折り目⑦|それ、飯じゃない【4章】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
4章 それ、飯じゃない
*いつもの席*
澪からLINEが来たのは、火曜日の夜だった。
『今週末、二人で飯行かない?』
朱莉はしばらく画面を見た。
栞は入っていなかった。
——それだけで、少しだけ意味が変わった気がした。
『いいよ』と返した。
土曜日の夕方、いつものファミレスに入った。
澪はもう来ていた。
窓際の席で、スマートフォンを見ていた。
朱莉が近づくと顔を上げて、軽く手を挙げた。
「お待たせ」
「全然。座って」
ドリンクバーのコーヒーを取りに立って、戻ってきた。
澪はオレンジジュースだった。いつもと同じだった。
——それが、少しだけ救いだった。
他愛のない話から始まった。仕事の話、最近見た映画の話。
澪はよく笑った。朱莉も笑った。
料理が来て、二人で食べた。フォークを持ったまま、何度か止まった。
言えばいいのに、と思った。でも、今じゃない気もした。
しばらくして、話が途切れた。
澪がオレンジジュースをストローで混ぜた。
*言わない人*
朱莉はコーヒーカップを両手で持った。
「涼介のこと」
朱莉が口を開いた。澪はストローを止めた。
「あのカフェの日から、少し連絡してる」
「そうなんだ」
「でも、どうすればいいのかよくわからなくて」
澪は何も言わなかった。ただ、朱莉を見ていた。
「あの夜、ちゃんと話した。言いたいこと、全部言った。涼介もごめんって言った。でもそれで終わって、次どうするかは、まだ決まってなくて」
朱莉はカップを置いた。
「澪って、涼介と職場近いよね?」
「うん」
「どんな人なの、職場では」
澪はしばらく考えた。
「真面目だよ。すごく」
朱莉は澪を見た。
「後輩への面倒見がいいんだよね。自分の仕事しながら、ちゃんと周りも見てる。新しく入った子が困ってたら、自分から声かけに行くし、わからないことがあったら時間かけて教える。押しつけがましくなくて、でもちゃんとそこにいる感じ」
澪はオレンジジュースを一口飲んだ。
「仕事も丁寧。雑なところがない。だからリーダー候補に上がったんだと思う。上の人たちがそれを見てたんだよね、ちゃんと」
「リーダー候補の話、本人から聞いた?」
「え、聞いてない。」
澪は少し驚いた顔をした。それから、視線を落とした。
「あいつ、そういうの言わないんだよね。自分のこと。黙ってやってる」
「就活、大変だったって聞いたことある」
と澪が続けた。
「本人から直接じゃなくて、たまたま知ったんだけど。三十社以上落ちてたって。でも誰にも言ってなかったらしい」
朱莉は澪を見た。
「今の仕事、すごく大事にしてると思う。やっとここまで来たって思ってるんじゃないかな。だから余裕がなく
なってる。余裕がなくなってることにも、たぶん気づいてない」
澪はそこで止まった。責めているわけではなかった。
ただ、知っていることを話していた。
「朱莉のこと、嫌いになったわけじゃないと思う。それだけは言える」
朱莉はテーブルの上の指を見た。
「わかってる」
少し間があった。厨房から皿の音がした。隣のテーブルで誰かが笑った。
「私もさ」
と朱莉が言った。
「あの夜、言いたいこと全部言えてよかったとは思ってる。でも、言ったあとどうすればいいかわからなくて。怒ってるわけじゃないし、終わりにしたいわけでもないし」
*終わりにしなくていい*
「じゃあ、終わりにしなくていいんじゃない」
澪がさらっと言った。
「そんな簡単に」
「簡単じゃないけど、難しくもない。朱莉が終わりにしたくないなら、終わりにしなければいい」
「あいつが悪かったのは本当だと思う。でも朱莉も、ずっと言えなかったんでしょ。お互い様じゃないけど、お互いに抱えてたものがあった。それを話せたなら、次に進めると思う」
朱莉は何も言わなかった。
「涼介さ、あのカフェの夜のあと、少し変わったよ。職場でも、なんか、ちょっと柔らかくなった気がする。何があったかは聞いてないけど」
澪はそこで笑った。小さく、静かに。
「朱莉が言ったこと、ちゃんと届いてると思う」
窓の外の光が、完全に夜になっていた。ファミレスの蛍光灯が白く広がっていた。朱莉はテーブルの上のスマートフォンを見た。しばらく、そのままでいた。澪は何も言わなかった。急かさなかった。オレンジジュースを飲みながら、窓の外を見ていた。
*まだ返していない*
朱莉はスマートフォンを手に取った。涼介のトーク画面を開いた。最後のメッセージは、カフェの翌朝に涼介から来た一文だった。
『昨日はありがとう』
何度も読んでいた。でも返せなかった。指が動いた。
『今日、澪と飯食べた。少し話した。』
送信した。返すつもりは、なかったのに。
画面を伏せようとして、止まった。すぐに既読がついた。
すぐには返ってこなかった。数秒なのに、少し長く感じた。
『そっか。何食べた?』
朱莉はその文字を見た。澪を見た。澪はまだ窓の外を見ていた。
朱莉はまた画面を見た。
『ファミレス。ドリンクバーのコーヒー』
送信した。
すぐに返ってきた。
『それ、飯じゃない』
朱莉は少し笑った。声には出なかった。澪がこちらを見た。
「何?」
「なんでもない」
澪はしばらく朱莉を見て、また窓の外を向いた。口元が少し動いた気がしたけれど、何も言わなかった。
朱莉はスマートフォンをテーブルに置いた。画面を上に向けたまま。コーヒーを一口飲んだ。少し冷めていた。でも、そのままでよかった。ちゃんと温かいままじゃなくてもいい気がした。
窓の外を、人が通った。それぞれの方向へ、それぞれの速さで歩いていた。朱莉はそれを見ながら、もう一度コーヒーを飲んだ。
『次の作品』
『過去作を含め1話から読むなら折り目マガジンがおすすめ』
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