折り目⑩|夜の折り目【7章】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門
はじめに
この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e
*それだけの夜*
戸を押すと、冷たい空気が首元に入ってきた。
遠藤は一瞬、自分がまだ白衣のまま外に出たような気がした。けれど、今日はもう着替えている。グレーのパーカーだった。
それでも首が寒かったのは変わらない。
イヤホンを両耳に押し込んで、再生ボタンを押した。低音が足元に落ちてくる。アスファルトの下まで届くような、そういう重さだった。
歩き出す。息が白い。
2月の夜は乾いていて、空気に触るたびに肺の中がすこし冷える感じがした。肩が無意識に上がっていて、遠藤は意識して下ろした。
患者さんの姿勢なら、真っ先に指摘しているところだった。
お腹が空いていた。コンビニが頭に浮かんだ。
パスタにしようか、うどんにしようか。どっちでもよかった。
音楽は続いている。今日、施術中に手が止まった。ほんの数秒のことだったが、患者さんは気づかなかったと思う。たぶん。遠藤はその「たぶん」を、なるべく考えないようにしていた。
交差点の信号が赤で、遠藤は立ち止まった。
向かいに、コンビニの看板が光っている。オレンジと緑。
眩しいほどじゃないけど、夜の中でその一帯だけ昼みたいだった。
信号が変わって、遠藤は横断歩道を渡った。
自動ドアの前で、片耳だけイヤホンを外した。
店内は温かくて、入った瞬間に眼鏡が曇る人間の気持ちがわかった。
眼鏡はかけていないけど。
冷凍食品のコーナーで、カルボナーラとたらこを見比べて、たらこにした。
理由はない。
それからアルコールの棚に移動して、ハイボールを一本取った。
手が少し冷えていたから、缶が逆に温かく感じた。
戻り際に、チョコのお菓子が目に入った。別に食べたいわけでもなかった。
でも気づいたらカゴに入っていた。
レジに並ぶ。前に一人。
若い男の店員で、袋に商品を詰める動作が妙にぎこちなかった。
右肩が上がったまま、首が前に出ている。
遠藤はそれを3秒ほど見ていたが、何も言わなかった。
ただ、右肩が上がっている、と思った。
「温めますか」
「お願いします」
袋を受け取って、店を出た。また片耳にイヤホンを戻す。
音楽はまだ続いていた。帰り道は来た道より少しだけ温かく感じた。袋の重さが手にある。ハイボール、たらこパスタ、チョコ。それだけの夜だった。
低音が足元に落ちている。息が白い。信号の色しか見ていなかった。
目が覚めたら11時47分だった。カーテンの隙間から光が入っている。
遠藤は天井を見たまま、しばらく動かなかった。
アラームはかけていなかった。かける理由もなかった。
布団から出たのは12時を過ぎてからだった。
昨日のチョコが一個、テーブルに残っていた。遠藤はそれを口に入れながらスマートフォンを開いた。通知が5件。見たが、返さなかった。
床に座ってもよかったが、ソファに座った。
背中が丸まっていた。そのままスマートフォンを見続けた。
洗濯をしようと思った。思ったまま、1時間経った。冷蔵庫を開けたが、特に何もなかった。閉めた。結局コーヒーだけ淹れて、またソファに戻った。テレビをつけたが、何も見ていなかった。
*言える人*
外は明るかった。
昨日のことは、もう考えていなかった。
考えないようにしているわけでもなく、ただ浮かんでこなかった。
それでいいのか悪いのか、栞にはわからなかった。
気づいたら16時になっていた。
栞は立ち上がって、パーカーの上に上着を羽織った。
理由は特になかった。ただ外に出た。北千住の空は低かった。
風が正面から来る。栞は首をすくめながら歩いた。
荒川の方向へ、なんとなく足が向いた。土手に上がると、風が強くなった。川が見えた。水面が鈍く光っている。対岸は遠い。
空が広かった。ここに来ると、なぜか呼吸が少しだけ楽になる。
理由を考えたことはなかった。栞はそのまま歩いた。
誰かとすれ違った。一歩過ぎてから、足が止まった。
「栞さん?」振り返ると、宮内涼介が立っていた。
ランニングウェアで、息が少し上がっていた。
「あ、涼介くん」
「散歩ですか」
「うん、なんとなく」
涼介が軽く笑った。
「栞さん歩くの早そうだから、俺走ってても追いつかれそう」
「追いかけてない」
少し間があった。風が川の方から来て、栞は首をすくめた。
「朱莉、最近どう?」
涼介の表情が、ほんの少し止まった。
「まあ、普通ですよ。元気にしてると思います」
「そう」
栞は川の方を見た。水面が風で細かく動いている。
「あの子、辛い時、寂しいときほど黙るから。気をつけてあげて」
涼介は何も言わなかった。栞も続けなかった。
「じゃあ、体冷えるから」
と言って、また歩き出した。
涼介が「はい」と答えたのが、背中で聞こえた。
風が耳を通り過ぎていく。体が冷えてきた。
でも足は止まらなかった。
しばらく歩いて、栞は立ち止まった。
川を見た。何も思わなかった。ただ見ていた。
また歩き出した。
帰り道は風が背中から来た。
部屋に戻って、手を洗った。上着を脱いで、ソファに座った。
さっきより背筋が伸びていた。
呼吸が深かった。
洗濯は明日でいい、と思った。
スマートフォンを開いて、明日のアラームをセットした。6時30分。
電気を消した。
『次の作品』
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