折り目⑨|指の跡【6章】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
【6章】指の跡
*整骨院*
予約は14時30分だった。
鈴木朱莉が整骨院のドアを開けると、受付のチャイムが鳴った。
細い音で、すぐ消えた。待合室には先客がいなかった。
古い週刊誌が扇状に並んでいて、その隣に観葉植物が置いてあった。
葉の先が少し茶色くなっていた。
「あ、来た」
奥から遠藤栞が顔を出した。白衣の胸ポケットにボールペンが二本刺さっていた。
「お待たせしました」と朱莉は言った。
「待ってないよ。ちょうどよかった」
栞はカルテを手に取りながら、
「膝、どう?」
と聞いた。
「階段、まだちょっと」
「降りるほうが痛い?」
「そうです」
「だよね」
と栞は言って、処置室のほうへ歩いた。
*施術の手*
うつぶせになると、天井のシミが見えた。
雨漏りの跡か、前から気になっていたが聞いたことはなかった。
ベッドのシーツはきれいで、かすかにやさしい柔軟剤の匂いがした。
窓の外で自転車が通った。車輪の音がして、遠くなって、消えた。
栞の手が膝の裏から太ももにかけて触れた。押す。止まる。また押す。
「ここ張ってる」
「わかります」
「ハムストリングスが引っ張ってるから、膝に負担かかるんだよ。
ちゃんとストレッチしてる?」
「できてないです」
「そうだと思った」
責めている口調ではなかった。ただ言っているだけだった。
栞の指が筋肉のきわを探るように動いた。
少し痛かった。朱莉は息を吐いた。
「不動産、立ちっぱなしとかある?」
「物件案内のとき」
「それが積み重なってるね。
座り仕事でも、ずっと同じ姿勢だと固まるし」
「はい」
しばらく黙った。栞の手だけが動いていた。換気扇がわずかに回っていた。
「最近、涼介くんとは?」
「普通です」
栞は何も言わなかった。朱莉も続けなかった。押す手の強さが少し変わった。仰向けになって、膝を曲げ伸ばしするよう言われた。ゆっくりでいい、と栞は言った。
天井を見ながら足を動かした。右膝が角度によって引っかかる感じがした。
「引っかかりますよね」と朱莉は言った。
「うん。でも先月よりはマシになってるよ」
「そうですか」
「比べてみ。先月、このくらいまでしか曲がらなかったでしょ」
栞が手で角度を示した。朱莉は自分の膝を見た。
確かに、今日はもう少し曲がっていた。
「本当だ」
「ちゃんと来てるから。その分だよ」
栞はテーピングを巻きながら言った。手が速かった。
*過去の記憶*
「大学のとき、一番ひどかったんだよね、この膝」
「三回生のとき、靭帯やって」
「インカレ前だったっけ」
「直前でした。結局出られなくて」
「そっか」
栞の手が止まった。ほんの一瞬だった。またすぐ動き始めた。
*コーチの提案*
「もうバレー、やらないの?」
朱莉は天井を見たままだった。
答えなかった。
栞も待たなかった。テーピングの端を押さえて、
「はい、起きて」
と言った。朱莉は体を起こした。
処置室を出て、栞がパイプ椅子を引いた。
朱莉は座った。
「一個だけ教えてほしいんだけど」
と栞は言った。
声のトーンが少し変わった。
「うちの高校のバレー部のコーチ、覚えてる?由美子コーチ」
「由美子コーチ、覚えてる。」
「そう。もう年配だから、今年か来年で退職らしいんだ
よね」
「そうなんですか」
「後継者探してるって聞いて。外部コーチでもいいみた
い」と栞は言って、少し間を置いた。
「やってみれば?って思って」
朱莉は栞を見た。栞は視線を外さなかった。
「私が?」
「あなたが」「それは」
「今すぐ決めなくていいよ」と栞は言った。あっさりしていた。
「ただ、もったいないなと思っただけ。全国まで行ってたじゃない」
朱莉は少し黙った。
「栞のエゴじゃないですか」
「エゴだよ」と栞はすぐ言った。
「全然エゴ。でも、やらない理由もないでしょ」
朱莉は何も言わなかった。
「考えといて。答えはいらないから」
栞は立ち上がって、会計しようと言った。
受付カウンターで1800円を払った。
財布をバッグに戻すとき、栞があ、そうだ!と言って奥へ消えた。
*お土産*
少しして戻ってきた。手に紙袋を持っていた。
白地に青い文字のロゴが入っていた。
「空港っぽいしょ!」
栞は笑いながら差し出した。
「え、何ですか!」
「お土産。澪ちゃんから預かってた。羽田で買ったって」
朱莉は紙袋を受け取った。軽くなかった。
「重い」
「三種類入ってるから」
と栞は言った。
「フィナンシェと、メープルのやつと、あと舟和の芋ようかん。
朱莉こういうの好きでしょって澪ちゃんが」
「好きです」
「でしょ」
栞は満足そうだった。
「澪ちゃん、ちゃんと覚えてるよね」
と独り言みたいに言った。
朱莉はもう一度
「ありがとうございます」
と言った。
栞に言ったのか、澪に言ったのか、自分でもよくわからなかった。
ドアを開けると、外は曇っていた。少し歩いて、止まった。
立ち止まったのは、信号でも何でもなかった。ただ止まった。
紙袋を持ち直した。袋の底から、微かに音がした。個
包装のお菓子が当たる音だった。かさ、という音だった。
静かな通りだったから聞こえた。
手のひらに袋の持ち手が食い込んでいた。温かくはなかった。
でも、重さがあった。確かに重さがあった。
袋を持っているのに、誰かに何かを持たせてもらっているような、
妙な感覚だった。
澪が選んで、栞が預かって、今朱莉の手の中にある。
それだけのことだった。
でも、それだけのことが、妙に確かだった。
朱莉は空を見た。低い雲だった。
雨になるかどうかわからない空だった。
もうバレーやらないの、と栞は聞いた。
朱莉は答えなかった。
答えなかったことを、今も後悔していなかった。
答えが出ていないのではなくて、
問いがまだどこかに漂っている感じがした。
風が来た。
ほんの少しだった。袋が「がさ」と鳴った。
歩き始めた。帰り道、スーパーには寄らなかった。
冷蔵庫に何かあったはずだと思いながら、駅の改札を通った。
電車の中で紙袋を膝の上に置いた。
隣の人が荷物をずらした。朱莉はすみません、と小さく言った。
車窓の外が暗くなったり明るくなったりした。
地下に入って、また地上に出た。北千住で乗り換えた。
*帰宅と余韻*
部屋に帰ったのは17時を過ぎていた。
玄関で靴を脱いで、紙袋をテーブルの上に置いた。
コートを脱いで、ハンガーにかけた。
エアコンのスイッチを入れた。
テーブルの前に立って、紙袋の中を見た。
フィナンシェとメープルマニアは細長い箱に入っていた。
舟和の芋ようかんは薄い箱で、素っ気ない造りだった。
箱を開けた。
包装紙を折り返すと、中が見えた。
薄黄色の芋ようかんが三本、それとあんこ玉が六つ。
あんこ玉は色がそれぞれ違った。
緑、紫、赤、白、茶、黄。電球色の灯りの下で、小さく光っていた。
芋ようかんを一本取り出した。
するっとした表面だった。ラップはなかった。
そのまま手に持つと、ひんやりしていた。
さつまいもの匂いがかすかにした。
包丁は使わなかった。そのままかじった。
甘かった。でも、甘すぎなかった。
素直な甘さだった。口の中でゆっくり溶けた。
立ったまま、もう一口食べた。
テレビをつけようと思って、やめた。
静かなままでいいと思った。
電球色の灯りが天井から落ちていた。
去年の秋に蛍光灯を替えた。白すぎる光が嫌になって、電球色にした。
今はもうこの色に慣れていた。
一本食べ終わった。
残り二本と、あんこ玉を箱に戻して、包装紙を折り畳んだ。
冷蔵庫を開けて、いちばん下の段に置いた。
フィナンシェと缶は常温でいいと思って、棚の上に移した。
椅子に座った。
膝が少し楽になっていた気がした。
気のせいかもしれなかった。でも、そう思った。
もうバレーやらないの。
問いはまだ、どこかにあった。答えのない場所で、ただそこにあった。
朱莉はそれを今夜片付けようとは思わなかった。
冷蔵庫のモーター音がしていた。低く、一定の音だった。
『次の作品』
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