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折り目⑪|変化 言葉になる前に【第8章・前編】|#創作大賞2026 #恋愛小説部門


はじめに

この物語は、いくつかの章でできている。
どの章から読み始めても、構わない。
ただし、この『折り目』のすべての章を読んだとき、最初に選んだ場所の意味が変わるかもしれない。
窓際の席で、コーヒーが冷めていく。
気づかないうちに、何かが変わっている。
これは、そんな小さな“折り目”の話。

折り目①|プロローグ|#創作大賞2026#恋愛小説部門
https://note.com/tokei_0410/n/n7b4b6195db0e

*変化 言葉になる前に*

空が白かった。
雲なのか霞なのか、判断がつかないまま涼介は土手の斜面を上った。
スウェットのポケットに両手を突っ込んで、特に目的もなく足を動かしていた。多摩川はこの時間、人がまばらだった。
犬を連れた老人と、ベビーカーを押す女が遠くに見えた。それだけだった。
昨日は16時間働いた。一昨日も似たようなものだった。
休みの今日は、何もしたくなかった。
ソファに転がっていたが、それもじきに飽きた。
外に出ても何もしたくなかったが、部屋にいるよりはましだった。
土手の上に出ると、川風が来た。思ったより冷たかった。
涼介は立ち止まり、川を見た。水面が鈍く光っていた。
対岸に低い建物が並んでいた。歩き始めて20分ほど経っていた。
どこかで引き返そうと思いながら、涼介は歩き続けた。体が重かった。
疲れというよりは、どこかが滞っているような感覚だった。

仕事は順調だった。先週、上司に評価された。それは素直に嬉しかった。
それだけは確かだった。
ただ、それ以外のことが、うまく思い浮かばなかった。

前方から足音が来た。リズムのある、速い足音だった。ランニングウェアを着た女性が走ってきた。黒いタイツに、ピンク色の蛍光色のシューズ。
ランニング用のサングラスを額に上げていた。
走り込んでいる人間の走り方だった。無駄がなかった。
すれ違いざまに、その女が減速した。
「あれ」
栞?涼介は少し遅れて認識した。普段と違う格好だったせいもあった。
「涼介くん」
栞は立ち止まり、軽く息を整えた。乱れた呼吸ではなかった。まだ余裕があるときの呼吸だった。
「何キロ走ってきたの」
涼介が言うと、栞は手首のスポーツウォッチを確認した。
「まだ7キロくらい。今日は15キロいきたくて」
「すごいな」
「涼介くんは?散歩?」
「うん」
栞はそれ以上聞かなかった。少し間があった。川の方から風が来た。
「朱莉と最近会えてる?」
唐突な問いだった。涼介は少し考えた。
「先月、一回会った」
「一回」
栞は繰り返した。感情がどちらにも傾いていない声だった。
「仕事が立て込んでて」
「そっか」
また間があった。栞はタオルで首を拭いた。動作は無駄がなく、速かった。
「自分だったらなあ」
栞が言った。独り言のような言い方だった。
「自分だったら、自分だけが張り切ってパートナーがそっけなかったら、
寂しいけどな」
涼介は何も言わなかった。
「別に責めてるわけじゃないけど」
栞は付け加えた。
その言葉も、どこか遠い場所に置かれた言葉のように聞こえた。
「朱莉、すごく涼介くんのこと好きなんだよ。それは分かるから」
「うん」
「じゃあ、また走ってくる」
栞はサングラスを目の位置に下ろした。
フォームを確認するような一瞬があって、それから走り出した。
すぐに元のリズムに戻った。めちゃめちゃ速かった。
遠ざかっていく背中は、最初から誰かと話していなかったかのようだった。涼介はしばらくその場に立っていた。
川は変わらず流れていた。白い空の下、水面が動いていた。
「自分だけが張り切ってパートナーがそっけなかったら。」
涼介は一度、その言葉を頭の中で繰り返した。
それから土手の斜面を降り始めた。家に帰ろうと思った。

帰って、何かしようと思った。何をするかはまだ決まっていなかった。
ただ、ソファに転がっている気分ではなかった。
帰宅してソファに座っても、栞の言葉が頭から離れなかった。
何度かスマートフォンを手に取って、置いた。
朱莉とのトーク画面を開いて、閉じた。

月曜日の朝、朱莉は出勤前に洗い物をしていた。
先週の土曜日、涼介と会う約束をしていた。
朱莉の方から『そろそろ会いたい』と送った。
涼介は『土曜いけそう』と返してきた。それが流れだった。
いつも朱莉が先だった。
涼介が忙しいのはわかっていた。
仕事が大変なのも知っていた。だから朱莉は待った。
涼介のペースに合わせた。それが正しいことだと思っていた。
少なくとも、そう思おうとしていた。
食器を棚に戻しながら、朱莉はそういうことを考えた。
考えたくなかったが、朝の静かな台所では、考えないよ
うにすることの方が難しかった。
火曜日の夜、朱莉のスマートフォンに涼介からメッセージが来た。
『今週末、空いてる?』
朱莉はしばらくその画面を見ていた。
涼介の方から週末を聞いてくることは、あまりなかった。
たいてい、朱莉が「そろそろ会いたい」と送ってから、涼介が予定を確認する流れだった。それが当たり前になっていた。
朱莉は返信を打った。
『空いてる。どうしたの?』
すぐに返信が来た。
『会いたくて。先月のリスケの埋め合わせもしたい』
朱莉は画面を閉じた。
それからもう一度開いた。文章は変わっていなかった。
嬉しかった。
ただ、どこかが落ち着かなかった。
何かが急に違う向きを向いたような感覚があった。
うまく言葉にならなかった。朱莉は返信した。

『うん、会おう』

水曜日、涼介からまたメッセージが来た。

『最近、仕事どう?』

朱莉は少し笑った。
涼介がそういうことを聞いてくる人ではなかった。
仕事のことや予定のことは聞く。でも「ちゃんとご飯食べてる?」は、涼介の言葉の引き出しの中にあるとは思って
いなかった。
『食べてるよ』と返したら、
『それはよかった』と来た。
それだけの会話だった。
でも朱莉はしばらくスマートフォンを持ったままでいた。
涼介に何があったのか、朱莉にはわからなかった。聞こ
うとも思ったが、やめた。何かが変わり始めているとす
れば、それを言葉にしてしまうことで、壊れてしまうも
のがある気がした。根拠のない感覚だったが、朱莉はそ
れを信じることにした。
木曜日の夜は残業だった。
帰宅したのが23時を過ぎていた。
シャワーを浴びて、ソファに座ったとき、涼介からメッセージが届い
た。

『今日仕事遅かった?遅くまでお疲れ』

朱莉はスマートフォンを見た。
送信時刻は23時18分だった。涼介も仕事が遅かっ
たのかもしれなかった。それでも送ってきた。
朱莉は

『遅かった。でも終わった』

と返した。
涼介からすぐに返ってきた。
『土曜、楽しみにしてる』

朱莉は画面の前でしばらく動かなかった。
楽しみにしてる、という言葉を、涼介が先に言ったことが、今まであっただろうかと考えた。たいてい朱莉が楽しみにしていた。楽しみにしていることを、涼介に向けて送っていた。今夜は逆だった。嬉しかった。それは本当だった。ただ、その嬉しさの後ろに、うまく名前のつかない感情がついてきた。涼介がコーヒーを一口飲んだ。朱莉もグラスを持っていた。グラスを持ったまま動かなかった。気づいたら、少し噛んでいた。 
土曜日、涼介は13時55分に朱莉のマンションの前に来た。
約束の時間より5分早かった。涼介が早く来るのは珍しかった。
「待った?」
朱莉が聞くと、涼介は首を振った。
「今来たとこ」
並んで歩き始めた。行き先は決まっていなかった。
涼介が
「どこか食べたいとこ、ある?」
と聞いた。
「特にないけど」
「じゃあ少し歩こう。気持ちいい天気だし」
涼介がそう言うのも、珍しかった。
いつもは目的地を決めてから動く人だった。川沿いを歩いた。
風が穏やかだった。涼介の歩くペースがいつもより遅かった。
朱莉に合わせているのか、ただゆっくり歩きたいのかは、わからなかった。


「最近、仕事どう」
涼介が聞いた。
「普通かな」
「何か変わったことあった?」
「まだ詳しくは決まってないんだけど」
「どんな感じの?」
朱莉は少し驚いた。
涼介が朱莉の仕事の話を掘り下げて聞くことは、多くなかった。
でも今は、聞かれるのが嬉しかった。

「外部のチームと組むプロジェクトで。
自分がどこまで関わるか、まだわかんないけど
——
もしかしたら、結構大きくなるかもしれない」
「やりたいの?」
「うん」
と朱莉は言った。
思ったより早く、はっきり出た言葉だった。
「やりたい!」
「なら、やれる」
涼介は即座に言った。
根拠のある言葉ではなかった。
でも、涼介がそう言うとき、嘘をついている感じがしなかった。
朱莉は
「ありがと」
と言い、窓の外に目をやった。
川が光を跳ね返していた。土手の近くのカフェに入った。
オーダーを終えてから、涼介がバッグから小さな包みを出した。


『次の作品』


『過去作を含め1話から読むなら折り目マガジンがおすすめ』


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