先生、私はあの時、裏切っていませんでした
71歳、120歳現役を目指すエッセイスト。利き手中心のアンバランスなテニスの概念を覆し、世界に類を見ない左右対称の「二刀流壁打ちテニス」によって身体の調和を追求。主夫として自立し、村のアイドルとして生きる。900本超の積み上げから生まれた、「魂の三部作」ついに完成。
71歳のエッセイストhideです。
最近つくづく思うのです。「定年退職して完全に自由になるって、なんてありがたいことなんだろう」と。
今の私は、あらゆるしがらみから解き放たれた、真の自由人。何をするにも自分の意志だけで決められる。それだけで、毎日がこんなに輝き出すものなのですね。
わが家のルールはいたって簡単です。外で働く妻が帰宅したら、自分の食事は自分で作る。ただそれだけ。家事全般は私の担当で、これがまた面白いのです。買い出しに出かけ、地域の人とおしゃべりするのが何よりの楽しみになりました。
食卓に並ぶのは、押し麦入りの玄米ご飯に、溢れんばかりの具沢山な味噌汁。そして、地元の信頼できる農家の新鮮野菜。スーパーで野菜を買うことはほとんどありません。それどころか、ハマダイコンの葉、菜の花、のらぼう菜、ふき……といった自然の恵みを優先して食卓に取り入れています。野川はそういう意味では我が家の台所 なのです。当然のことですが、人間が栽培した野菜よりも自然の自生している野菜がもっと体にいいですからね。梅干しを1000個漬け、ドクダミやスギナなど5種の野草をブレンドしたお茶を一年分仕込む。そんな手仕事が、私の日常を彩っているのです。毎日が輝き出すのが分かっていただけますよね。
健康管理も万事怠りません。60歳から始めたテニスは、今やラケット2本を操る唯一無二の「二刀流」の壁打ちにまで進化しました。毎日2時間、壁と対話しながらこの二刀流で汗を流すのが私の日課なのです。
そんな、一見すると順風満帆で悩みなどなさそうな私ですが、71年の人生を振り返るとき、どうしても忘れられない出来事があります。それは、私の生き方の根っこにある「正直さ」が試された、小学5年生の時のことでした。
台風がやってきていたのでしょう。空は鉛色の雲に覆われ、近くの河川は今にも溢れそうな日でした。
「危ないから、今日は学校は休みなさい」
父のそんな言葉に、私は家で過ごすことにしました。
翌日は、昨日とは打って変わっての快晴。しかし、教室にはどこか気まずい空気が流れていました。担任の女性教師が、欠席した10名ほどを起立させます。
「どうして休んだのか、一人ずつ理由を言ってください」
最初の子が「頭が痛くて……」と俯きながら言いました。次の子も「急な用事で……」と嘘の言い訳を並べます。
私は心の中で叫んでいました。(嘘だろう! みんな、本当のことを言ってよ!)
いよいよ私の番です。しかし、私は言葉に詰まってしまいました。本当のことを言えば、父の言いつけを守っただけのこと。ですが、そんなことで学校を休むのかと思われかねない不安がよぎりました。仮病や言い訳が飛び交う空気の中で、私の「正直」はあまりに浮いてしまいそうで、もじもじするしかありません。みんなだって私の気持ちは分かっていたはずなのに。本当のことを言う勇気が、なかなか出てきませんでした。
先生の視線が、ナイフのように突き刺さります。
「どうしたの、理由が言えないの? 昼休みに職員室へ来なさい!」
重い足取りで向かった職員室。先生は私を真っ直ぐに射抜き、こう言い放ちました。
「みんなの前で正直に言えなかった、どんなわけがあったの?」
意を決して、私は本当のことを伝えました。父に止められたこと、増水が怖かったこと。ところが、先生から返ってきたのは、救いの言葉ではありませんでした。
「あなたを信頼していたのに、見損ないました!」
あれくらいのことで学校を休むなんて……。先生は心の底から、そう思っていたのでしょうか。その瞬間、私は愕然としました。まさか先生から救いの手が差し伸べられないなんて……。その一言だけで、会話は終わってしまいました。
慕っていた先生に、一番大切にしていた「正直」を否定された絶望。私の心は深く傷つきました。不思議なものですね、小学5年生のその時のことは、私の心に一生深く刻まれることになったのです。
70歳を過ぎ、こうしてエッセイを書くようになった今でも、当時の先生の顔は生々しく思い出すことができます。
当時の教育現場は今よりずっと厳格で、先生もまた規律という枠組みの中で真面目に頑張っていたのでしょう。先生はそれだけ私のことを信頼し、期待してくれていた。だからこそ「あれくらいの天候なら出てきてほしかった」という裏返しの気持ちがあの言葉になったのだと、今なら理解できます。
けれど本当はあの時、先生ともう少しお話ができたらよかったのです。先生の人間としてのぬくもりにもっと触れることができていれば、これほど長く傷を抱え続けずに済んだのかもしれません。
しかし、あの苦い経験があったからこそ、私はその後の人生で「自分に嘘をつかずに生きる」という姿勢を貫いてこられたのではないか。今では、そんな風にさえ思えるのです。
本来、子供は思ったことを誰はばかることなく率直に話すものです。遠慮せず、心のありようをそのままに。私は71歳になった今でも、誰とでも気さくにお話ができます。例えば農家の直売所で買い物をしながら、落ちている梅や柚子などを見れば、「拾わせてくださいな」と、正直に伝えることができます。
「どんなことがあっても、口から出まかせは言わないぞ」
幼い心に誓ったあの日。子供のような純粋な魂をそのまま大切に維持して今日まで生きてこられたのは、皮肉にもあの日の出来事があったからこそだと、今ではそう思えるのです。
そんな私の社会人時代を振り返ってみます。
出版社に勤め、本作りに携わりました。管理職にはならず(なれず?)、専門職としての職業生活を全うしました。
振り返ってみると、現役時代は自分の心に正直に、プライベートでもやりたいことはたくさんやりました。クラシックバレエ、声楽、太極拳など、時間を見つけては教室に通いました。
昼休みには会社の近くの日本語学校へ行き、韓国人の学生と韓国語で会話を楽しんだり(独学で韓国語を勉強していました)、会社の屋上でドイツ歌曲の練習に励んだりしたこともあります。また、55歳から定年退職までの10年間は、ライフワークとして絵も描きました。
仕事は好きでしたし、真面目に取り組みました。ただし、サービス残業はしませんでした。
昼休みに日本語学校へ通っていたことが会社に知れた際、「会社の秘密を漏らしているのではないか」という噂を立てられたと知って驚いたこともあります。サービス残業をしませんでしたから、出世コースからは完全に外れていました。自分より若い人たちが先に管理職になっていくのを見て、正直に言えば、心の中でへこたれることもありました。
そういえば、こんなこともありました。直属の上司に連れられた、取引先の男性との飲み会でのことです。上司がその男性の前で、私の頭を小突きました。「こいつ、何回言っても俺の言うことを聞かないんだ!」
むっとして、その場を立ち去ろうかと思いました。こいつ呼ばわりされ、小突かれる。会社員とはいえ、トホホですよね。それでも、無理難題を言われても自分の信念は曲げませんでした。
今から考えるとこの直属の上司は、私のことを一番 気遣ってくれていた人だったのかもしれません。総務部長からは、「サービス残業をしてくれたら悪いことはない、ちゃんと出世はできる」と言われていたのです。あまり頑なな態度を取ると、出世どころか企業 そのものから排除される恐れがあったのかもしれません。その辺のことを慮って、上司は俺の言う通りにしろと 言っていたのでしょう。
周りの社員を見ると、かつてあの小学5年の同級生が頭痛で学校を休んだと言ったように、同調圧力に抗いきれずにサービス残業を受け入れて 出世して行っているのです。
実は、直属の上司が私を見限ったことは、薄々感づいていました。急に 私によそよそしい態度を取り始めたからです。
ある日、経営者から直々に呼び出しがかかりました。応接室へ向かうと、そこには私の直属の上司とは犬猿の仲だった私より2歳年上の同僚管理職も同席していました。
三者面談で、経営者は私にこう告げたのです。
「君の居場所は、もう我が社にはないと思っていたところ、この彼が、君を編集部に配属してほしいと強く推薦してきたんだ。『彼は誰よりも真面目に働いている』と君を擁護してね。そこで彼と相談して、君には今後、編集部の雑誌製作の責任者として腕を振るってもらうことにした」
九死に一生を得た思いでした。まさか上司に背かれ、その宿敵であった彼に救われるとは、夢にも思っていなかったからです。
ふと思い当たることがありました。私を推薦してくれた彼は、当時痛風に苦しんでおり、私は食事療法についてのアドバイスをしてあげたところだったのです。もともと私と彼との間に、反目する理由などありませんでした。ただ、直属の上司が彼を嫌っていただけだったのです。
彼は、同じ編集者として私の能力を正当に評価してくれていたのでしょう。こうして私は、管理職という道ではありませんでしたが、編集の専門職として職業生活を全うすることができたのでした。
会社という組織における人間模様は、実に複雑で一筋縄ではいきません。それでも、土壇場で神様は彼を介して、私に救いの手を差し伸べてくれたのです。
「やりたいことは貫き、仕事はきっちりやり遂げる」。そのスタンスを変えずに歩んできたことに、今、一点の悔いもありません。自分自身の心に正直に生きること。それが、私にとっての「正解」だったのだと確信しています。
自分の心に正直に従って行動したことが一つあります。
今から3年前、68歳の時、私は82歳の男性と公園で出会いました。
男性は一流企業を勤め上げた方でした。テニスが大好きな人で、公園で壁打ちテニスをしていた私に声をかけてきたのです。
彼は自費出版で「ユーモア短歌」という本を出しており、「もっと世に広めて、多くの人に健康と笑顔を届けたい」という夢を語ってくれました。何軒もの出版社を回ったものの、すべて断られてしまったというのです。
元出版社勤務の私は、即座にこう言いました。
「今は本を出すよりも、YouTubeで広めた方がいいですよ」
無料奉仕で請け負ってくれるYouTuberを必死に探しましたが、なかなか見つかりません。
「仕方ない、何の知識もないけれど、彼のために私が自分でやるしかない」
そう決心してからの日々は、まさに激変でした。
朗読用のマイクを買い、YouTubeの編集は全くのゼロから見よう見まねで始めました。無報酬のまま、1年以上もその活動に忙殺される日々。男性とは毎日LINEで連絡を取り合いました。
男性の夢の実現のために、1年以上もの間毎日、「ユーモア短歌」に没頭したのでした。この奉仕のために自分の人生を捧げることが、私の生きがいになったのでした。
男性は、私の朗読する「ユーモア短歌」を喜んでくれました。
2023年5月にチャンネルを登録し、1年後には視聴回数52万7000回、登録者数1400人、動画投稿 本数 2483。この成績は「成功」と言ってよいでしょう。男性のライフワークのために献身した私に、彼は心から感謝してくれました。そしてその経験のおかげで、私も「即興短歌」という自分のチャンネルを立ち上げることができたのです。
しかし2024年12月の暮れ、男性は突然、脳梗塞で亡くなりました。
訃報を聞いた瞬間、私は絶句しました。茫然自失、目の前が真っ暗になるとはこのことです。毎日やり取りをしていた友が、忽然と姿を消してしまった喪失感は、言葉にできないほどでした。
けれども、やれることはすべてやり遂げたという自負があり、後悔はありませんでした。ただ、大きな目標を失い、次の一歩を踏み出せずにいた私に、妻がこう言ったのです。
「あなた、noteというものがあるみたいよ。出版編集をやってきたんだし、エッセイを書いてみたら?」
不思議なものです。妻のこの一言で、私の人生はまた変わりました。
noteを始めて7ヶ月。ビュー数は8万3307、フォロワーは600人以上。179日連続投稿。これほど自分の性に合う場所はありません。noteという舞台を得て、私の毎日は今、光り輝いています。
現在は、自転車で15分の運動場へ通い、2本のラケットを操る「二刀流」で毎日2時間、体を鍛えています。そこに集まる子供たちや大人たちと交流する時間は、かけがえのないものです。
私が二刀流で、まるで子供のように夢中で遊ぶ姿。それを見る子供たちの目は、キラキラと輝いています。嘘偽りのない「本気の遊び」は、理屈を超えて彼らの心に真っ直ぐ届くのでしょう。思えば、この二刀流の姿こそ、あの小学5年生の時に「心にもないことは言わない」と決めた、純粋な自分そのものなのです。
運動場での交流は、感動という形でnoteのエッセイに反映されます。
ついに私は、真の「ライフワーク」に出会えたのです。
120歳現役を目指して、神様が導いてくださった道を歩んでいます。「シニアになったら下り坂」なんてとんでもない。シニアのこれからこそが、子供のように目を ランランと輝かせて生きていく、人生の本番なのです。神様との約束を守り、自分の心に正直に生きてきたからこそ、今の私があります。
71年の人生を振り返れば、会社勤めの時が一番厳しいものでした。サービス残業を強いるような同調圧力に、決して屈することなく乗り切った自分を、今は褒めたいと思います。
「周りもやっているから」という甘い誘惑や圧力に負け、一度でも自分を裏切れば、人生の羅針盤は狂ってしまいます。現実の荒波に悩み、葛藤する時期もあるでしょう。しかし、そこで信念の灯を消さないでほしいのです。
私は管理職になれなかったのではなく、ならなかったのです。管理職になれば当然、部下を評価しなければなりません。人間が人間を評価するということは不可能なことです。それをしなくて済んだのは本当に幸いでした。
世の中がこうだから、周りがこうだからと、安易に妥協する必要はありません。信念を曲げる必要もないのです。
「私は、心にもないことは絶対に言わない」
小学校5年の時の先生は今、どうしていらっしゃるのでしょうか。
今なら、自信を持ってこう言えます。
『先生、嘘偽りがないというのが教育の原点ですよね。私はあの時、自分の中の神様に背かず、自分に正直でいられました。会社員時代も、同調圧力に屈しませんでした。あの日、教室で震えながらも貫いた小さな誠実さが、大河となって今の私を突き動かしています。小さい時から今日まで、一歩も引かずに信念を貫いてきたからこそ、シニアになった今、人生の目標を一点の曇りもなく見据えて生きていけるのです。120歳までこの命を燃やし尽くす覚悟ができたのは、他ならぬ「正直な自分」を見捨てなかったからです。 私は先生を、そして自分自身を、決して裏切ってはいません。見ていてください、二刀流で人生を楽しむ本番は、これからなのです!』
一2026年(令和8年)3月26 日木曜日は曇りのち晴れ
【魂の三部作】
私の人生というタペストリーを編み込んだ三つの物語。ぜひ、続けてご賞味ください。
【最新の「問わず語り」】
『打ち上げ花火のボールを、いっそのこと「この素手」で掴みたかった』
900本の裾野を越え、たどり着いた渾身の到達点。今、この瞬間の「生」を刻んだ一作です。
