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折り目⑧|計算のゆくえ【5章】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門

『前回の作品』


はじめに

この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。

折り目①|プロローグ|#創作大賞2026#恋愛小説部門
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e

*止まらない計算*

電車に座れた。さっき送ったメッセージに、既読はまだつかない。向かいの席に、スーツの男が目を閉じている。隣には、朱莉と同じくらいの女性が座っていた。イヤホンをしたまま窓の外を見ていた。
線路と車輪の音、空調の音、雑音が続いている。

返事が来ないだけで、頭の中が先に進んでいく。
来ない理由を、勝手に並べてしまう。
昔からそうだった。

朱莉は鞄を膝の上に置いた。
サポーターが、少し窮屈だった。外すタイミングが、わからないままだった。
今も、栞のいる整骨院に通っている。受付や患者の前では、彼女は遠藤先生と呼ばれていた。
「炎症はもうほぼないですね」
遠藤の指が膝蓋腱の際を押した。朱莉は天井を見たまま、少し息を吐いた。
「でもサポーターはまだつけてるんですね」
「なんか、外すタイミングが」
言いかけて、止まった。遠藤は何も言わなかった。手だけがゆっくりと動いている。
「大学の時からずっとつけてて、もう癖みたいになってて」
「インカレ前でしたっけ」
「二年生の時。直前に」
朱莉は天井の蛍光灯を見た。
白くて、まっすぐだった。
「焦っちゃって」
言葉が少し途切れた。
「うん」
遠藤の返事は短かった。でも手は止まらなかった。
「まあ、昔の話ですけど」
朱莉は笑った。遠藤も少し笑った。
しばらく沈黙が続いた。遠藤の指が膝の内側に移動する。
「仕事は最近どうですか」
「忙しいですね」
「そうか」
朱莉は何か言いかけて、やめた。

体育館の天井も、白かった。
大学に入って最初の練習の日、朱莉は列の後ろで走りながら、ずっと天井を見ていた。
高校のときより高い、とそれだけ思った。推薦で入った自分が、ここでは一番後ろにいた。それでも、ここに来られたという事実が、まだ自分を支えていた。一年目は、ただ走った。六月から、駅前のファミレスでバイトを始めた。コートの外でも、居場所はあった。


*大丈夫だ*

二年の春が終わりかけたころ、最初の違和感があった。
アップのランニング中だった。左膝の少し下、腱のあたりに、引っかかるような感覚が一瞬あった。走り続けた。十分後には消えていた。同じことが、二週間後にもあった。今回は少し長く残った。でも最初のレシーブで動いたとき、また消えた。体は動いた。動けるなら大丈夫だと思った。動いてしまった。
三週間後にも、また来た。朝、起き上がったときに少し張っていた。階段を降りるとき、一瞬だけ重かった。でも体育館に着いて動き始めると、やはり消えた。消えるたびに、朱莉は同じ結論を出した。大丈夫だ、と。インカレまであと三か月だった。その数字が、いつも膝の感覚より先に来た。
体は動いた。


*計算*

由美子コーチに呼び止められたのは、七月に入ってからだった。
「走り方が少し変わってる。膝、診てもらいな」
その日の午後、病院に行った。待合室は静かだった。隣に老人がいた。膝に手を置いて、床を見ていた。診察室で、先生は膝を触りながら説明した。膝蓋腱炎。安静にして適切なリハビリを続ければ、ちゃんとバレーに戻れる。声は穏やかだった。朱莉はうなずいた。先生の言葉は、全部聞こえていた。聞こえていたけれど、頭の中で別の計算が動いていた。インカレまで、あと何週間あるか。三か月休んだとして、戻れるのはいつか。戻れたとして、その時に居場所はあるのか。なかったら。戻れなかったら。計算は止まらなかった。先生がまだ話している間も、止まらなかった。病院を出ると、夕方だった。足が地面を踏むたびに、膝の感覚を確かめていた。今は痛くなかった。それが、余計に判断を狂わせた。


*外側*

リハビリは、体育館の隣の部屋でやった。
壁一枚の向こうから、練習の音が聞こえた。笛の音、ボールの音、誰かの掛け声。朱莉はリハビリ用のチューブを引きながら、その音を数えるように聞いた。何本打ったか。誰の声か。
一か月が経ったころ、同期の子が来た。
差し入れにゼリーを持ってきて、「早く戻ってきてね」と言った。善意だった。それはわかった。でも朱莉はうまく返せなかった。笑ったと思う。何か言ったと思う。その子が帰ったあと、ゼリーをしばらく開けられなかった。トレーナーに言われたのは、その翌週だった。
「朱莉、焦ってるよ」
返す言葉がなかった。
否定しようとしたけれど、声が出なかった。焦っていないとは言えなかった。でも焦っていると認めたら、今やっていることが全部崩れる気がした。だから何も言わなかった。トレーナーはそれ以上何も言わなかった。部屋が静かになって、また壁の向こうから笛の音がした。インカレの当日、朱莉はジャージを着てベンチに座った。アップが始まると、選手たちがコートに散らばった。朱莉は端のパイプ椅子に座って、その動きを目で追った。

自分が打つはずだったポジションに、後輩が入っていた。一年生だった。背が高くて、踏み込みが速かった。うまかった。それは素直にそう思った。

試合が始まった。最初のサーブが上がって、ラリーが続いた。朱莉はボールを目で追い続けた。体が反応しそうになるたびに、椅子の縁を握った。感情の名前を考えなかった。
考えると、何かが崩れる気がした。第一セットを取った。ベンチが沸いた。朱莉も立ち上がって拍手した。第二セット、相手が追い上げてきた。デュースになった。隣に座る四年生の先輩が、膝の上で手を組んだまま前を見ていた。朱莉はその横顔を少し見て、また前を向いた。ベンチの硬さと、床に反射する体育館の光と、隣の先輩の肩の温度だけが、そこにあった。

チームは勝った。朱莉は拍手した。その音が、自分の手から出ていることが、少し遠かった。


*少しずつ*

インカレが終わった。
翌日から、また体育館に行った。まだ選手だった。
リハビリを続けて、春には戻るつもりでいた。その気持ちは本物だった。
でも体は、思うように動かなかった。波があった。波に乗れなかった。
由美子コーチに「焦るな」と言われるたびに、うなずいた。うなずきながら、頭の中では計算していた。あと何週で春の大会がある。そこに間に合わなければ次はいつか。三年のインカレまで、あと何か月か。

二月のある夜、ファミレスのシフトが終わったあと、栞と二人になった。澪は先に上がっていた。
栞がコーヒーを飲みながら、伝票の束を眺めていた。朱莉は制服のエプロンを畳んでいた。

「膝、どう」

「波がある」

栞はうなずいた。それ以上聞かなかった。朱莉も続けなかった。
コーヒーカップの底に残った液体が、蛍光灯の光を反射していた。

三年の春、朱莉はビブスを畳んでいた。
少しずつそうなっていった。
タオルを渡すようになった。スコアをつけるようになった。
ただ、コートの中に入る理由が、少しずつ薄くなっていった。

同期が「朱莉がいてくれてよかった」と言った。
練習後、荷物をまとめながら、さらっと言った。
朱莉も笑った。

その夜、ファミレスに行った。賄いの時間になって、三人でテーブルについた。
誰もバレーの話をしなかった。
澪がポテトを一本つまんで、「これ塩多くない」と言った。
栞が「多い」と言った。
朱莉も一本食べた。多かった。
窓の外に雨が降り始めていた。


*止まれない*

夏を過ぎたころ、朱莉はもう練習着を着ていなかった。
毎日体育館には来た。
タイムを計って、スコアをつけて、ボールを拾った。
コーチの指示をメモした。試合のビデオを回した。

やることはいくらでもあった。
後輩が、朱莉のいたポジションでスパイクを決めるようになった。
フォームがきれいだった。
踏み込みのタイミングが、高校のころの自分に少し似ていた。

朱莉はカメラを構えたまま、その子の動きを追った。
シャッター音はなかった。
レンズの向こうで、後輩が跳んだ。
いつから、そう考えなくなったのか、わからなかった。

その日の夜、ファミレスで澪に言われた。

「朱莉って、最近笑うの遅くなったよね」

朱莉は少し考えた。

「そう?」

「うん」

澪はメニューを閉じながら、それだけ言った。
栞は何も言わなかった。
朱莉も、何も言わなかった。
三人でしばらく黙っていた。
厨房から皿の音がした。


*誰も見ていない*

三年の秋、インカレの前週だった。
朱莉は倉庫でボールの空気を確認していた。一つずつ握って、へこみ具合を確かめた。硬いもの、少し柔らかいもの、分けて並べた。
コートでは後輩たちが練習していた。笛の音がした。
誰かのスパイクが床を叩く音がした。

朱莉は次のボールを手に取った。
握ったとき、少し迷った。
そのまま一度だけ、トスを上げるように手首を返した。

ボールは天井に向かって、ゆるく上がった。
頂点で止まって、また落ちてきた。
朱莉は両手で受けた。

誰も見ていなかった。

ボールを箱に戻して、倉庫の電気を消した。
コートの方から、また笛の音がした。
朱莉はドアを閉めて、廊下を歩いた。
膝は痛くなかった。
ただ、歩くたびに、サポーターの感触だけがあった。


*そのまま*

整骨院の外に出ると、風が来た。

朱莉は首をすくめながら歩いた。駅までの道に人は少なかった。シャッターの閉まった店が続いている。

電車に乗った。行った時より空いていた。座って、鞄を膝に置いた。サポーターの上から、手のひらで膝を押さえた。遠藤先生の指の跡が、まだ残っている気がした。

鞄の中でスマートフォンが鳴った。

『今日遅くなる』
涼介からだった。
来ない、ということだけはわかった。

三軒茶屋の改札を出て、スーパーの前を通った。閉まっていた。コンビニでよかった。でも寄らなかった。

部屋に入って、電気をつけた。蛍光灯が天井の端から端まで白く伸びた。冷蔵庫からビールを出して、グラスに注いだ。泡が立って、静かに落ち着いた。

ソファに座った。一口飲む。グラスを持ったまま、天井を見た。蛍光灯が近かった。

それから画面を起こした。指が止まった。

ビールを喉の奥に押し込んだ。
涙は、あとから来た。


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『次の作品』


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