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【自己紹介:独立コンサル奮闘記】〜中小企業診断士登録・独立・結婚・出産・転勤…怒涛のキャリア前半戦を振り返る〜

前回の続き、いっきまーす!!

まだお読みでない方は、こちらを先にどうぞ。

実務補習を終え、診断士デビューの春

2009年1月。わたしは診断士試験に合格し、さっそく15日間コースの実務補習を選択した。当時は実務従事は一般的ではなく、多くの人は有料の実務補習を受講していた時代。実務従事も、民間企業が提供する有料のものがほとんどだった。

4月に診断士登録を済ませ、同時にアメブロ(アメーバブログ)も開始。まもなく、(今や伝説の)診断士受験ポータルサイト「502教室」にブログリンクを貼ってもらったことで、多くの読者を獲得するようになった。ピーク時の月間アクセスはなんと7万PV!
時代を感じる数字だ。

当時の勤務先は副業OKだったため、診断士活動に積極的にチャレンジできたのはとてもありがたかった。


出会いに恵まれた東京協会での活動

自宅は池袋だったため、東京支部・城西支会(当時)に所属。中小企業政策研究会の分科会や、スプリングフォーラムで知ったいくつかの勉強会にも積極的に参加していった。ありがたいことに、初年度からコンサルティングなど実務経験を積む機会もいただけた。

手前がわたし。お隣は今でも大好きな聡子さん。

興味を持った団体のイベントには一度は参加し、どんな人がいるのか、何が学べるのかを確認した。そのうえで、

・新人が実務経験を積める場
・楽しく学べる場
・魅力的な人がいる場

を厳選し、絞って参加するようにした。この判断は後々の財産になった。

TAC講師デビュー!そして2次対策への道

TACでは、添削講師・コンテンツ開発講師・イベントサポート講師に登録。面接の際に「教室講師もやってみない?」と打診され、プレゼンの練習になるかも…とチャレンジを決意。実は全く自信がなかった。

当時はTACの教室講師の採用は激戦だったが、女性の若手講師が欲しかったのかもしれない(多分きっとそう)。

1次科目の担当は、経営・法務から始まり、その後財務も持つようになった。わたしの得意分野は、今も昔も2次対策。本当はすぐにでも教えたかったが、最初の3年間は2次本科クラスの補助講師として質問対応などを担当。わたしの記憶が正しければ、

池袋校(辻井講師)で2年
渋谷校(三好講師)で1年(池袋校と兼務)
務めた。

演習は毎回自分も解き、受講生と同じぐらい真剣に講義を聞いていたので、とても勉強になった。その後は、大宮校のストレート本科・池袋校の1・2次上級本科で2次対策の担当講師に。

とても良い経験となったのは、高久講師が毎年担当する2次口述対策セミナーで前年度合格者として登壇したこと。当時は参加人数も多く、午前と午後で同じ内容のものを行った。お昼休みに、母親のように慕っていた叔母が亡くなったと連絡が来て動揺するも、午後は収録回だったこともあり、なんとかやり切った。頑張ったわたし、えらい!

注:昔のチラシ。東京にいた時はTAC業務も色々できて楽しかった^^

勤務先の闇と、独立への決断

その頃、勤務先の会社が外部コンサル(無資格・破産経験ありのフリーランス)に乗っ取られ、社内の雰囲気は悪化の一途。続々と社員が辞めていった。

わたしは自分を引き抜いてくれた社長に恩義を感じていたし(要求した年俸に10%のせてくれた!)、そのコンサルと戦いたかった。だけど、診断士の仕事の魅力に取り憑かれ、独立を選んでしまった。

2010年1月。この時点では、顧問先3社(経験がほとんどなかったので、相場より安価な顧問料を設定)。独立初年度から取材やイベント登壇、講師の依頼が少しずつ増え、連載や出版の話も舞い込んできた。


・IDEC横浜創業塾メイン講師(補助講師に6名の後輩を巻き込んだ)
・武蔵小山創業支援センターの起業セミナー
・某行政主催のビジネスプランコンテスト審査員
・基盤機構が運営するJ-Net21診断士向けサイトの編集委員
・受験対策本出版、月刊企業診断連載、など


診断協会東京支部(当時)主催の1年目の会では、1年目代表としてトークセッションに参加、その他協会イベントの司会やゲスト講師なども務めた。

実務優先と考え、プロコン塾的なところには何も参加しなかったけど、某マスターコースの事務局を担当したことで、雰囲気は味わえた。

また、すでに活躍していたコンサルタント・講師などの先輩、公的機関の方々からも声がかかり、独立初年度から全国の専門家登録が進み、出張も増えた。「美容業専門」という希少性、ネイリスト・マネージャーとしての現場・管理職経験も評価されたのだろう。講師としては「TAC講師」という肩書が大きな信用になった。

これらが掛け算となり、早くから多方面で声がかかるようになった。さらに診断士の代表的仕事である「診る・書く・話す」のバランスも良く、週刊誌や新聞取材も多数受けるようになった。女性コンサルタント枠としてコメントを求められることも多かった時代だった。

長女出産後。当時の協会本部にて。

Vividyの結成 〜女性診断士の場を作る〜

診断士2年目には、中小企業診断士女子会「Vividy(ヴィヴィディ)」を結成。自主企画でセミナーを開催したり(後援企業3社獲得)、アサヒグループ診断士会とコラボして実務従事活動も行った。
(アサヒグループ診断士会には葉山研修センターの診断士啓発セミナーにもお招きいただいた。)

結成から2年で100名以上が参加する規模に。受験生も「Petite-Vividy(プチヴィヴィディ)」として懇親会に参加できる仕組みにした。女性診断士の活躍の場を広げたかったから。

結婚・出産などのライフイベントを迎えるメンバーも多く、その後休止状態となったが、とても良い思い出だ。

伝説の502教室でのご縁

受験生時代は参加していなかったが、診断士1年目に診断士受験502教室の管理人Oさんに幹事メンバーへと誘ってもらった。以後、サイト閉鎖まで毎年合格発表後に開催されるオフ会に参加。今でもこの頃の幹事メンバーとは極たまに都内で集まっている。

502教室幹事メンバーと

思わぬ転機、結婚・出産・育児

当初は、ずっと独身だと思ってた。2012年に夫と出会い、2013年2月に入籍。2014年1月に長女出産、2015年11月に長男出産。結婚前から、その後の妊娠可能性を想定して仕事整理を計画し、準備を進めていた。

当時は男性の育休などほぼない時代。仕事を手放さざるを得ない場面も多かったが、並行して増やしていた執筆業が忙しく、入院中もラップトップを開き仕事していた。産後1ヶ月も経たないうちから、夫や実家の母、ベビーシッターを頼りながら最低限の外出仕事を続けた。

それでも、この時期FacebookやTwitter(当時)などのSNSが開けなかった。自分のキャリアが分断される中、活躍する仲間たちや後輩が眩しすぎて。

この頃は必死だった

長女は完母(完全母乳育児)。不在時は冷凍ストックして夫に託した。長男は逆子のため予定帝王切開。片道2時間半かけて逆子整体に通ったが効果なし(涙)。長男はさすがに混合育児(母乳+ミルク)。でも、当時の自分に言ってあげたい。「完ミ(ミルク)でもよかったんだよ…」。

そして名古屋へ

長男出産2日後、夫に内示が出る。「愛知に転勤決定」。当時のわたしは東京での仕事が中心だったため、名古屋駅へのアクセスを最優先に今の住まいを決定(夫に感謝!)。夫だけ先行で名古屋入りし、わたしは長男の3ヶ月健診後に長女を連れて引っ越した。2016年2月末のことだった。ここから名古屋生活が始まる。

さて、仕事どうしよう?(ここからは次回へ続く)

東京時代の“闇”話も少しだけ

大多数は素敵な先輩方だった。でも、残念ながら非常識な方もごく一部には存在した。ひどい時は、セクハラやストーカー被害も受けた。

ここに書いても差し支えない、軽微な出来事を一つ挙げよう。

独立直後、某支会(今は支部)トップにお茶に誘われた。「仕事の話がある」と言われ期待して行くと、延々と自慢話(もちろん割り勘)。そこまではまだ良い。その後、なぜか美術館に誘われる。まるで「仕事の紹介と引き換えに」と言わんばかりの圧。不自然な雰囲気に嫌な予感がして、思い切って途中で「ごめんなさい、帰ります!」と逃げた。

無駄なことに自分の時間の切り売りをしてまで、仕事を得ようとは思わない。この覚悟が、この先ずっと自分の仕事スタンスを支えてくれることになる。

「今はこんなことないよね?」って思いたい。時代も少しずつ変わってきているのだ。

今日はここまで!
次回は名古屋転居後編へと続きます。

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