折り目⑤|いもようかん【3章前編】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、
最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
3章前編 いもようかん
*なんでじゃない*
仕事終わりに迎えに行くよ、と送ったのは栞だった。澪からは既読だけついて、しばらく返信がなかった。10分後に来たのは、『え、なんで』だった。『なんでじゃない』と栞は返した。久しぶりに会いたかっただけ。
澪からはまた間があって、
『18:30 第二ターミナル出口』
と来た。それだけだった。栞は笑いながらスマートフォンを鞄に入れた。電車を乗り継いで、羽田に着いたのは18時過ぎだった。ターミナルに入ると、空気が少し乾いた。外の湿った風とも、街の雑な熱とも違っていた。人が動いていた。スーツケースを引く音、アナウンスの声、遠くで子どもが何か言っている声。どこかから出発する人と、どこかから帰ってきた人が、同じ空間を通り過ぎていった。栞は案内板を見上げた。出口まで少し時間があった。せっかくだから、と思って、お土産売り場の方へ歩いた。
*それだけでできている*
売り場は広かった。
どこに何があるのか、すぐにはわからなかった。栞は端から順に歩いた。クッキー、せんべい、チョコレート、東京の名前がついたものが棚に並んでいた。東京ミルクチーズ工場のコーナーで足が止まった。ミルクチーズブッセ、と書いてあった。箱のデザインが洗練されていた。カマンベールチーズと書いてあった。栞は少し意外に思った。空港っぽいな、と思った。買おうか迷って、ひとまず持ったまま歩いた。
次のコーナーにメープルマニアがあった。最初に目に入ったのは、店員だった。青いオーバーオールに茶色いキャップ。活発な少年を模した装いで、サンプルのクッキーを片手に立っていた。栞はその格好を一瞬見て、それからパッケージを見た。同じ少年が印刷されていた。古き良き時代のアメリカ、という感じがした。懐かしいような、見たことないような。「どうぞ」と店員が差し出した。栞はサンプルを一枚もらった。メープルバタークッキーだった。口に入れると、甘さがゆっくり広がった。悪くなかった。というより、おいしかった。一箱手に取った。少し歩いて見て回っていると、舟和の売り場があった。いもようかん、と書いてあった。
売り場の女性店員が、目元まで笑って言った。
「よろしければご説明します。さつま芋と砂糖と食塩で造りあげた素朴な風味のようかんです。着色料・保存料・香料はいっさい使わず、自然な風味をそのまま生かしております」
栞は店員を見た。それから、ようかんを見た。
「ひとつください」
有料の保冷バッグに入れてもらいながら、栞はその素直な材料の並びを頭の中で繰り返した。さつま芋と砂糖と食塩。それだけで成立している。
*あとで言う*
澪が出てきたのは、 18時35分だった。
制服のままだった。髪が少し乱れていた。栞を見つけて、少し眉を上げた。
「本当に来た」
「言ったでしょ」
「なんで、羽田まで」
「なんでじゃない」
澪は栞の手元を見た。
「何買ったの」
「お土産」
「誰に」
「あとで言う」
澪はしばらく栞を見て、それから歩き出した。
「着替えてくる。展望デッキ行ける?」
「行きたかった」
「そう」
澪の背中を見ながら、栞は袋を持ち直した。澪が着替えて戻ってきた。私服になると、少し小さく見えた。栞はそれを言わなかった。二人で土産売り場の前を通った。澪が立ち止まった。東京ミルクチーズ工場のコーナーを見た。
「これ、空港っぽいね」
栞は笑った。
「空港っぽいってなに」
「なんか、空港で買うものっぽい」
「どこで買っても一緒でしょ」
「でも空港で買う方がおいしそうじゃない?」
「気のせいだよ」
澪はミルクチーズブッセを手に取った。裏を読んだ。カマンベールチーズ。
「カマンベール入ってるんだ」
「入ってる」
「買う」
栞はまた笑った。
「朱莉にも買っていこうよ」
と澪が言った。
「どうせ近いうちに会うでしょ」
栞はうなずいた。澪はミルクチーズブッセをもう一箱取った。それからメープルマニアの前でも立ち止まった。
「メープルマニアも買う」
「買いすぎ」
「朱莉の分」
「さっきのはどっちの分」
「朱莉の分」
「じゃあさっきのは?」
「朱莉の分」
栞は呆れながら、でも止めなかった。澪がレジに向か
うのを、後ろから見ていた。
『次の作品』
『過去作を含め1話から読むなら折り目マガジンがおすすめ』
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