折り目⑬|変化 嬉しいのに、まだ馴染まない【第8章・後編】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
*変化 嬉しいのに、まだ馴染まない*
オーダーを取りに来た店員が、少し声を張りすぎた掛け声で注文を復唱した。「———以上でよろしかったでしょうか」よろしかった、という過去形が朱莉の耳に引っかかった。
昔もよく気になっていた。
自分たちも言っていたのかもしれない。
「懐かしいね」
と栞が小声で言った。
「何が」
「なんか、この感じ。ファミレスでバイトしてたとき」
澪がメニューを閉じながら頷いた。
「わかる。席に案内するとき、四人掛けに二人通すのか三人通すのかで毎回迷ってたな」
「私、オーダー間違えたことある」
朱莉は言った。
「ドリンクバーを二つ頼まれたのに一つしかタッチパネルに打たなくて、
お客さんに指摘されるまで気づかなかった」
澪が笑った。栞も笑った。
「あの老夫婦、まだ来てるのかな」
誰が言ったのか、一瞬わからなかった。
「いたよね」
と澪が言った。
「毎週土曜の昼ごろ、窓際に座って、二人ともホットコーヒーだけ頼んで、ずっと話してる」
「旦那さんが先に読み終えた新聞を奥さんに渡すんだよね」
栞が言った。
「いっつも仲良さそうにしてるよね」
「見てたんだ」
「見てた。あの人たちのこと、なんか好きだった」
朱莉も覚えていた。二人がいると、なぜかその日のシフトが少し楽になった気がした。理由はわからなかった。ただそういう人たちだった。
「オラオラのおじさんもいたよね」
澪が言った。
「いたいた」
栞はすぐに反応した。
「なんか毎回違うこと言いがかりつけてくる人」
「あの人はきつかった。ほんとに」
「最初に当たったの私だったんだよね」
朱莉は言った。
澪と栞が少し黙った。
「そうだったっけ」
「そう。初日だったから余計こたえた」
初日。
三人が同じシフトに入ったのは、採用から二週間後のことだった。
朱莉は更衣室でエプロンの紐を結びながら、鏡の中の自分を見ていた。
慣れない制服が少しだけ大きかった。
そこに入ってきたのが澪だった。
「あ、同じ日だ」
朱莉は振り返った。澪は既にエプロンをつけていて、
名札を胸に貼っているところだった。社交的そうな顔、
とその瞬間思った。自分にはないものを持っている人間の顔、と。
「鈴木さん?」澪が名札を見て聞いた。
「はい」
「安西です。よろしく」
そのあと栞が来た。栞はドアを開けて、二人が立って
いるのを見て、少し表情が固まった。
「あ、二人とも今日から?」
「そう」と澪が答えた。
「遠藤です」栞は言って、それきり鏡に向かってエプロ
ンを結び始めた。
三人とも黙った。気まずいわけではなかった。ただ何
を話せばいいのかがまだわからなかった。
ホールに出ると、先輩のスタッフに三人まとめて案内された。
レジの使い方、オーダーの流れ、キッチンとの連絡の取り方。
朱莉は必死でメモを取った。澪はほとんどメモを取らずに頷いていた。
栞は丁寧にメモを取っていたが、字が細かすぎてあとで自分でも読めないと後日こぼしていた。最初のオーダーで朱莉がタッチパネルを打ち間違えた。訂正の仕方がわからず、その場で固まっていると、隣にいた澪が
「これ押せばいいよ」
とさりげなく教えた。教え方に嫌味がなかった。それだけのことだったが、朱
莉は少し楽になった。閉店後、三人で裏口から出た。外は寒かった。
自転車のカゴに荷物を入れながら、栞が言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
澪が返した。
朱莉も
「お疲れさまでした」
と言った。
それだけだった。三人とも別々の方向に帰った。
特別なことは何もなかった。ただそれが最初だった。
天井の蛍光灯が、白く、均一に光っていた。朱莉は気づくと上を見ていた。今いる店の、白い光。
「朱莉?」
澪の声で戻った。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「涼介の話、続き」
澪が言った。
「変わったのはいいとして、朱莉はどう思ってるの」
朱莉はゆっくり空に手を伸ばした。
どう思っているか。
すぐには答えが出なかった。
『次の作品』
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