折り目④|境界 【2章後編】 |#創作大賞2026#恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、
最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
2章後編 境界
*40% 言わなきゃわからない*
前回と同じ窓際の席だった。栞がメニューを開きながら言った。
「また来ちゃった」
「来ちゃったね」
澪が笑った。朱莉はドリンクバーのコーヒーを取りに立った。戻ってくると、澪はオレンジジュース、栞はカフェラテを前にしていた。席に座り直して、三人でメニューを眺めた。朱莉はカップに手を添えたまま、しばらくそのままだった。特に何かを決めるわけでもなく、ページをめくった。いつものことだった。澪の職場の話、栞が最近見たドラマの話、北千住の駅前に新しい店ができた話。話は途切れず続いたが、朱莉は笑うたびに少し遅れた。窓の外を人が通った。夕方の光が斜めに差し込んでいた。朱莉はメニューを開いたまま、少しぼんやりしていた。
しばらくして、栞が朱莉を見た。
「なんか顔色悪くない?」
澪がストローをくるくると回した。オレンジジュースの中で氷が動いた。
「涼介くんと何かあった?」
朱莉は少し間を置いた。テーブルの上の指を見た。
「別に、何かあったわけじゃないけど」
誰も急かさなかった。栞はカフェラテのカップを両手で持ったまま待っていた。澪はストローを止めた。
「週末、キャンセルされた」
栞がカップを置いた。
「ねえー、今回が初めてじゃないよね?」
「二回」
「やばすぎ、続いてるね」
澪は何も言わなかった。ただ朱莉を見ていた。
「仕事が忙しいのは知ってる。わかってる。わかってるけど」
少し間があった。
返事のない間も店内ではBGMはそのまま流れている。
少し離れたテーブルで笑い声がひとつ上がった。
朱莉はテーブルを見たまま、続けた。
「返信も短くて。既読つくまで時間かかって。会えない日が続いて」
栞が静かに言った。
「楽しみにしてたんだよね」
朱莉はうなずいた。小さく、一度だけ。
澪がストローをグラスの縁に置いた。少し間があってから、口を開いた。
「それ、ちゃんと言った?」
朱莉が澪を見た。
「涼介くんに。朱莉がそう思ってること」
「言えてない」
「言わなきゃわかんないよ」
澪の声は責めていなかった。ただ、まっすぐだった。
朱莉はその声を受け取って、少し目を伏せた。
「忙しいのはわかってる、でも寂しかった、楽しみにしてた。それ全部、ちゃんと言わないと」
朱莉はテーブルの上の指を見た。栞が続けた。
「怖い?」
「怖いというか」
朱莉は少し笑った。うまく笑えなかった。
「言ったら、なんか終わりそうで」
誰も笑わなかった。澪がテーブルに肘をついて、朱莉を見た。
「言わない方が終わるよ」
窓の外の光が傾いていた。三人分のグラスや食器に、夕方の色が混じっていた。
朱莉はコーヒーを一口飲んだ。冷めかけていて、苦みだけが少し残った。
澪がもう一度言った。今度はもっと静かに。
「ちゃんと言いな」
栞は何も言わなかった。でもその沈黙が、澪と同じことを言っていた。朱莉はうなずかなかった。でも、カップを置いた手は、少しだけ落ち着いていた。—このままでは、何も変わらない気がしていた。
*46% 待たない*
朱莉の声が、最初から違った。
インターホン越しに名前を聞いたとき、何かが来ると思った。朱莉、という声が、いつもより少し固かった。アポなしで来ることは今までなかった。何かあったのだろうとは思った。それでも疲労が勝って、5分待ってと言った。着替えながら、今日じゃなくてもいいのに、と思った。その考えが浮かんだことに、涼介は気づかなかった。
ドアを開けると、朱莉は立っていた。
廊下の蛍光灯の下で、朱莉はまっすぐこちらを見ていた。怒っている顔ではなかった。ただ、何かを決めてきた顔だった。涼介は朱莉を見て、それから半分だけ開いたドアの向こうに視線をやった。開いた隙間からでも部屋は片付いていないのがわかった。ソファの上には仕事の書類が重なり、ローテーブルには飲みかけの炭酸と、食べ終えたカップ麺の容器が置かれていた。脱いだシャツが床の近くに落ちたままだった。
「ちょっと待って」
「待たない」
朱莉は動かなかった。涼介は何か言おうとして、口を閉じた。目を細めた。それから、あくびが出た。手で口を押さえたが、隠しきれなかった。朱莉の目に、じわりと涙が浮かんだ。涼介はその目を見た。それから視線を逸らした。
「悪かった」
低い声だった。着替えて出ると、朱莉は同じ場所に立っていた。
「近くにカフェある」
「知ってる」
二人で歩いた。距離があった。何も話さなかった。街灯がついていた。夕方から夜に変わりかけていた。涼介は前を向いたまま歩いた。隣の朱莉の足音が、自分より少し速かった。
『次の作品』
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