十日間の関係 第7話 5日目 高い空と俺の間、様々な距離(非定型恋愛 前半17話)前半連載中
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第7話 5日目 高い空と俺の間、様々な距離
翌日曜。
昨日は結構歩いた。だから少しまだ疲れの残る体でリビングに向かえば、樺島がハムエッグをひっくり返していた。樺島の表情は何か吹っ切れたように明るい。既に盛りつけられていたサラダをテーブルに運び、冷蔵庫からジャムを取り出しているうちにレトロなトースターから食パンが二枚、香ばしく飛び出す。もういつもとほとんど変わらない、気がする。
「今日は何か違う絵を描くことにするよ」
「そうですか。俺は出かけるんで、何か必要なものがあれば買ってきますけど」
パリパリと食パンを齧りながら樺島の声を聴く。
「今のところ、特にないかな。何かあったらメールする」
いつもの元気なときと同じ。明るさを取り戻している。
「わかりました」
食器を食洗機にセットして振り向けば、樺島はリビングの一画のアトリエでさっそく、新しい白いキャンバスに向かっていた。なんとなく、前向きに思える。スランプは脱したのかな。つまりもう、死んだりしないってことを期待できそうな。
思い返せば先週の樺島はとても話しかけられるような雰囲気じゃなかった。たくさんのバツのつけられた絵が乱雑に床に散らばっていた。いつもはそれなりに整えているのに、食器や服、何もかもが雑然とリビングに放り投げられていた。それに比べれば随分良い。
けれど違和感はある。
樺島は俺を樹と呼び、夜一緒に寝る。そして出かける時に額にキスをした。今日はまっすぐキャンバスに向かい、それとも違うことに少しホッとする。きっとそのうち落ち着けば、あるべき運行に戻るだろう。俺より絵が気にかかるなら、きっとそれは良い兆候だ。
ふと、疑問がよぎる。
俺と樺島はどんな関係なんだろう。
一緒に住んで、毎朝と毎晩一緒に食事をとる。それ以外の時間は、寝る時以外、一緒にいる。たいていは隣か、正面に座っている。客観的に見れば恋人のように見えるのかもしれない。けれどもそれは、そう見える行為をしているだけだ。スキンシップの延長にすぎない。一緒に寝るということも、きっと不安定なその延長だってだけ。
キャンバスを見つめる樺島の後ろ姿に区切りをつけて玄関を開けて見上げた空は、久しぶりに晴れ渡っていた。同時に乾燥した空気が鼻に触れる。気温は低い。もうすぐ冬が来る。
いつもの土曜日はゆっくり自室で休んで、日曜日は取材半分にどこかに出かけることにしている。昨日レンガ倉庫に行ったし棚沢画伯の個展にもいったからそれでも十分かと思ったけれど、樺島が絵を描くならきっと一人にした方が良い。
絵を描くというのは特殊な作業だ、と思う。多分、すごく集中力がいる。俺は樺島が絵を描いているところを見たことがない。樺島は俺が仕事に出かけた日中に絵を描いて、俺が帰る頃には片付けている。だからきっと、俺、というよりは誰かがいると上手く描けないかもしれないと思っていた。
以前、樺島にどうやって絵を描いているのか聞いたことがある。あれはちょうど良くテレビが途切れてそろそろ寝ようかと話して、寝る前の紅茶を淹れていたときだ。
「どうやって? そうだな。こういうのを描かないとってのが頭に浮かぶんだよ」
「描きたいものを描いてるんじゃないんですか?」
「たいていは描きたいものが浮かぶんだけどさ、たまに描かないといけないものが浮かぶ」
素人考えでは嫌なら描かなければいいだろうと思う。けれどそう割り切れるものではないのかもしれない。あの樺島の言葉を考えれば、それが樺島にとってのスランプなのかなと思えた。一昨日描いていたオレンジ色の柔らかい絵。少しだけ心が温まるカラーリング。あの絵は、描かないといけないものなんだろうか。
冬は空が高い。地面と世界の天井の間に、広い空間がある。だからなのか、足取りは軽い。なんとなく、車ではなく歩きたい気分だった。
最寄り駅までは20分ほど。どこに行こうか。そういえば駅前のツインタワーで面白い催事をやっていたような。部内の誰も訪れていない新しい企画や店に関しては、領収書を持っていけば会社から取材費として3割の補助が出る。面白ければ企画にして、提出する。アモルファスは文芸誌の会社だからか、その辺はゆるい。
そんなふうに色々とうろついて、不意に見上げたツインタワーの窓ガラスがオレンジ味を帯びているのに気がつく。このツインタワーはこの辻切のシンボルで、何はなくともよく見上げる。どこに向かうというわけでもなく足の向くままうろついて、気が向いたら店に入って本屋で新刊を眺めて、そしてもうすぐ夜が訪れるのを知る。
いつのまにか時間が経過していた。最近とみに日が落ちるのが早くなっている。それはただ、季節が冬に近づいていることを指しているだけだけれど。そうして背中から風が吹いた。
スマホを開いてメールがないのを確認する。樺島は食事を作らないときは、夕方くらいまでにメールをくれる。だから途中でデリを少しだけ買って家に戻れば、樺島は朝出かけた時と全く同じ様子で座っていた。いつもなら俺が帰る頃には筆を置いて片付けているはずなのに。
「先生?」
「描けない」
朝出かけた時と同じく、キャンパスは白いままだった。
「……まだ本調子じゃないんですよ」
「違うんだ。多分、失敗した」
その声は些か深刻さを帯びていた。樺島がこんな声を出すのは珍しい。やっぱりスランプは続いているのか。でも、俺にできることはない。掛ける言葉も思い浮かばなかった。
湯を沸かし、ローズヒップティーを淹れれば華やかな香りが広がる。
「晩飯は俺が作りましょうか?」
「それは僕が作るよ。料理は好きだから」
その言葉は少しだけ調子が持ち直したように聞こえた。荒れてはいないようだ。そのことに少しだけ安堵する。不穏な気配もない。例えばすぐにも自殺をしそうな様子は、ない。
部屋で着替えてリビングに戻れば、樺島はキッチンに立っていた。その姿を視界におさめつつ、タブレットを広げて今日見たものを簡単にメモにまとめていると、ケチャップの香りが漂った。ケチャップライス。フライパンには油が敷かれ、溶いた卵が投下される。
次第にオムライスが出来ていくことに少しの違和感を覚える。樺島がオムライスを作る時は、調子がいいときが多い。最後にケチャップで絵を描くから。
「いつもと同じかな」
「どうでしょう。可愛いです」
俺のオムライスの上にはハートマークをバックに両手を広げた棒人間が、樺島のオムライスの上には幾何学的な何かが描かれていた。いつもはもっとふわふわしたものが描かれることが多い。入道雲とかフラミンゴとか。
「先生、無理されてます?」
「いや。でも後で樹に聞いてほしいことがあるんだ」
そうして食事が終わり、アールグレイのカップがテーブルに並べられ、席についた樺島は俺をじっと見つめた。こんな風に真っすぐに見つめられることは、あまりない。そのことに少しだけ緊張する。
「樹、5日前から俺は変だろ? どのくらい変かな。正直に教えてほしいんだ」
5日前。その時点にドキリとする。海に入った時。
「そうですね、名前とか、細かいところはたくさんあります。一緒に寝ようっていわれたのは変かもしれません。キスも」
「嫌だった?」
嫌だったか。嫌ではなかった。好きでもなかった。つまり、俺にとってはどうでもいいこと。
「……最初は驚きましたけど、嫌なわけじゃないですよ」
「違和感とか変化はあるかな。僕らの関係に」
違和感。俺たちの関係。一緒に寝る生活。5日前と大きく変わったのはそれだ。それは通常は大きな変化だろう。けど。
「どうでしょう。特に変化は感じません。最初は驚いたけど今はもうあんまり。それに嫌なら嫌って言いますよ」
我ながら順応性は高いなと思ったが、嫌じゃなかった。だから特になんとも思わない。一体何が聞きたいんだろう。今更あの挙動について、反省でもしているんだろうか。
「僕は樺島成彰じゃないんだ」
「はい?」
なんの冗談かと思ったけれど、先ほどから樺島の瞳の温度はかわらない。
「けど、あと5日もすれば以前と変わらなくなるはずだ。以前と同じ樺島成彰に」
今は違うけど5日後にもとに戻る? 意味がよくわからない。
「それはあと5日くらいで復調するってことですか?」
そんなにきっちりと割り切れるものなんだろうか。樺島は僅かに目を閉じた。
「けど、君に話すかどうか、悩んでいる」
君。浅井君でも樹でもないその二人称からは、いままでにない距離を感じた。
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