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あけぬ夜はなし 第6話 化物の内(明治ファ全19話50000字)連載中

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6.化物の内

 陽二郎はその日少しだけ早く仕事を切り上げ、新地の桔梗屋ききょうやに向かった。夕霧のように格子の内で買われるのをまつ遊女と異なり、最も高級な遊女、花魁と遊ぶには、新地外の揚屋という高級料亭に花魁を呼び出さなければならない。花魁をまつ間も揚屋では宴会が繰り広げられ、そこにも莫大な金を要する。そして桔梗屋はこの新地で最も高級な揚屋だ。
 青山は新地一の花魁を新地一の揚屋に毎日呼び出す。だから青山はその日一日稼いだ莫大な金子を、全てその夜に使い切ると噂されていた。
 その相手である玉藻太夫も、夜見世夜営業の始まる暮六つ午後六時の鐘がなると同時に、新地と現世を隔てる大門を潜って道中を練り歩き始める。一刻も早く青山に会いたいとでも言うように。
 それほど思い合っても身請けはかなわぬものなのだ。その事実に陽二郎は嘆息した。
 大門の方をみやれば、見物にあやかろうと既に人集りができていた。この神津新地はおよそ7,8年ほど前に官製で作られた遊郭街だ。だからその見物用に歩道は広く取られ、花魁道中は新地の名物となり、さらなる人を集めている。

 この世の全ての絢爛が集約される桔梗屋のその豪華な二階を陽二郎が見上げれば、その欄干にもたれ掛かる青山とふと目が合う。上がれというような仕草に従い場違いを感じながら桔梗屋の戸口玄関を抜けて家紋の染め抜かれた暖簾をくぐれば、朱塗の壁が広がる。まだ新しいこの建物は当世風仕立てられ、欄間の隙間は色付き硝子で埋められ釘隠しなども硝子で彩られている。その美麗荘厳さは正しく別世界だった。
 いくつもの賑やかな宴席を通り抜けた先の青山の待つ部屋は、どの部屋よりも広く豪華そうであったのに、最も静かだった。大量の酒食は並べられているものの、賑やかす芸妓などはいなかった。少しの豆菓子だけを手元に引き寄せ、胸元を寛がせて脇息腕を置く枕に半ば寝そべりながら外の景色を眺める青山だけが、その広い部屋で唯一動く者だった。いつものキチリとスーツを着こなす姿とは随分違い、陽二郎は些か戸惑う。
「芸妓代は支払いさえしておけば断れるんだよ。落ち着かないからな。それで何か用か」
「少しご相談したいことが御座いまして」
「制帽のことか? 上手くいきそうだとは聞いていたが」
「いえ、その事ではなく、……夕霧の身請けの話です」
 陽二郎がそう告げると、青山は漸く陽二郎の方を振り返り、のそりと起き上がる。青山は陽二郎の目を注視しながら、先を促す。
「幽凪屋に身請けの打診を致しましたら、その金額はおよそ青山様の予想通りでした。けれども夕霧が身請けを了承しないのです。しばらく説得はしているのですが、如何ともし難く」
「そうか」
「私は遊郭に詳しくはありません。何か満たさなければならぬ条件などがあるのでしょうか」

 青山は頬杖をつき、わずかに首を傾けた。その首筋は妙に細く、赤く暮れなずむ窓の外の茜色を帯びて妙に色気じみていた。
「幽凪殿は何と言っている?」
「身請金を支払えば、店として身請けに反対はしない。けれども夕霧が同意しなければ許さない、というお話です」
「夕霧が断るのか?」
「ええ。その理由が皆目検討がつきません。自分は幽凪屋を出ていけないとばかり言うのです」

 青山は僅かに目を細める。陽二郎には見えぬ何かを推し量っているのだろうか。
「幽凪屋の楼主は人品に欠けるところがあるからな」
「人品に欠ける……でしょうか」
「ああ。あの御仁は人の苦しみに頓着しないのだ。だから意図せず無理難題を押し付けることがある」
 今度は陽二郎は首を傾げた。そのようには見えなかったからだ。思い浮かぶのは柔和そうな表情ばかり。
「特に無理難題は言われておりません」
「あの御仁にとっては無理難題ではないのだろう。そして白河さんが断られていないことから見れば、その無理難題はなんとかなると思われている。つまりお眼鏡には叶っているということだ。常に人を値踏みしているからね」
 言われてみれば、多少は観察されているような心持ちが生ずることもなくはない。けれどもせいぜいその程度だし、幽凪からは最初に客を見定めるとも言われている。
「あの御仁にとって大切なものは幽凪屋だけなのだ。だから通常は俎上にも登らないような嫌な提案を平気でしてくることがあると聞く。なんなら俺が少し、探りを入れてみよう」
 陽二郎は平身低頭する。青山の申し入れは、陽二郎にとって渡りに船だった。陽二郎は夕霧以外の遊女に通ったこともない。つまり遊郭の作法というものに詳しくない。
「誠にありがとうございます」
「それよりそろそろ帰れ。玉藻がもうすぐ到着する。お前も夕霧のところに行くのだろう?」
 その頃にはすでに、往来の歓声がこの部屋にも届いていた。話は終わりだとばかりに青山は窓の外に向き直る。
「はい。では失礼致します」

 桔梗屋を出ればまさに人だかりで、玉藻大夫はあと少しで桔梗屋に辿り着くところだった。後少しと言ってもまだしばらくはかかるだろう。花魁道中は黒塗三枚歯の高下駄で足を八の字にくゆらせながら、三メートルの距離を一分ほどかけて練り歩く。
 そして悲鳴が上がる。
 見上げれば桔梗屋二階の欄干から青山が軽く手を振り、花魁がその氷のような表情をたちまち崩して僅かに微笑んだのだ。花魁とは通常、人のように笑ったりせず、氷のように取り澄ましているものだから。
 その姿を見るに、陽二郎の頭に浮かんだのは夕霧だ。
 夕霧も陽二郎が会いに行けば、あのように嬉しそうな顔をする。その心に一刻も早く夕霧に会いたいという気持ちが沸き上がる。陽二郎は未だ人集りの只中にある玉藻太夫の脇をすり抜け、大門に急ぐ。他の楼から新しい花魁が道中を始めるようで、新たな人集りができていた。それにも目もくれず門をくぐり、そうして更に薄暗い中を奥に抜けたところにあるのが幽凪屋だ。
 最近の陽二郎は、格子のほうにはまわらず、いつも直接幽凪屋の暖簾を潜っていた。一刻も早く夕霧に会いたいからだ。けれども今日は、大勢の人の中を堂々と歩く花魁を見たせいか何とはなしに気が向いて、張見世の側に周ってみた。

 そこにもやはり人集りが出来ていた。
 けれどもそれは花魁たちの派手やかな美しさに対する称賛とは異なり、異物への嘲笑に満ちていた。その落差に陽二郎は目眩がした。
 思い出す。この楼閣の名前を。
 化物楼。
 絢爛たる光と異なるうす濁った闇。この新地の最も冥き場所の一つ。客の層からも明らかだ。堂々と花魁を待つ青山と違い、俺も化物を買う好き者だと見られる場所。けれどもその中で夕霧だけは異なる。夕霧だけはこの闇の中でぽつりと咲いた一輪の清い花のように思われた。そして今も格子の中で一人輝いていた。居ても立っても居られず早く夕霧に会おうと幽凪屋の表に向かおうとしたその時ふと、ツンと響く妙なる音に気が付いた。
 その音に格子の中を振り返れば、幽凪がその内に座っていた。戯れか何かだろうか。幽凪は素晴らしい腕前で三味線を弾き、周囲の様々な異形の遊女と楽しげに語らっていた。
 先程の青山の言葉が思い浮かぶ。その親しげな姿は確かにその格子全体を家族のように思わせ、そして陽二郎を酷く苛つかせた。そのような陽二郎の視線に幽凪が気づいたのかふいに陽二郎を向いてにこりと微笑み、夕霧に内に入るように促す。夕霧も陽二郎を見て微笑んだ。
 夕霧がいなくなった格子の中は、陽二郎には不思議とすんと色をなくしたように見え、気づくとその内側に対する苛立ちも何故だかつるりと雪のように溶けていた。その心持ちの変化に、陽二郎は首を傾げた。

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