の場合、あえて違う意見をぶつけたり、適切なタイミングで相手の話を遮ったりすることが一つの技術になることがあります。
相手の話が停滞していると感じた瞬間に割って入り、議論を前へ転がすことで、聴衆にとって魅力的な展開を作り出せるからです。
もちろん、遮り方やタイミングを誤れば登壇者や観客に不快感を与えるため、場数と配慮が欠かせません。
会話の目的が会社の共同性の確認なのか、観客を想定とするショーなのか。時と場合によってルールやマナーは変わります。

同意をベースに会話すること。
これさえできていれば、仕事上の会話はスムーズに進みます。
それぞれの職場で色々な違いや細かい条件は異なってくるでしょう。
しかし、同意をベースに会話を進める態度は、どんな職場でも前提となるものです。
まちがっても、Twitterのレスバの真似をしてはいけません。
口汚なく人を論難する行為は働く人間の振る舞いではないと、理解しておいて損はないと思います。


第4章 会社員にも作家にも必要な「誠実さ」

会社における謝罪

会社員生活で鍛えられたことがあります。
それは、不快な人への耐性です。

会社にいる中で、嫌な思いをすることはもちろんありました。
態度の悪い顧客とやりとりしなきゃいけなかったり、嫌な同僚と付き合わなきゃいけなかったり、明らかに理不尽な上司のいうことに従わなきゃいけなかったり。全く好きになれない横柄な人間が事務所内で評価されていて、自分だけ蚊帳の外にいるようなこともありました。
しかし、今考えるとそうした全ては、この世界でどのように楽しく生きていくかのレッスンになりました。
 
お客さんが怒っていれば、絶対にこちらは怒りかえしてははいけません。
話を聞いて、謝罪の念を伝える。全くこちらが悪いと思えなくても、「申し訳ございません」のひとことを伝える。
しかし、向こうが無理な要望を押しつけてきたら、それについては柔らかく、しかし頑なに拒否しなくてはいけない。
その上で、「ご期待に添えず申し訳ござません」の一言は忘れない。


仕事は全て役割

私は10年以上営業の仕事をしていました。
顧客と営業の関係にとって、倫理や正義の如何は二次的なものです。法律の遵守は大前提ですが、抽象的な倫理を求めあう関係ではない。

なにより大事なのは「役割を演じること」
前章で言った「演技」ですね。

営業担当は、顧客のために最大の努力を尽くす。当然ながら、営業担当が本当に尽くしているのは会社の利益に対してです。顧客に対してではありません。これは原理的な構造の問題で、心のもちようは関係ありません。 
しかし、それを心の中では分かった上で、顧客のために尽くす演技を続ける。役割に応じた演技を続けなければならない。故に、お客さんに向かって怒ったりすることはあってはならない。
このような役割の意識を育てる上で、会社員としての仕事は大いに役立ちました。

上司との関係にも近いことが生じます。上司が指示を出し、部下が従うという関係は崩せない。関係を維持する演技を続けなきゃいけない。演技しながら、上司を誘導したりもできる。ダメな上司であれば、言うことをきくふりをしてきかない、なんてことも可能です(私もよくしていました)。
ただ、表面上は、従っていますという装いを崩さない。表面を崩さないことが、仕事全体を円滑に動かします。


謝っても尊厳は死なない

自分の感情を出さずに、顧客や上司と対応する。悪くないと思っても、必要があれば謝罪をする。
こうした行為のなかで、自分の尊厳が損なわれたと感じることはほとんどありませんでした。
「役割を演じる」ことをわかっていれば、そこに丸裸の尊厳はありません。心の整理のうちでちゃんとプロテクトされています。謝罪は、悪いと思っているからするのではなく、自らの担わされた役割だから行うのです。

一瞬湧き上がる感情と、自分の実存を支えているような尊厳は別のものです。感情的な反応を優先したところで、尊厳が守られるわけではない。そんなものを優先していては、ただのわがままになるばかりです。
役割を認識し、一度立ち止まって演技を続けることは、むしろ他人を受け入れる余裕を私にもたらしました。意見やフィーリングが違う他人が存在することを、受け入れられるようになりました。会社で働くことは、他者への感性を磨くレッスンになったのです。


ライターにとっての「誠実さ」とは?

こうしたレッスンは、文筆家やライターの仕事にも役立っています。「ライター稼げない問題」がソーシャルメディアで話題になったとき、「誠実に真面目に書いているのにお金にならないのはおかしい」と書いている人が複数いました。

しかし、仕事における「誠実さ」や「真面目さ」とはなんでしょうか。それは、表向きのルールを守って闇雲に仕事を続けることではありません。
自らの役割を感知し、それを全うすることが仕事における「誠実さ」です。

悪いことをせずに書き続けることは、誠実さでもなんでもない。他人や読者との関係や自らの役割をないがしろにしては、「誠実さ」や「真面目」なんて発生しないんです。
このような認識を、私は会社員生活で磨きました。今求められている役割は何か。ライターやnoteの書き手、あるいはYouTuberとして自分が求められているものはなにか。自らの立ち位置に敏感になって動き続ける。その繰り返しで仕事は成り立ちます。

実をいえば、僕が長く仕事を辞めるのを躊躇していたのは「兼業作家」としての発信を求められていると感じたからでもあります。働きながら物書きや作家活動をしている人の指針になっているのを、感じていました。
だから兼業をやめて専業になることは、読者が離れるリスクになる。てけくんが専業として発信し、僕が兼業として発信する役割分担もあやふやになってしまう。
それでも、自分のやりたいことをやりきるために、僕は会社をやめました。今、僕は新たな役割を感じ取って、それを改めて全うする段階にいます。


役割と「やりたいこと」

今回の話は、専業・兼業にかかわらず役立つ話です。プライベートの会話、夫婦や恋人との関係でも役立つ話です。役割は、上から振ってくるものだけではない。会社から与えられた任務を行うことだけが役割ではありません。複数の人間が共にいると、自然と発生するものが役割です。
自然と発生するものだから、常に変化もします。変わり続ける役割を見定めつつ、動き続けること。自分のやりたいことを犠牲にしろ、やりたくないことでも無理矢理やれ、という話でもありません。役割をあえて無視するにも、見定める作業は必要です。

そもそもやりたいことと言っても、「やりたいこと」なんてそんなにハッキリしているものではありません。求められた役割と、自らの状態との折衝のなかで自ずと生まれる方向性が、むしろ「やりたいこと」や「やるべきこと」と呼ばれているのではないでしょうか。
「やりたいこと」を明確にするためにも、役割に対する感性は磨くべきではないでしょうか。 


第5章 「悪口」の使い方

「悪口」をどう捉えるか?

今までの章でも書いたとおり、悪口はなるべく言わない方がいい。
馬鹿にされたり間違いを指摘される人は、基本的には不快な思いを抱きます。深く心を痛める場合もあります。
悪口や罵声や中傷はやめた方がいい。
でも人間は、「悪口を言いたい」「人をコケにしたい」「人の間違いを指摘したい」という欲望を多かれ少なかれ抱えている生き物です。
簡単にはやめられません。

兼業を望む方というのは、今の職場の環境に満たされない方だと思います。それは収入かもしれないし、人間関係かもしれない。会社の風土が嫌なのかもしれないし、自分のやりたいことを押さえつけているのかもしれない。
いずれにせよ、今の環境に違和感がなければ、わざわざ兼業しようとは思わない。

違和感を持っていれば、どうしても悪口につながっていきます。

以前に個人のnoteにも書いたのですが、自分の考えを鋭くすればするほど、人を批判しなくてはいけない場面も出てくる。
しかし、鋭く研いだ批判は、たとえ論理的に筋の通った正論であっても、人を痛めつけてしまう。筋が通っているからこそ、余計に傷つける可能性もある。

結局、「悪口」や「批判」を口にするための必要条件は、ただ一つだと思います。


直接批判する時は…

信頼関係を築くことです。

長い時間をかけて、信頼と呼べる間柄を持った上で、はじめて言葉のニュアンスや文脈が通じます。
人は、意見への批判と存在への批判を。なかなか分けて受け取ることができない。
存在を批判されて傷つかない人はいませんが、「あなたの存在を傷つけたいわけではない」というメッセージはなかなか意見や態度への批判とセットで伝わりません。

「意見は否定するが、存在は肯定する」。このセットを伝えるための事前準備が整っているか。そのことを考える必要があります。

もし、セットが整っていないと判断した場合は、批判を口にしない方が得策です。

逆に存在が肯定されていれば、悪口は結構上手く使えます。
映画『グラン・トリノ』で主人公役のクリント・イーストウッドがイタリア移民の床屋のおじさんと差別発言を連発する場面がありますが、あれは存在の肯定がすでに確認されている状況だからですね。
慎むべきとされる差別発言も、存在の肯定がお互いの間で成り立っていれば、ジョークとして機能することもあります。


悪口は「使える」

今までの話に対して「それは相手に対する直接的な批判じゃないか。ほとんどの場合、信頼できない相手、嫌悪感を覚える相手の悪口を言いたいんだよ」というツッコミが入りそうですね。

その通りです。私も書きながら自分にツッコミを入れていました。
「嫌いな奴の悪口を言いたい」がほとんどですよね。

しかし、これに関しても大事なのは信頼関係です。

悪口をいう、中傷をする、批判をする当人がいない場面。つまり「陰口」をするのも、相手を選ぶ必要があります。

信頼関係のある話し相手であれば、「陰口」は円滑なコミュニケーションのための良いツールにもなります。
「あいつクソだよな」「いや、マジで終わってるよ」なんて話をするの、正直楽しいと私は思ってしまいます。

恋愛や友情に関してよく思うのは、「好きなものより嫌いなものが一緒の人間の方が相性がいい」ということです。
上手く言葉にできませんが、人は好きなものよりも、嫌いなもの、許し難いものに当人の価値観やバイブスが強く出ます。
だから、嫌いなものを話すというのは、人間がより親密になるためにも必要な過程ともいえます。

そして、信頼関係のない相手と「陰口」はしない方がいい。
「嫌な人だな」と思われかねないし、逆に「陰口」をされる可能性も高まる。「怖い人だな」と思われて、距離を取られることも出てきます。


どこを見ても「社会」

ここまで来て言えることは、特定の個人に対するソーシャルメディア(特にTwitter)での「悪口」「中傷」「批判」は極力控えた方がいいということです。
当人に対する引用ツイートなどもってのほかです。

なぜなら、ソーシャルメディアは不特定多数の人が見ているからです。信頼関係がないどころか、存在すら認識していない人がほとんどです。
あなたが誹謗中傷を誰かにしているのを知らない人が見たら、他人の気持ちを汲まない嫌な人だなと思われるのがオチです。

「何かがおかしい」と批判する場合は、社会や業界の構造に向けた方がいい。
この人の意見は間違っていると思う時でも、当人を攻撃的に批判しない方がいい。
よく知らない人から攻撃されて、意見をかえる人などいないからです。
生活していたり、ニュースを見ている中で、「おかしい」「あるまじき事態だ」「どうにかした方がいい」と思うことがどうしてもある。
その際も、特定の誰かを痛めつけては元も子もない。
自分にとっては正義感の発露だとしても、受け取る人にとっては害になってしまう。
ソーシャルメディアは、正義と害の不均衡を生みやすい構造になっているから、特に気をつける必要がでてきます。

間違っている、よくないことを言っている人に対しても、その人と信頼関係を築かない限り、批判は有効ではない。
丁寧な言葉で説明するのも一つの手ですが、会ったことない相手だと上手く機能しない、というのが私の経験的な実感です。
ソーシャルメディアでの批判は、丁寧に説明しても「晒されている」感覚を生むから、説得は実際の会話以上に身を結ばない。
特定の人への攻撃的な批判を行うとき、あなたは意見が一緒の人からは賞賛されても、それ以外の人から遠ざけられます。

個人に対して批判していいのは、私たちの生活の良し悪し、というか生き死にを握っている政治家や大企業家に対してくらいじゃないでしょうか。
ただ、政治家への批判や罵倒にも、具体的な戦略はあった方がよりよいとは思います。

ソーシャルメディアも、結局は人が運営/運用している「社会」です。
会社の人間関係や友人関係と同じように、距離の遠い他人とは丁寧に接する方が良い結果を生むと思います。
「悪口」をいうなら、信頼できる間柄しか見られない鍵垢でこっそりやった方がいいですね。

ここまで書いて、私は今まで自分が書いたことをかなり破っているなと思いました…。
TwitterやDiscordで特定の人への悪口や批判を書いてきた。会社の、さして信頼関係のできていない同僚との間でも上司の陰口を言っていた。
それほどまでに、人を悪くいう、人を罵倒することの欲望は強固です。
自分の欲望と向き合いつつ、良い社交を心がけたいものです。


第2部 時間が足りない人へ

第1章 兼業作家の時間術

会社勤務とYouTubeとnoteを全部やってる

現代の人はみんな時間が足りないと感じています。
たくさん働かないと食べていけない。でも日々の充実のためにも時間をかけなきゃいけない。睡眠だってちゃんと取らないといけない。
兼業の人なら尚更でしょう。
では、現代の大きな問題、「時間がない」をどう解決するのか。

週5回、月から金まで勤務しつつ(リモートなし)、YouTubeとnoteを毎日更新して、空いている時間で映画を観て人と会って6時間以上寝る。そんな生活を、私は毎日続けていました。

そんなことを言うと、時間管理がすごすぎる、どんだけすごい管理をしているのかと思われるかもしれませんが、たいしたことはしていません。

思わずTwitterを長くみてしまったり、やることあるのにYouTubeを流し見してしまったりと、無駄な時間を過ごして後悔することは多々あります。
規則的な生活がしたいと常々思っていますが、夜更かししてしまったり、昼前まで眠ってしまったり、不規則な1日になることもしばしばです。
むしろ、多くの人に比べて行き当たりばったりな生活になっている気さえします。
少なくとも、特別効率的な生活をしているとは言えない。

では、何が違うのか?


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