あけぬ夜はなし 第2話 化物楼の遊女(明治ファ全19話50000字)連載中
明治時代の話なので、不適切な表現があるかもしれません。
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2.化物楼の遊女
陽二郎は幽凪屋を出て新地大門をくぐり一直線に西に足を向けてしばらく進み、淹れたての華やかな香りに振興区手前の珈琲店凱旋前で漸く足を緩めた。神津湊にある居留区に住む外国人が最近流行り始めた珈琲を供する店だ。陽二郎も初めはこの泥水のような液体に辟易していたが、外国人の顧客などと立ち寄るうちにいつしか毎朝通うようになっていた。
振興区は神津市が産業振興のため、新進気鋭の若者に店舗用地を安く貸し出しまたは売却している。陽二郎は新地で投資家を名乗る青山から、破格の条件で出資を受け、白河屋の屋号で帽子店を営んでいた。
イギリスパンを頬張りながら、いつも通り市場調査を試みる。往来を観察しながらこれから流行りそうな帽子について頭を巡らせる。この振興区には様々な人間が流入する。陽二郎はなんとしてもこの中から金を拾い上げねばならない。が、今日は見慣れた風情ばかりで、その肩を僅かに落とした。そうそう金の種など転がってはいないのだ。
その一連の作業を終えれば、自宅兼店舗の白河屋に戻って揚戸を上げる。既に往来はにぎわいを見せ、呼び込みの声が聞こえ始めている。
開店一番に白河屋を訪れるのは青山だ。背に陽を受けて南向きの店内に長い影を伸ばすそのシルエットはほっそりと小柄で、右目を隠すように長くのばした髪に載せた山高帽を取り上げて、いつも通り優雅に礼をする。その切れ長の左目の冷徹さを見なければ、未だ三十ほどのその若さに誰もやり手の投資家とは思うまい。
「おはよう、白河君。今日も顔色が優れないようだが売れ行きは?」
「変わらず上々です。しかし全く足りません」
すでに前日までの帳簿に目を通し始めていた青山は、不意に目を上げた。
「ふん。身請金というものはあんたの女の価値に足る相応なものだ。高くて悪いものじゃない」
「……金額に文句はありません、ただ」
ただ、足りないだけだ。圧倒的に。
夕霧を身請けするために陽二郎はその全てを捧げ、身を粉にして働いている。けれど、それでも雀の涙にすぎない。
陽二郎はふと、夕霧との出会いを思い出す。それは偶然だった。
友人と冷やかしがてら幽凪屋の張見世の前を通りがかった時だ。陽二郎はその格子の奥に座っていた女にただ、一目惚れした。年は二十ほど、芒の柄の着物を纏った三日月のような女だ。夜空のうちに、今にも消え入りそうな風情がある。そう思うまでに要した時間は瞬くほどで、後から考えれば、そのときには既に恋に落ちていた。
友人は心配そうに陽二郎を眺める。
「おい、陽二郎。本当に幽凪屋に入んのか?」
「文句あるのかよ」
「いや、だってよ。……幽凪屋だぞ」
友人が声を潜めつつ慌てて止めたのも当然だ。
幽凪屋。それはこの神津新地の中でも一際珍奇な遊女屋として知れ渡っていた。好き者御用達。つまり特殊な遊女ばかりという評判の場所なのだ。だからこそ、こんな新地の奥まった場所にあるにもかかわらず、幽凪屋の張見世の前には人だかりができている。
その格子の内側に目を左右させれば、異常な巨躯や小人、四肢が欠けていたり鱗があったり、一つ目や口が裂けていたり、あるいは梅毒のせいか鼻がかけたり全身に痕があるような、いわゆる見世物小屋にいるような男女が目に映り、陽二郎は思わずうろたえた。それらが大人しく並んで琴を弾いたり歌を吟じたりしている様は、まさに異様にみえた。
けれど再びその芒の女に目を戻せば途端に奇妙な心持になる。なんとはなく、好奇の目を隠しもしない下卑た喧騒から彼我の世界を隔て、内側の大人しげな彼らの営みを格子がそっと守っているように思われた。陽二郎は思わず目をこすり、再び映るその中にぽつりと座る女の美しさは異形の中で一際輝き、陽二郎の目には妙に整って見えたのだ。
つまり幽凪屋とはそのような店だ。
友人の言いたいことは、陽二郎も認識していた。そのような店の格子の内にあるあの美しい女も、何らかのそのような部分があるのだろう、そのような。だから、止めておけということだ。
「本当に考え直せよ」
「……そうだな」
心配そうな友人の言に一応は頷いて格子から離れたものの、陽二郎の目には格子の内の女の姿が焼き付いていた。友人が今夜の女を決めて別の遊女屋に入った後に自然と足が向いたのは幽凪屋の張見世の前で、陽二郎はそれはきっと物珍しさによるものだろうと考えた。先程とは少し異なり冷静に格子の内を見回せば、陽二郎にもやはり異形の集まる幽凪屋は、遊女屋というよりは化物屋敷に見えたのだ。けれどもその中で吸い寄せられるように女と目が合い、その口元が柔らかく笑む。気づけば張見世の反対側にある幽凪屋の暖簾をくぐり、番頭にこう述べていた。
「芒の着物の女を買いたい」
「お客人、幽凪屋は初めてですね。当屋は少々変わっておりまして、初めてのお客人は楼主とお会い頂く仕来りとなってございます」
「何、……楼主と?」
遊女を買えば通常客はそのまま遊女の待つ二階へ上がるものだ。戸惑う陽二郎は一階広間に腰を据える楼主の前に通された。女郎屋の一階は大広間となり、楼主と内証、それから遊女や妓夫がいるものだが、幽凪屋の大広間には縁起棚の前に楼主と思われる男がただ一人座っているだけだった。広々とした間は遊女屋にしてはやけに明るい。
通常の流れではないことに陽二郎が体を強張らせて近づくと、小柄な楼主は、細長い煙管を陽二郎に伸ばし、前に座るように示す。
「そう緊張されますな」
口を開けば嗄れた声が響く。楼主のそのつるりとした白い皮膚の表は子供のようにも見え、わずかな体の動きともに首筋や伸ばした手首に多く寄る皺からは老人のようにも見える。
「私は幽凪屋の楼主を務めます幽凪晴夜にございます。この幽凪屋は少々特殊なれば、誠に失礼なこととは存ぜど、お客人を見定めさせて頂いております」
特殊と言われて陽二郎が思い浮かべたのは、やはりあの女以外の女郎だった。やはりあの女もどこか異常があるのだろうか。あの着物の内側が爛れていたり、あるいは異形が。わずかに後悔を覚えたが、一度買うと決めたからにはあの女に失礼だろう。なんとはなしに様々な不吉な思いを陽二郎は振り切って楼主に問う。
「見定めとは?」
楼主はええ、と頷く。また、首筋に皺が寄る。
「ご存知かと思いますが、幽凪屋の別名は化物楼と言われておりまして」
何故だか朗らかに語る楼主に陽二郎の心は僅かにざわめく。
「ここの楼は見世物小屋も同じととらえられるお方も多くおられます。二人になれば無体な事を申し述べ、乱暴を働かれる方もおられますので」
陽二郎も先ほどの格子前の物見遊山な様子を思い浮かべ、そのような客もいるのだろうと不承不承納得する。
「ここの遊女はみなあのような風体ですから、他に頼るところがございません。助け合って生きておりまして、ですから家族のようなものなのです」
「私は無体を働くつもりは」
「わかっております。私も職業柄、人を見る目は御座いますので。それでも多少の説明は必要でございましょう」
陽二郎はその動かぬ視線から、まさしく見定められているのだと気づき手に汗をかく。
「説明、といいますと」
「お客人がお買いになったのは夕霧と申します。夕霧の不具は日に当たれぬこと」
「日に? ……それだけでしょうか」
「ええ。お泊まり頂いても夕霧は大階段の上までしかお見送りできません。他は人とかわりません」
楼主の深い頷きに少々、ほっとした。その意味を解釈すれば、夕霧にはほかに不具、つまり化物たる素養はないということだ。
大階段の上、つまり朝、この一階には降りてこないということだ。陽二郎はなんと答えたものか測りかねた。見送りの場所などなにか関係があるのだろうか。新地は狭い。新地と現し世を区切る大門まで歩いても十分はかからぬだろう。もとより遊女はこの新地からは出られない。
それより重要なことは、あの夕霧という女が普通と変わらないということだ。
「それでもようございましたら、揚代はこの程度でいかがでしょう」
楼主が示した金額は、この規模の中見世にしては少し安かった。そして陽二郎はまた不安になった。
「どうして安いのです? 夕霧は美しいというのに」
「はは。幽凪屋はお恥ずかしながら化物で成り立っておりますもので、普通に見える夕霧はあまり客がつかないのでございます」
楼主はそのように告げて儚く微笑んだ。
不具者の多いこの幽凪屋で、まともな夕霧はさほど人気がない。そもそもこの店で遊女を買う大抵はよほどの好きものなのだ。そう思えば納得はいかなくもない。
おそるおそる二階にあがれば既に夕霧は待機して、するりと頭を下げた。夕霧は細やかな女で、あたかもそこにいないかのような儚い笑顔が印象的な遊女だった。そしてその肌は月のように白く美しかった。
陽二郎が夕霧と離れ難く、その大門までの十分すら惜しいと思うようになるまで、そう時間はかからなかった。
