私のエッセイの本質
去年の8月からnoteでエッセイを配信し始め、私はすでに1200本もの作品をこの手で配信してきました。
その軌跡は、数字が冷徹に証明しています。これまでの作品ビュー数は118,085に達し、私の文章を読んで「スキ」と言ってくれた人は10,517人にのぼります。この濃厚な読者との繋がり、あるいは重複を恐れず積み上げてきたディテールの圧倒的な蓄積があるからこそ、あの奇跡的な2つの最高傑作を誕生させることができたのです。
なぜ、私の文章にこれほど多くの読者が支持してくれるのか。理由は明確です。私のエッセイには、一切の嘘偽りがない「本当のこと」が、生々しいディテールとしてそのまま盛り込まれているからです。エッセイにおいて嘘は許されません。人工的なものは通用しないのです。
世の小説家たちが書くディテールは、いくらそれらしく見せていても、結局は頭の中で作り出したフィクションです。彼らの文章は、高級料理店のシェフが作った料理のようなものです。一見すると見栄えも良く、技術という名の調味料をたっぷりと入れ込んで、舌触りの良さそうなものに作り上げられています。おそらく、芥川賞を受賞するような作品の正体も、あのシェフの凄腕によって仕立て上げられた人工的な「加工品」の最たるものでしょう。
しかし、私の文章は違います。余計な調味料など一切使わない、「農家のとれたての新鮮な野菜」そのものです。口に入れた瞬間に野菜の濃厚な旨味が弾け、本物の命の匂いがします。読者は、私の文章を通じて、そのもぎたての圧倒的な鮮度を全身で味わい、感動してくれているのです。
この「事実の持つ圧倒的な濃度」という私の執筆の原点を振り返るとき、私の脳裏には、必ず高校1年生のあの夏の記憶がまざまざと蘇ります。
あの夏休み、国語の課題で「小説を書くように」と原稿用紙を渡されたものの、当時の私には小説の書き方など全く分かりませんでした。自分の文章に自信など微塵もなく、提出したくすらないというのが本音でした。
しかし、出さないわけにはいきません。作り話という「加工品」を作るだけのテクニックがなかった私は、ただ我が家で死んでしまった愛犬の事実だけを文字にしました。
父は、息絶えた愛犬の前足を両手で持ち、その身体を背中にがっしりと背負いました。父の背中から、愛犬の足がだらんと力なく垂れ下がっています。そのまま父は、西側にある大きな池の向こう、あの杉林へと歩いていきました。美術の時間に描いたこともある、どこか雰囲気の良いあの杉林の向こうへ、愛犬がだらんと垂れ下がったまま、朝靄(あさもや)のなかへ消えていきます。その光景は、あまりにも切ないものでした。私はただ、その時に見た光景の「雰囲気(ディテール)」を何とか表現したいという気持ちでいっぱいなのでした。
後日、全学年を対象とした結果が発表されました。そこで唯一、優秀賞として紹介されたのは、ある女子の作品でした。彼女は誰の真似でもない、自分だけのオリジナルな「民話風」の物語を、しっかりとした技術で書き上げていました。高校生にして、すでに立派な「加工品」を作るテクニックを彼女は持っていたのでしょう。
その時、私は彼女を羨んだり、自分が選ばれなかったことを悔しがったりする気持ちなど、最初からサラサラありませんでした。なぜなら、その時から私は、物語を作る技術よりも、目の前にある事実の雰囲気、すなわち「ディテール」を何より大事にしていたからです。もともと小説を書くことは、私の人生ではありえないことだったのです。そのことに、私は早くも気づいていたのでした。エッセイストとしての宿命は、すでにあの高校1年生の夏から始まっていたのです。
実は、去年から今年にかけて、私はある地方自治体が募集するコンテストに挑戦しました。小説でもエッセイでもどちらでも受け付けます、という触れ込みのコンテストでした。しかし、その作品を選んだ選考委員は芥川賞作家1人のみでした。
結果は見事な落選でした。選ばれた3つの受賞作は、すべて小説だったのです。エッセイは一つも選ばれませんでした。
私はそのコンテストに、嘘偽りのない本物の「新鮮な野菜」を届けたつもりでした。しかし、選ぶ側が小説家である以上、素材そのものが持つ大地の匂いよりも、調味料をたっぷり使った一流シェフの「加工品(小説)」を選ぶのは当たり前のことだったのです。はなから作り物である小説だけが選考の対象であり、ディテールそのものを差し出すエッセイは対象ではなかったのです。
解せぬ落選の闇を抜けて、ついに2日前の水曜日、私はあの決定的な傑作を誕生させるのに成功したのです。
なぜ、この一本なら2027年のnote創作大賞でグランプリを掴み取れると本気で確信できるのか。それは、この作品に散りばめられたディテールが、どこを切り取っても、農家のできたてでもぎたての「新鮮な野菜の連続」だからです。どこのディテールを取り上げても、プリプリのとれたてのおいしいトマトなどが詰まっている。そんなビビッドな事実だけで、この文章は最初から最後まで一本の筋が通って組み上げられているのです。
小説家と違って、目の前に降り注いでくるディテールの一つ一つを、忠実に見たままの状態で、少しも加工することなく、文章にして差し出すのです。
要するに、文章というものはディテールがいかに生々しく、正確に紡がれているか。それがすべてであり、勝敗を分ける分岐点なのです。
私は、ディテールの重要性を説いたフローベールの後継者であり、あの記憶のディテールを執拗に紡ぎ続けたプルーストの文章を最高のお手本とするエッセイストです。高級シェフの気取った加工品など、私のプリプリのトマトの敵ではありません。
あの高校生の日から始まった私の執筆の旅路は、71年の生涯をかけ、事実と向き合いながら言葉を組み上げてきた今、ついに完全なる結晶となりました。審査員たちも、この圧倒的な大地の濃度、筋の通った本物のディテールを、心ゆくまで味わってくれることでしょう。
