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折り目⑫|変化 小さな鉢に、変化が宿る【第8章・中編】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門


はじめに

この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。

折り目①|プロローグ|#創作大賞2026#恋愛小説部門
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e

*変化 小さな鉢に、変化が宿る*

取り出したのは、小さな箱だった。白っぽい、なんでもない箱。
ラップフィルムが几帳面に巻かれていた。
「これ」
テーブルの上に置いた。それだけで、何も言わなかった。
朱莉は箱を見た。それから涼介を見た。
涼介はコーヒーカップを両手で持って、窓の外を見ていた。
朱莉はラップフィルムをゆっくり剥がした。箱を開けた。
小さな鉢だった。
中心にエケベリア、周りを細かいセダムが囲んでいた。
土が少し湿っていた。きちんと、水をやってあった。
メッセージカードが添えてあった。
筆圧の濃い、でもまっすぐな字だった。

『      最近仕事ばっかでごめん。
   とっておき考えてるから楽しみにしてて。
     今度はちゃんとする。
        涼介    』  

 
朱莉はカードを持ったまま、しばらく動かなかった。
「とっておきって?」
涼介が振り返った。少し間があって、スマートフォンを取りした。
画面を朱莉に向けた。
露天風呂付きの旅館の予約画面だった。
「前行きたいって言ってたでしょ」
朱莉は画面を見た。懐石料理の写真が並んでいた。お造りの盛り合わせ、しゃぶしゃぶ、炊き合わせ。涼介が何か言いかけて、口を開いた。
「懐石料理、お造りすごくない? しゃぶしゃぶもあるよ」
声が少し上がっていた。いつもより、一段高かった。
朱莉は画面を見たまま、何も言わなかった。
さっきまで泣いていた。涼介の「ごめん」を聞いていた。そして今、旅館の予約画面がある。涼介はちゃんと考えていた。朱莉がいない時間に、ちゃんと考えていた。
それでも毎晩、寂しかったのは本当だった。どちらも、本当だった。朱莉はメッセージカードをもう一度見た。まっすぐな字。筆圧の濃い、涼介の字。朱莉はしばらく鉢を見ていた。嬉しかった。本当に嬉しかった。ただ同時に、泣きそう
になった。泣きそうになった理由が、自分でもよくわか
らなかった。これが欲しかったものかもしれない、と思った。でもそう確信することが、なぜか怖かった。
「ありがとう」
朱莉は言った。
「飾る」
「うん」
涼介はコーヒーを一口飲んだ。窓の外を見た。
「先月、リスケしてごめん」
「もういいよ」
「よくないと思う」
涼介は窓の外を見たまま言った。
「仕事が立て込んでたのは本当だけど、もう少しなんと
かできたと思う。お前が楽しみにしてたの、わかってた
から」
朱莉は何も言わなかった。
涼介は少し考えてから、朱莉を見た。
「なんか、ちゃんとしなきゃと思って」
「ちゃんと」
「うまく言えないけど。お前のこと、ちゃんと大事にし
たいと思った」
何かに気づいた人間の言葉だった。どこで何に気づいた
のかは、朱莉にはわからなかった。
「涼介が言うと、なんか変な感じがする」
「そうだよな」
涼介は苦笑した。
「急すぎるよな」
「急すぎる」
でも嫌ではなかった。朱莉はテーブルに置いた花を見
た。白とくすんだ青。涼介が選んだ色だった。
「来月、海がいい」
「わかった」
「絶対リスケしないで」
「しない」
涼介ははっきり言った。
朱莉はコーヒーカップを持った。窓の外、川が光ってい
た。嬉しかった。戸惑っていた。その二つが、朱莉の中でま
だうまく整理されていなかった。見えているものだけで決めてしまえない気がした。でも今日このことを、しばらく覚えていると思った。涼介がバッグから包みを出したときの、少し不器用な仕草を。自分がそれを受け取ったときに、泣きそうになった理由を。花は、思ったより小さかった。でも部屋に飾るのに、ちょうどいい大きさだった。その夜、朱莉は鉢を窓際に置いた。嬉しい、と思った。スマートフォンを取り出して、写真を撮った。検索した。乾燥した岩場に自生する、とあった。水は週に一度でいい。与えすぎると、根が腐る。花言葉を調べた。エケベリア、と入力した。穏やかな愛情。少し下に、たくましさ、と書いてあった。セダム、と入力した。枯れることのない愛。さらにスクロールすると、落ち着き、とあった。画面を閉じた。画面の端に、89%と表示されていた。スマートフォンを置いた。鉢を手に取って、窓際に移した。日当たりのいい場所に置く、とあった。そのまま少し、見た。涼介が、これを選んだ。それからもう一度、嬉しい、と思った。
二回思わないと、信じられなかった。

しかし、露天風呂付きの旅館、懐石料理の話はその後出なかった。

店に入ったのは19時を少し過ぎたころだった。
窓際の四人掛けに三人で座った。朱莉が奥、澪が通路
側、栞はその向かい。メニューを広げながら、澪が言っ
た。
「涼介、なんか変わったよね」
朱莉はドリンクバーのページから目を上げた。
「変わった」
「なんか、ちゃんとしてきたというか」
栞がストローの袋を折りながら、「ちゃんとって」と
繰り返した。
「うまく言えないけど」澪は続けた。「前は話聞いてる
のかなって思うことあったじゃん。最近それがない気が
して」
朱莉は何も言わなかった。そうかもしれない、と思っ
た。気づいていたのは自分だけではなかった。


『次の作品』


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