折り目③|残量【2章前編】|#創作大賞2026#恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
2章前編 残量
*31% それだけだった*
次の日だった。
『今日も遅くなる?』
送信ボタンを押した。19時12分だった。
スマートフォンをテーブルに置いた。画面を上に向け
たまま、キッチンに立った。冷蔵庫を開けた。特に何も
取らなかった。閉めた。何か食べようとしたわけじゃな
かった。ただ、立っていたかった。テーブルに戻った。椅子を引いて座った。窓の外を見た。遠くのビルに灯りがいくつかついていた。残業しているのか、消し忘れなのか、わからなかった。涼介や澪は今ごろ空港にいるのだと思った。
カウンターにいるのか、保安エリアの中なのか、搭乗口の近くなのか、そういう細かいことを朱莉は知らなかった。
知らないまま、ただ遠い場所を思い浮かべた。画面はまだ暗いままだった。
夕飯を食べた。冷蔵庫にあったものを適当に組み合わせた。
少し冷たかった気がした。
でも何を食べたか、あとで思い出せない気がした。
皿を洗った。
泡が排水口に吸い込まれていくのを少し見ていた。
ドライヤーをかけた。
髪が乾いたころ、スマートフォンを見た。
既読がついたのは21時を過ぎていた。
返信が来た。
『遅くなった。疲れた。』
朱莉はしばらくその文字を見た。五文字と四文字。それだけだった。責めているわけじゃない、と思った。疲れているのはわかっている。でも、もう少し何かあってもいいんじゃないか、とも思った。その「何か」が何なのか、うまく言葉にならなかった。言葉にならないまま、指が動いた。
『そっか。ゆっくり休んで。』
送信した。残量は、11%だった。返信は来なかった。布団に入って、天井を見た。暗かった。蛍光灯を消したから当たり前だった。目を閉じた。涼介の「疲れた」という文字が、まだ頭の中にあった。それ以上でも、それ以下でもなかった。翌日も仕事だった。
昼休みにスマートフォンを見た。涼介からは何もなかった。朱莉からも送らなかった。送ろうとして、やめた。何を送ればいいかわからなかった。「おはよう」は朝に送るものだし、「お昼どうしてる」は踏み込みすぎる気がした。何でもない一言が、何でもなく送れなかった。お弁当を食べながら、同僚の話を聞いた。笑うところで笑った。午後の業務をこなした。
帰りの電車の中で画面をつけた。涼介のトーク画面を開いた。最後のメッセージは昨夜の「疲れた」だった。
その上に自分の「ゆっくり休んで」があった。既読はついていた。それだけだった。画面を消した。網棚の荷物を少し見て、また前を向いた。木曜日だった。
仕事帰りに一駅手前で降りた。特に理由はなかった。
少し歩きたかった。改札を出ると、商店街のアーケードが続いていた。平日の夜で、人はまばらだった。惣菜屋の前を通ったとき、揚げ物の匂いがした。少し足が止まりかけて、また歩いた。
服屋のウィンドウに自分が映った。髪が少し乱れていた。
足を止めた。中に入った。週末のことを考えながら棚を見た。
涼介と行く予定の店を頭に浮かべた。リスケにはなったけれ
ど、いつか行くかもしれない。そう思いながら、明るい
色のブラウスを手に取った。試着室に入った。鏡の中の自分を見た。悪くなかった。買うつもりはなかった。でもレジに持っていった。店員が丁寧に畳んで袋に入れてくれた。ありがとうございます、と言われた。ありがとうございます、と返した。外に出ると、少し風が冷たかった。袋を提げたまま歩いた。スマートフォンを取り出した。涼介に何か送ろうとしていた。買い物した、でも。今日どうだった、でも。指が画面の上で止まった。アーケードを抜けたところで、スマートフォンをポケットに戻した。充電が31%だった。まだ、三割あった。ゼロではなかった。金曜日の昼、美容室の予約を入れていた。担当の人と他愛のない話をした。最近どうですか、仕事忙しいですか、そういう話をした。鏡の中の自分が、相槌を打ちながら笑っていた。話しながら、自分の声が少し遠かった。
仕上がりを確認して、ありがとうございましたと言った。
外に出た。風が髪に当たった。悪くはなかった、と思った。
涼介に見せたかった、と思った。思ってから、その気持ちを少し持て余した。スマートフォンを取り出した。写真を撮ろうとして、やめた。送っても、返事が来るかわからなかった。それが嫌だった。送って、既読だけつくのが、もっと嫌だった。明日会えばいい、と思った。
充電が31%だった。そういえば昨日も31%だった、と思った。それだけだった。
夜、部屋で木曜日に買ったブラウスをもう一度広げた。
ハンガーにかけて、クローゼットの扉に引っ掛けた。
少し離れて見た。色は悪くなかった。明るくて、軽い感じがした。でも、誰かに見せる予定がなければ、ただ布が吊るされているだけだった。それでも、しばらく眺めた。やがてハンガーから外して、丁寧に畳んだ。買ったときの折り目が、まだ残っていた。
スマートフォンが鳴った。
涼介からだった。
『今週末、仕事入りそう。ごめん。』
朱莉はその文字を読んだ。もう一度読んだ。驚かなかった。驚かなかった自分に、少し驚いた。どこかで予感していたのかもしれなかった。木曜日に服を買ったとき、金曜日に写真を撮るのをやめたとき、もうわかっていたのかもしれなかった。それでも、文字を見たとき、胸のどこかが小さく沈んだ。指が画面の上で止まった。何か返さなければならなかった。でも何を返せばいいかわからなかった。「大丈夫」は大丈夫じゃない気がした。「わかった」は何もわかっていない気がした。「またね」は、またがあるかどうかわからなかった。どの言葉も、自分の気持ちとずれていた。
画面が暗くなった。
朱莉はスマートフォンをベッドの上に置いた。クローゼットの扉のブラウスを見た。さっきより、明るい色に見えた。目の奥が熱くなった。こらえようとした。こらえられなかった。涙が一筋、落ちた。声は出なかった。
鼻の奥がつんと、した。しばらくそのままでいた。
部屋が静かだった。向かいのビルの灯りが、カーテンの隙間から少し見えた。誰かがまだ起きている。
それだけがわかった。
それから、スマートフォンを取った。充電が8%だった。返信はしなかった。特に意味もなく動画を流していた。音楽はポップだった。画面の中だけが、楽しそうだった。何も思わなかった。
画面が急に暗くなった。電源が落ちた。
しばらくそのまま持っていた。それから、充電器にさした。電気を消した。
*31% 足りないまま*
退勤の打刻をしたのは21時を過ぎていた。ロッカーを開けた。上着を取って袖を通した。廊下に出ると、空調が切れていた。昼間はあれだけ人がいたのに、今は誰もいなかった。床に自分の足音だけが残っていた。
スマートフォンを取り出した。朱莉からのメッセージが来ていた。
『今日も遅くなる?』
送信時刻は19時過ぎだった。2時間、気づかなかった。気づかなかったというより、見る余裕がなかった。18時から始まった会議が長引いて、終わったあとも上司に呼び止められた。来月のシフト見直しの件と、新人教育の件と、それからリーダー候補としての動きについて、いくつか話があった。涼介はうなずきながら、頭の中で別のことを整理していた。明日確認しなければならないこと、今週中に提出しなければならない書類、来週の引き継ぎの段取り。遅くなった。疲れた。送信して、画面が暗くなった。エレベーターのボタンを押した。扉が開くまでの数秒、壁を見ていた。何も考えていなかった。コンビニに寄った。温かいものを買う気になれなかった。棚の前に立って、しばらく眺めた。肉まんの匂いがした。食欲はなかった。缶コーヒーだけ取った。
レジで小銭を出している間、頭の中にはまだ仕事のことが残っていた。上司の言葉が、断片的に繰り返された。チームをまとめる立場として、という言葉が、特に残っていた。期待されているのはわかった。でも今夜は、それを考え続けることがしんどかった。外に出た。缶を開けた。苦かった。夜風が少し当たった。スマートフォンを見た。朱莉から返信が来ていた。
『そっか。ゆっくり休んで。』
涼介は読んだ。そのままポケットに入れた。返す言葉が思い浮かばなかった。思い浮かべようとしなかった、という方が正確かもしれなかった。缶コーヒーをもう一口飲んだ。風が止んだ。
部屋に帰った。鍵を閉めた。上着をソファに置いた。シャワーを浴びた。お湯が背中に当たっている間、何も考えなかった。考えようとしたけれど、何も来なかった。ただお湯が流れていた。出てきて、タオルで髪を拭いた。そのとき、朱莉と今週末に会う約束があったことを思い出した。無理かもしれない、と思った。今週だけじゃなかった。ここ数週間、ずっとそうだった。仕事が終わると何もできなかった。部屋に帰って、シャワーを浴びて、横になる。それだけで一日が終わった。朱莉と会いたくないわけじゃなかった。ただ、会いに行く自分を想像したとき、何かが足りなかった。笑える気がしなかった。ちゃんとそこにいられる気がしな
かった。LINEを開いた。今週末、仕事入りそう。ごめん。送信した。嘘ではなかった。土曜日に出勤の可能性は本当にあった。でも確定でもなかった。確定していないのに送った。それはわかっていた。しばらくして、既読がついた。返信は来なかった。涼介はスマートフォンを充電器にさした。ベッドに横になった。天井を見た。責任者の打診を受けたのは、三か月前だった。断る理由はなかった。むしろ、ここまで積み上げてきたものが認められた気がした。でも実際に動き始めると、覚えることと判断することと気を配ることが、想像よりずっと多かった。毎日何かが足りないまま終わった。今日も足りなかった。明日も、足りないままになる気がした。それでも、やめるという選択肢は浮かばなかった。
窓の外で、風が鳴った。涼介はそのまま目を閉じた。朱莉のことを考えようとした。でも何も来る前に、意識が薄くなった。
『次の作品』
『過去作を含め1話から読むなら折り目マガジンがおすすめ』
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