あけぬ夜はなし 第14話 人の心(明治ファ全19話50000字)連載中
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14.人の心
夕霧の部屋に上がり、陽二郎は夕霧を真っ直ぐに見つめた。昨夕見た嫋やかな夕霧と同じであったのに、僅かに歯の根が震えた。極力今の夕霧を目に焼き付けようとした。けれども青山の言う通り、今朝の夕霧の、つまり化物の姿がちらりと脳裏を巡る。
食欲はまるでなかったが、運ばれてきた粥からは上品な鰹出汁の香りと梅の酸味、紫蘇の爽やかさが漂い、その胃の締め付けをわずかにやわらげた。
平常。
陽二郎は奇しくも、食事という普段の営みによってそれを漸く取り戻していた。そして自らの目の前に座る夕霧が今朝までの夕霧と同じで、しかもそれを継続しうるものだと何とか思い込もうとした。
今の目の前の夕霧はこれまで陽二郎が見ていた夕霧と同じものだ。決して恐ろしいものではない。朝の日を浴びなければ夕霧は夕霧のままだ。けれども光を浴びてしまえば……思わず体が硬直する。その心配そうに見つめる瞳すら恐ろしい。朝の夕霧が陽二郎に向けていたのは確かに愛の一種だった。それがあの夕霧の瞳からはありありとわかった。わかってしまった。
「主さん……」
陽二郎は夕霧の涼やかな声にびくりと肩を震わせた。昨日聞いた嗄れた声とは全く違うのに、自身の頭では何故だかあの化物と同じものと認識されたからだ。夕霧は僅かに、寂しそうに表情を変えた。そして夕霧も自分を、陽二郎の変化を観察していたのだろうということに思い至った。
「主さん、お越しいただいてありがとうござりんす。それだけでわっちは、嬉しゅうて泣きそうでありんす」
「夕霧……」
夕霧はいつも通り儚く微笑んだが、その目元にはいつもより強い憂いが滲んでいた。陽二郎は今朝のことは幻だ。幻覚だと更に強く刻み込む。そうすれば僅かに心は平たくなった。
このまま幻覚だと思えば、これまでと同じ暮らしが過ごせるかもしれない。陽二郎はほんの少しだけ、そのような期待を抱いた。けれどもそれを許さなかったのは夕霧だった。
「主さん、今朝のわっちも本当のわっちでありんす。わっちはあのような化物でありんすえ」
「やはり幻覚では、ないのだな」
「あい」
夕霧の瞳に浮かんでいたのは諦めだった。それもこれまでより一層深く、その分妙にすっきりとしていた。つまり夕霧は自身との関係を完全に諦めてしまったのだと、陽二郎には感じられた。
「このままでは、これまでと同じ関係では、駄目なのだろうか」
陽二郎の口から出た言葉は、自身でも感じられるほど空疎だった。夕霧も当然そう感じたのだろう。その返答は優しく冷たかった。
「主さんがそうされんすなら、そうしておくんなんし。わっちももはや、今朝のことは申しんせん」
自身と夕霧との隔たりは更に大きくなったと感じた陽二郎がそれを否定しようと夕霧の手を取ろうとしたが震えて取り落とし、その唇に口づけをしようとすれば、今朝の割れた夕霧の顎門が脳裏に浮かび、近寄ることさえままならぬ。
そのような陽二郎の姿を見て、夕霧は儚くため息をついた。
「お父様はきっと、こうなるのがおわかりでありんした」
「楼主殿が?」
「随分昔にもわっちを身請けしたいという方がいらしたんす」
夕霧が言うには、その時は幽凪は一言、やめておきなさい、とだけ言ったそうだ。夕霧も上手くいくはずもないと思い、素直に幽凪の言う通り身請けを断った。その男は身請けできぬと知れば、蝋燭の炎が燃え尽きるようにやがて訪れぬようになった。これまで日を置かずに続いた訪れがなくなり、数ヶ月経った頃、夕霧は幽凪を詰ったという。
「どうせ上手くいきんせん。どうせ無理でありんしょう。けれどもそんなら、一度だけでも」
「夕霧、私は長く生きている。だから人を見る目というものは、お前よりは確かかろう。あのお客は駄目だ。決してうまくいかないよ。一縷の望みにかける余地もない」
「けれども」
「ただお前に恐怖し、あっという間にお前を化物と見切り這々の体で逃げ出して、二度とお前の元には訪れまい。そのように嫌悪で終わるのよりは良き思い出としたほうが双方に良かろうよ」
その時は夕霧も何故だと思った。
そしてその後、幽凪が止めた身請けに同意した遊女は芳しくない扱いを受けていることに気がついた。そして極めて稀に、幽凪が止めなかった身請けについては、その後も手紙の往来が続き幸せにしている様が浮かびあがった。
そうしてやはり、幽凪の人を見る目というものは確かで、自分があの時身請けされればやはり上手くはいかなかったのだろうということも思い当たった。土台、人の世で日の光を浴びぬまま暮らすというのは不可能なのだ。
そうして夕霧の胸には、身請けをすると言った男との、淡い思い出だけが残った。
「お父様が主さんとの身請けに何も仰られんし時、ひょっとしたら上手ういくのかもしれぬと思いんした」
「夕霧」
「上手ういくはずはありんせんのに。けれども主さんはわっちの全ての姿を見せても会いに来て頂けんした。わっちはもう、それだけで心が裂けそうになるほど嬉しいんす」
そう述べて、夕霧は儚く、けれども嬉しそうに微笑んだ。陽二郎はその瞬間、夕霧との間に生じた断裂の正体を認識しした。化物と人間の間の断裂ではない。目の前の夕霧と自分自身との間の断絶だ。夕霧は俺との将来を諦めている。
夕霧が例え化物の姿を持っていたとしても、今目の前の人の姿の夕霧が失われるわけではない。そのように心に刻んでいたではないか。それなのに、陽二郎の目の前で遠くなりゆくのは、これまでと同じ夕霧だった。化物ではなく、夕霧か。
陽二郎にとって化物は恐ろしかった。けれども何より恐ろしかったのは夕霧を失うことだったと思い出した。
陽二郎は諤々と震える腕で夕霧の肩を抱き寄せ、極限まで強張った顔でその艶やかな唇に僅かに口をつけた。
夕霧の瞳は最大にまで見開かれ、その刹那の接吻が終わった時、夕霧からこれまで見たこともないほど幸せそうな涙がほろりと溢れた。
「夕霧、俺はお前が愛しい。生涯の伴侶と思っている」
「あい」
「けれどもお前の身請けができないことも理解した」
「あい」
「お前は今朝のお前もお前だと言っていたな。一つだけ問いたい。お前の真実の願いは俺を食うことか」
陽二郎の血を吐くような問いに夕霧は目を伏せ、けれどと間も無く目をあげて、僅かにまつ毛を震えさせながら真っ直ぐに陽二郎を見つめた。
「……そうでありんす。主さんにはお分かりになれんしょうけど、ひとつの血肉となり混じれば二度と離れることはありんせん。わっちにとって、ずっと一緒にいるとは、そのようなことでありんす。けれども夜の間はそんなことにはなりんせん。これまでと同じでありんす。夜がわっちの人の心を守ってくれんすから」
夕霧の言う人の心という言葉が、これまでの陽二郎との逢瀬を思い起こさせ、それもまた真実であることが陽二郎の心に沁みた。
「……そうか。俺にはよくわからない。けれどもこれで、俺とお前の間に隠し事は何もないか?」
「全てでありんす」
「そうか」
陽二郎はそれを信じることにした。そして信じるということがどういうことか、考えることにした。
陽二郎は未だに夕霧の人である手のひらに触れ、軽い接吻をすることが恐怖の限界だった。だから夕霧の部屋にもう一組布団を敷いてもらい、手を繋いで眠りについた。陽二郎にとってはそれが精一杯で、夕霧にとってはこれほど幸せで良いのだろうかと思う日々だった。
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