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あけぬ夜はなし 第5話 秘された理由(明治ファ全19話50000字)連載中

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5.秘された理由

「ここにいるとはどういうことだ!」
 思いもしなかった夕霧の言葉に、陽二郎は思わず声を荒らげた。
「主さん、ごめんなんし。ここがわっちの家でありんす」
「家。家だと? こんな女郎屋など……いや、それともお前は俺が嫌いなのか」
「そんなことはございんせん。主さんをお慕いしておりんす」
 夕霧はよよと袖に顔を伏せた。肩を震わせる様に、嘘のようにも思われない。だから一層、陽二郎はその予想外の反応に狼狽えた。身請けすると言えば夕霧が喜ぶとしか思っていなかったからだ。

「お前身請けは遊女の夢だと以前言っていただろう。その暮らしは苦海と聞く」
 遊女は通常、一日に何人もの客を取り、粗末なものしか食べられず病を得ても放置される。この幽凪屋にそのような非道な様子は見えないが、それでも日々格子の前で化け物と呼ばれ、まわりと同じように嘲笑されるのだ。そんな生活が良いはずがない。
 そう思って陽二郎は夕霧の瞳を覗き込む。その瞳は憂いを湛え、やはり身請けを厭うようには思われない。陽二郎は夕霧の言葉の意味を掴みかねた。けれども夕霧は遊女だ。陽二郎はその機微というものは、自身には判断はつかぬのかもしれないと思い直し、つとめて平静に声をかける。
「何故だ。何故そのようなことを言う。何か理由があるのか?」
「……主さん、わっちは小さい頃、夜明け前にこの幽凪屋の前に捨てられていたでありんす」
「捨てられて、いた? 売られたのではなく?」
 通常の遊女は犯罪を犯し奴刑として下げ渡されるか、親に仲買人に売られるか、自ら身を売りに来ると聞く。夕霧は小さいころからこの幽凪屋にいたと聞いていたものだから、てっきり禿の時分に親に売られてきたのだと思っていた。
 夕霧は訥々と語りだす。

「あい。物心つくまえのこと、わっちは親の顔も知りんせん。楼主様がわっちを拾い、育ててくれんした」
 陽二郎は一つの考えに思い至る。
「……ひょっとして楼主殿に遠慮をしてるのかい? その楼主殿が身請けしても良いと言ったのだぞ。それにもし……お前が楼主に会いたいのなら、時折連れてくることも吝かではない」
 遊廓に女が出入りすることはあまりないとはいえ、祭りの日などに立ち入ることは禁じられてはいないのだ。思えば楼主の様子は確かに、この妓楼の女を家族と思っているようではあった。万一父として会いたいというのなら、咎めるつもりはない。
 しかし夕霧はかぶりを振る。そうして珍しく強い意思を宿した目で陽二郎を見て、自嘲するように口の端を悲壮に上げた。
「どうせ、わっちが頷けば身請けを許すとおっしゃったんでありんしょう?」
 夕霧の視線はいつも見せるすすきが揺れるような嫋やかなものと異なり、まっすぐに強かった。陽二郎は初めて見せるその表情にわずかに狼狽えた。
「まこと、意地が悪うござんす。わっちが出ていけんことをようご存じで、そう言いしんす」
「出ていけぬとはどういうことだ」
「わっちは日の下を歩けんせん。そう聞いておりんせんかえ?」

 陽二郎は確かに、幽凪からそのような説明を受けていた。幽凪はそれを夕霧の不具だと述べた。聞き流していたが、日の下に出れば何か障りがあるのだろうか。そう思って夕霧に尋ねたが、何かに耐えるように首を振るだけだ。陽二郎は珈琲店で日の下では火ぶくれができる病があると聞いたことを思い出す。
「お前もそのような病なのか?」
 それに対する夕霧の反応は、投げやりとしか思われなかった。すべてを諦め、笑い飛ばすような乾いた笑いが夕霧の口の端からわずかに漏れる。すでに陽も落ち行灯が照らす暗い室内で夕霧の声が妙に響く。
「病……病といえばそのようなものかもしれんせん。わっちはここを出ては生きていかれんのでありんす」
「ならばずっと家の奥にいれば良い。表に出る必要はない」
 夕霧はふと微笑み、陽二郎を見つめる。
「主さんは、ほんまにわっちを好いてくれんでありんすなぁ」
「何を今更」
 見下ろした夕霧の瞳には、いつものように再び憂いが満ちていた。

 その移り変わりに陽二郎が困惑していれば、夕霧はそっと陽二郎の胸に身を寄せる。艶やかな黒髪がはらりと広がる。陽二郎は思わず夕霧の肩を抱き締めると、幽凪の煙管と同じような不思議な香りが漂った。
「わっちも主さんをお慕いしておりんす。けれどわっちには次の宵を待つことしかできんせん。夜明けが近づくたび、もうこれが今生の別れかという想いが湧き上がりんす。それは本当にこの世の終わりのようで、一層のこと主さんを一飲みに食べてしまいたい。毎日そう思うくらいでありんすえ」
 夕霧が陽二郎を抱きしめる腕にも力がこもり、その滑らかな表面にするりと透き通った涙が伝う。その唇からこぼれる言葉が嘘とは到底思えなかった。
「ああ、けれども主さん。このままではいかんのでありんすか。毎夜主さんをお待ちする暮らしを続けるわけには」
「夕霧……せめて、せめて理由を聞かせてくれ」
「そのままでありんす。わっちはここを出られんのでありんすえ」
 陽二郎はそれからも、夕霧に何度か身請けの話をした。けれども夕霧はその瞳に憂いを満たし、幽凪屋を出れば生きてはいけぬの一点張りだった。
 幽凪に再び尋ねても、身請けはその後の話もあろうから二人で相談するように、としか返ってこない。それは確かにそうなのだ。身請けした後にも二人の生活というものがある。むしろそれこそが大切だ。
 そう考えれば楼主には本来身請け後の生活など何の関わりもない。破談となっても知ったことではない。なのにそのように述べるというのは、陽二郎から見ても幽凪の善意にも思われた。だから幽凪にさらに尋ねるのも躊躇われた。

「白河さん、例えば夕霧さんのご姉妹が同じ幽凪屋にいらっしゃる、あるいはお子さんがいらして幽凪屋で育てている……訳でもないのでしょうね」
 陽二郎は宇吉の問いかけにはたと目を上げる。そしてここが紫煙の香り漂う幽凪屋ではなく、馥郁たる焙煎の香りに満ちた珈琲店であることを思い出す。四囲のざわめきが漸く耳に聞こえ始めた。
「おそらくそうでしょう。夕霧はいつも自分には身寄りがないという。それに夕霧は幽凪屋の前に一人で捨てられ、親の顔もわからぬというのだから」
「前に……考えてみればそれも何やら妙ですね」
「妙、とはどういうことです?」
 宇吉は考え込むように腕を組む。
「例えばご両親が金銭の問題で育てられないというのなら、普通は娘を売ってお金にするものなのでしょう。遊女屋に売るのと同じことですから、金子を得た方が良い。そして捨てられたのが幽凪屋というのも妙です。新地には他にも店はたくさんありますから」
 それは確かに、陽二郎が以前から疑問に思っていたことだった。
 幽凪屋は化物楼として有名だ。なぜわざわざそんなところに子を捨てる。ということは、幼い夕霧には何らかの化物たる所以があったのだろうか。それがおそらく、日の下に出られないというものなのだろうか。だからこそ陽二郎は該当するような病を探した。改めて調べたところ、その病を患う者は陽の光を浴びれば皮膚がただれるとも聞く。日の下で爛れる皮膚、それは確かに、化物といえなくは、ない。ちくりと陽二郎の心が傷んだ。
 日の下に出られなければ、確かに普通の仕事は行えまい。遊郭はそもそも日の下に出る必要がない。だから矛盾は、しない。
 けれども何故、幽凪屋なのだ。

「そうですね。……青山さんに相談してみてはどうでしょうか。白河さんも夕霧さんを身請けした時のご祝儀の条項があるのでしょう?」
「……ああ」
「あの条項は身請けできない事情が金子以外のものであることは、きっと想定されていません」
 陽二郎も宇吉も、青山と店を共同経営をしている。その契約には目当ての遊女を身請けをした場合、祝儀として店舗の所有権を譲渡する内容が含まれている。
 共同経営な訳だから儲かれば青山にも利益が入る。身請けできるほどの金が入るならばその利益は莫大だ。その発破をかける意味もあるのだろうが、二人は青山の純粋な善意というものも感じていた。青山の相手が新地一の花魁で、その身請金が夢のまた夢であることも知っていたからだ。
「身請けできる金を貯めても断られては元も子もありません。それに玉藻たまも太夫であれば新地の事情を何かご存知かもしれません。新地に長くいらっしゃるそうですから」

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