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十日間の関係 第1話 1日目 静寂の海(非定型恋愛 前半17話)連載中

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第1話 1日目 静寂しじまの海

「先生?」
 玄関を開けた時、家の中が暗かった。そのことに酷く、嫌な予感がした。あの人は夜に出歩くことなんてほとんどない。せいぜい個展のオープニングやクロージングでパーティがある時、くらいだ。それにしたって予め連絡がある。
 自分の動揺ぶりに混乱しつつもリビングの半分を占領したアトリエに飛び込み電気を点ければ、大きなバツが乱暴に刻まれたキャンバスが目に入る。益々胸騒ぎがしてスマホをコールすれば、すぐ近くのサイドテーブルから聞き慣れた音が聞こえた。スマホの隣の小さな書き置きが目に入る。
『気晴らしに海を見てくる』
 そしてその後に淡々と続いた文字に体温が一気に下がる。

 海。
 時計を見た。22時。
 こんな時間にスマホを置いて?
 家を出たのは一体どのくらい前だ。ここから海までは電車でおよそ30分程。樺島かばしまは免許を持っていない。駐車場に置きっぱなしの車に飛び込み、一路海を目指す。
 柔らかなエンジンの振動が鼓動の速さと同期し、ますます不安が煽られた。手におかしな汗をかいている。革のハンドルカバーがぎゅいと摩擦し、熱を持つ。ここ一週間ほど、樺島の様子は特におかしかった。それは知っていた。毎日のように描きかけの絵にバツが入れられていた。描けないと苛ついた声でつぶやく姿はいつもよりさらに不安定に感じた。
 けれど声のかけ方なんてわからなかった。俺は画家じゃない。だからその悩みなんてわからない。
 陽は既にすっかり落ち、夜の闇に次々と現れては消え去る街灯の光の連続にスピードを出しすぎていることに気づく。頭は冷静になろうと努めても、気は焦るばかりだ。

 樺島が自殺する。
 樺島がいなくなる。そんな嫌な想像ばかりが湧き上がる。ずっと予兆はあった。きっと、見ないようにしていただけで。
 車外の闇が一層冷たく感じられる。湾岸道路に差し入り、左手に昏い海が現れうっすらと月明りを反射している。この道は神津こうづ湾の長い海岸線に沿って続いていて……樺島なら、どこにいるだろう。頭を必死に働かせた。
 孤独だ。
 たくさんのトラックが両脇でひしめき先を急いでいる。けれどそれらはバラバラに目的を持っていて、俺があてどなく踏みしめるアクセルはどこにも繋がっていなかった。、俺のこの、どこからともなく訪れる焦りはただ樺島のいない車の内側に反響しているだけで、いや、けれど。
 海。樺島が行きたいと言っていた海。

「また来ようよ」
 記憶の中の樺島がそうほほ笑んだのは確か去年の夏だ。暑い夏だった。サーフィンに行こうと誘われてついていった。あれからもう、1年と少しが過ぎた。記憶を辿って駐車場に車を停め、ザリザリと砂浜を踏みながら樺島の名を呼ぶ。その声は冷たい波が寄せる音に打ち消される。
「樺島先生!」
 焦りをつのらせながら左右を見渡す。暗い。ひょっとしたら違う場所かと考えた矢先、波間に何かの影が目に入る。その瞬間、世界から何故だか音がしなくなった。
「先生?」
 思わず叫んだ声が耳にこだまし、頭の中に響き渡るゆらぎが波の音を連れて戻る。慌ててスマホのライトを向ければ闇の中に淡く浮かぶシルエットは不確かに樺島のようで、大柄な体の腰丈まで海に浸かる姿はその先の海の暗さとあいまって一枚の古い写真のようにどこか不確かに滲み、そしてまた眺める黒い海に紛れる。そう、ちらちらと闇のまにまに垣間見えるその姿は何故だか妙に綺麗で儚く、その儚さにこのままでは夜に飲まれて消えてしまいそうな恐怖に襲われた。だから冷たい波間にザブリと足を差し入れるのに躊躇はなかった。

「樺島先生! 何やってるんです! 戻ってきて!」
 足は波に抵抗されるように阻まれて、思うように進まない。
 けれどまだ、確かにそこにいる。ただ波の音で聞こえないのかもしれない。そう思って更に大きな声で怒鳴るように呼べば、ようやくその影は振り返る。ばちゃばちゃと重たい水に足を絡め取られながら息を切らしてようやく樺島の前までたどり着いた時、俺は胸下まで水に浸かっていた。寒い。心臓の近くにまで至るその水の冷たさに身震いする。樺島の手を取れば、氷のように冷たい。見上げる表情は闇でよく見えないが、心ここにあらずといった様子だ。けれど、よかった。ほっと漏れた息は海の冷たさと比例して暖かく感じ、そしてすぐに再び冷たくなった。
「とりあえず出ましょう、ほら。風邪引くから」
「……いつき?」
「え? ……ええそうですよ、浅井あさい樹です」
 樺島の問いかけに混乱する。樺島は俺をいつも浅井君と呼ぶ。これまで名で呼ばれたことはない。
 海岸まで戻って気づく。樺島の髪から雫が滴っていた。
 潜った。海に。
 こんな時間に。
 こんなに冷たい海に。
 ふいにまた、目の前の樺島の存在感が夜に紛れるように薄くなる。思わず体を抱きしめれば、芯まで冷え切っていた。まるで死人みたいだ。
 明かりを求めて辺りを見渡しても何もない。この海岸は夏は人が溢れるけれど、今は泳ぐ時期じゃない。そうして秋の冷たい風が傍を吹き抜けるたびに体温を奪っていく。ピピと鳴らした車のキーに漸く反応があり、闇の一部にライトが灯る。
「早く帰りましょう。風邪を引いてしまいます」
 震える手でエアコンを全開にする。車が水浸しになることを少しだけ気にしつつ、樺島が大人しく車に乗ったことに安堵する。

 何故、海に入ったのか。
 それはきっと、スランプだからだ。
 けどスランプが何かすら、俺にはわからなかった。だから今、聞いていいのか、声をかけていいのかすら判断がつかなかった。様子は明らかにおかしいし。
 チラチラと隣を見ながら握るハンドルだけが俺に感じられる確かさで、ハイビームで切り裂かれる道を飛ばして漸く家につき、転がるように風呂に湯を貯めリビングに戻れば、樺島は帰った時とかわらずに静かに立ちすくんでいた。そうしてまた、不安になった。
「先生、どうしました? 着替えないと」
「着替え?」
 いつもと違う平板な声。いつもはもっと。
「本当にどうしたんですか?」
 樺島の腕を取れば、ようやくふらふらと視線を左右に動かした。まるで初めて見る場所のように。
「まさか、記憶喪失とか言い出すんじゃないでしょうね?」
「記憶は問題ありませんが……うまく繋がりません」
「何で丁寧語?」

 見上げれば、いつも綺麗にカールしていた髪が海水でごわついている。いつもは大げさな表情が溢れるその顔からは感情が抜け落ち、少し青くなった表面はやっぱり死人のようだ。そう思うと急に、どうしていいかわからなくなった。本当に海に潜った。きっと、本当に、死のうとした。
 口の中が苦い。
「とりあえずお風呂に入ってください。体を温めないと」
「……はい」
 それでもなかなか動こうとしない樺島の手を風呂場まで引く。樺島の服を部屋からとって風呂に置きに戻れば、どうやら風呂には入っているようで安心した。自分の体も酷く冷たいことに気がつく。
「お湯は残しといてください」
「……一緒に入りますか?」
「はい? ……いえ、先生が入ったあとに」

 一緒に? 何の冗談だ?
 いや、きっと混乱してるんだ。あんなに寒かった……から。
 急いで服を洗濯機に放り投げ、干してあったタオルで全身を手早く拭いて自室で着替えてようやく落ち着く。そうしてどうしたらいいか、考えた。
 樺島は多分、自殺しようとした。
 それは多分、絵がうまく描けなくなっていたからだ。
 そこでやっぱり、止まる。
 その意味がわからなかった。何故絵が描けなくなれば死ぬ。そう思って思い出し、慌ててリビングで大きなバツのついた絵を部屋の隅に反対向きに片付ける。きっと刺激するようなものは目に入れない方がいい、多分。
 お湯を沸かす。紅茶の棚からジンジャーティの缶を取り出し、カップを2つ温める。ジンジャーティは体を温める。他に何か、簡単に食べれるものでも作ったほうが良いだろうか。不意に背後から声がかかる。
「お風呂、ありがとうございました。入ってください」

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