折り目 ⑭|【第9章】離れているあいだに|#創作大賞2026 #恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
*同じ空の下で*
客は少し困った顔をしていた。
「すみません、今回は」
朱莉は頭を下げた。ドアが閉まった。
外に出ると、風が少し冷たかった。
次の物件まで15分。スマートフォンで地図を確認して、歩き始めた。
さっきの客のことを考えた。予算の話は最初からずれていた。
それとも説明の仕方が悪かったのか。
考えても、はっきりしなかった。
「常識的に考えてさ」って言われた。
ふと上を見た。飛行機が一機、空を横切っていった。涼介が浮かんだ。
朱莉は地図を確認して、歩く速度を少し上げた。
その頃、涼介は検査場に立っていた。
列はいつものように動いていた。トレーを回収して、次の客を案内する。
またトレーを回収する。ブーツを履いた女性が、
荷物を前にして立ち止まっていた。脱いだブーツを手に持ったまま、どうすればいいか分からない様子だった。
涼介はトレーを一つ差し出した。スリッパも一足、隣に置いた。
「こちらに置いていただいて大丈夫です」
女性は少し安心した顔をした。
ブーツがトレーに置かれた。
トレーがコンベアの奥へゆっくり流れていった。
涼介は次の客を呼ぼうとして、ほんの一瞬だけ視線を止めた。
朱莉が浮かんだ。
「次の方どうぞ」
夜の8時を過ぎていた。
駐車場の端に澪が先に立っていた。
スマートフォンを見ていた。
「遅い」
栞が小走りで近づいた。
「ごめん、電車が」
朱莉も後ろから来た。
「私も今来た」
涼介が最後に来た。涼介も仕事終わりに直接来た。今までなら面倒だから行かないが。
「お待たせ」
四人で自動ドアをくぐった。店内は空いていた。
昼とは違う静けさがあった。
離れた席で初老の男が一人、コーヒーを飲んでいた。いつもの席に座った。メニューを開いた。涼介だけ少し時間をかけて選んでいた。
注文を終えると、澪が言った。
「なんか新鮮だね、四人って」
栞が笑った。「ほんとに」
「おつかれー」と澪が言った。
「おつかれ」と三人が返した。
しばらく、それぞれの仕事の話になった。
澪が今日の保安検査で変な客がいた話をした。
栞が施術中に寝落ちした患者の話をした。
涼介が今日の乗客の話をした。
栞が涼介を見た。
「そういえば涼介くん、土手で会ったよね」
涼介が少し止まった。
「ああ、うん」
「なんか、人生終わりみたいな顔してたよ」
涼介が苦笑いした。
「そんな顔してた?」
「してた」と栞が言った。澪も小さく頷いた。
朱莉はグラスを持ったまま、涼介を見た。
涼介は照れたように視線を外した。
澪がストローを回した。
「で、朱莉。今日契約取れなかったんでしょ。大丈夫なの」
「まあ」と朱莉は言った。少し間があった。
「最近ちょっと、このままでいいのかなって思うことある」
「仕事が?」
と栞が聞いた。
「仕事も、そうだし」
朱莉はグラスを見た。
「バレー教えてたじゃん、昔。また、ああいうことしたいなぁって、最近なんだかそう思う」
澪が少し驚いた顔をした。
「コーチとか?」
「うーん、分からない。まだ」
朱莉は笑った。
「なんかさ、栞にね、手伝わないかって言われたの。子どもたちに教えるやつ」
少し声が明るくなった。「へえ」
澪は少しだけ目を細めた。
「いいじゃん」
「まだ、やるって決めたわけじゃないよ」
朱莉はそう言って、グラスの水滴を指でなぞった。
「でも、言われたとき、嫌じゃなかった」
澪は少し黙って、それから頷いた。
「いいと思うよ。朱莉、そういうの向いてると思う」
「そうかな」
「うん。教えるの、昔から上手かったじゃん」
朱莉はグラスについた水滴を指でなぞった。
その言葉が、思っていたより胸に残った。
「あとさ、今日なんかちょっと変なことあって」
澪が眉を上げた。
「なにそれ」
「契約取れなくて、外歩いてたら飛行機が見えて。なんか、涼介のこと考えたら元気出てきて。LINEしたら、涼介も同じこと考えてたって」
澪が朱莉を見た。それから涼介を見た。
「えー、惚気話?」
涼介が笑った。
「惚気じゃないけど」
栞が口を押さえた。
「でもよかったー。ちょっと前まで朱莉、涼介にかまってくれなくて死にそうな顔してたから」
朱莉が栞を見た。
「死にそうはひどい」
「してたよ」
と澪が言った。四人が笑った。ドリンクバーの機械が、低い音を立てた。
*偶然思い出す人*
少し間があって、栞がストローを回した。
「付き合うってさ」
澪が顔を上げた。
「急にどうしたの」
「休みの日に遊ぶこととか毎日連絡するとか、そういうことだけじゃない気がする」
澪が首を傾けた。
「じゃあ何?」
栞は少し間を置いた。
「一緒にいない時に思い出す人じゃない?」
キッチンで片付けの音がした。
「それ、恋人じゃなくてもよくない?」
澪がグラスを見た。
少し間が空いた。
澪は首をかしげた。
「友達でも、あるかなぁ。そういうの」
「あると思う」
栞は頷いた。
「でも、思い出したあと、会いたくなるかどうかは違う気がする」
「そうか、それでも会いたいなら、恋人なのかもしれない」
朱莉はそう言い終わってグラスの水を一口飲んだ。
外を歩いていた時に見た飛行機を思い出した。
ただ空を横切っただけなのに、涼介のことが浮かんだ。
それだけで、少し歩けた。
窓の外で、街灯が暖かく光っていた。
『次の作品』
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