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あけぬ夜はなし 第13話 断絶と差異(明治ファ全19話50000字)連載中

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13.断絶と差異

 遅めの朝に新地を出た陽二郎は、珈琲店に寄らず店に戻った。そして頭をかかえた。
 思えば友人の、そして青山の言っていたことは本当だったのかもしれない。幽凪屋は化物楼だ。けれどもその楼主である幽凪晴夜はそれが現実だとは明言しなかった。いや、そんなことを言っても仕方がないと陽二郎は思い直す。確かに幽凪は言ったのだ。夕霧は日に当たれぬ他は人と変わりない、と。
 夜のみに生きる遊女を説明するのに、それ以上の言葉は不要だろう。

 どのくらい時間が経ったのだろうか。揚戸が開けられ番頭が打ち拉がれる陽二郎に大丈夫かと尋ね、それでも日常は回り、何名かの客が白河屋を訪れていた。
「白河君、それでどうするんだ?」
「どうする……?」
「その様子では夕霧の姿を見たのだろう?」
「青山様、あれは現実であったのでしょうか」
「現実?」
 その声は意外そうに聞こえた。
「確かに私は化物を見ました。けれども楼主殿は私が幻覚に見えるのであれば、幻覚だと言うのです」
「それでお前は幻覚に見えたのか?」
「……それを判断しかねています」
 いつも通り淡々と帳簿を捲る青山を、陽二郎はぼんやりと眺めていた。青山は何でもないようにいつも通りだ。
 いつもの昼日中。夜の世界と隔絶した、異常の起こるはずのない明るい往来。けれども陽二郎が見た幻覚も、朝の日の光の中のことだった。
 光の中でこそ現れる妖。こんな話、誰が信じよう。ただの化物というよりさらに信じがたい話だ。そういえば物語ではよく化物は陽の光の中で正体を表す。そうすれば化物というものは人と同じように陽の光のうちにある姿こそが真実なのか。
 青山はわずかに顔をあげ、呟いた。
「それほどの差異か」
「差異?」
「ああ。白河君と夕霧太夫の間にあるものは」
 陽二郎はその差異という単語に混乱する。改めて思えば人の夕霧と化物の夕霧は、その性状と姿形はともかく、その心根にはさほど隔たりはないように思えた。けれども陽二郎が見たあの夕霧は、人とは、そして陽二郎自身とは大きく隔たっていた。そのように思えたのだ。とすれば自身と夕霧はそもそも住む世界が違ったのだろうか。
 けれども差異。自分と全く異なる存在だと思っていたが、差異といえば差異だ。

「人としての暮らしは営めそうにないのか?」
「……身請けしたら私は死にます」
「なるほど。ではどうするか決まったら連絡をくれ」
「どうする、とは」
 陽二郎は信じられない思いで青山をみつめた。
「お前が身請けをするならば、そしてお前が死ぬのならば、この店の行く末も考えなければならん」
 陽二郎は絶句した。そしてやはり、青山は陽二郎の言うことを信じていないのだろうかと思った。陽二郎自身ですら信じるかを決めかねているのだから仕方がないとはいえ、その返答はずいぶん他人事のようで冷たく聞こえたのだ。
 けれども青山にとっては陽二郎の事情は確かに他人事には違いないとも思う。
「青山様なら現実と信じますか」
 けれども自嘲するように問う陽二郎に対して、青山の答えは明朗だった。
「信じるよ」
「けれども信じたら死んでしまいます」
「差異が埋められぬのなら仕方がない。信じた上で、死にたくないのであれば今まで通り通えば良いだろう?」
「幻覚ということにして?」

 青山は漸く、しっかりと帳面から顔を上げて陽二郎を見つめた。珍しく何か考えるように腕を組む。
「お前は幻覚ということにできるのか?」
「わかりません。それほど現実離れしています」
「そうじゃない。現実か幻覚かという問題ではないんだ。何故なら白河君は見たからだ」
「見た?」
「うん。幻覚と思えるならそれも方法だと思うが、見た以上、本当ではないかという疑念は白河君を苛み続けるだろう。だから認識の可否で世界を分け隔てるべきではない。これは夕霧と白河君との間に現実に存在する差異を、白河君自身が認められるのかという問題だ」
「存在する差異」

 青山の目はじっと陽二郎を見つめていた。差異。差異とは何だ。陽二郎の頭は差異という言葉で埋め尽くされる。
「病、異形、化物。それはそのように認識するから、そうなる」
「認識するから、そうなる?」
「白河君、病だからどうだとか、化物だからどうだとか、そう区分けすることに何の意味がある。夕霧は白河君の前に現れたのだろう? ならばその夕霧を、つまり白河君との差異を白河君自身が認められるかを考えるべきだ」
 夕霧との差異。
 陽二郎にとって今朝方見た夕霧の姿は化物にしか思えなかった。親愛の形すら人と違うのだ。化物とは決して分かり合えない。最終的に陽二郎が抱いた思いはそれだった。
 以前、陽二郎は青山に化物とは人と異なるものだと答えたが、あの格子の中の異形を夕霧に重ねるうちに、化物とは人に、つまり自分と異なり自分に理解し得ぬものではないかという認識を抱くようになっていた。
 だから夕霧は化物で、人ではない。そう思えば、昨夜の景色が思い浮かび、足がすくむ。

「陽二郎、一つ忠告をしよう」
「忠告、ですか?」
「お前はそれを幻覚だと思うことはできない。それは幽凪の虚言だ」
「どういうことです?」
「お前はそれを幻覚と認められるのか? 差異が大きければ大きいほど、お前の魂に刻まれた断絶は深くなる。その断絶を認めなければ、夕霧に会う度にその化物の姿が必ず脳裏にちらつき、いずれその断絶にお前自身が耐えきれなくなるだろう」
「そんな」
「中途半端な誤魔化しは無意味だ」
 陽二郎は青山の目に茶化すような様子が全くないことに気がついた。

 その夜、幽凪屋に向かう陽二郎の足取りは、頭上の曇天を映し取るように重かった。華やかな新地が闇に塗り込められたようで、ずぶりずぶりと足元が底なしの沼に沈んでいくようだ。
 格子に回ればたくさんの異形が溢れていた。けれども前日と違い、陽二郎にはもはやそれが化物のようには思われなかった。その内側には何がしかの化物を潜ませる者がいるかもしれない。けれどもその人間と変わらぬ和気藹々と仲の良さそうな様子は、夕霧との断絶が深いゆえにことさら陽二郎にとってまだ、理解しうるもののように思われた。
 そして陽二郎は格子の内に夕霧がいないことに気がついた。そして自身の訪れがいつもより随分遅かったことに気がついた。ひょっとして夕霧が他の客に買われてしまったのか。
 そう思い至った時、陽二郎は居ても立ってもいられず大慌てで幽凪屋に駆け込んだ。
「夕霧は!」
 その瞬間、四つの瞳が陽二郎に向いた。広間には幽凪と、それから目の下を赤く腫らした夕霧が座っていた。
 楼主が夕霧の背を撫で摩り、陽二郎のほうに押し出す。
「主さん……」
「ほら夕霧。私の言った通りだろう。お客人はちゃんとお越しになられたよ」
「お父様、ですが」
「お前はうちの遊女だろう? お客人が来られたのだ。お相手をして差し上げねば。……けれどもどうしても調子が悪いというならば、お断り差し上げよう。お客人も無理はおっしゃるまい」
「夕霧、せめて話だけでも」
 思わず陽二郎からでた言葉はそれだった。
「主さん……」
「話だけでもというならそうしてあげてはどうだい? お客人もお食事はまだのようだ。何か簡単なものを運ばせるから」
 そう呟いて、幽凪は煙管の煙をまじないのようにすぅと夕霧に吹きかけた。

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