command: silent 04 サイテーだね、と笑う子ども
前にした話を、覚えているかは知らない。
父親に喫茶店で呼び出された、あの話。
今日は、母親の方の話をする。
両親が別れて、しばらく経った頃。
母親と会う機会があった。
久しぶり、と言うほどでもなく、
かといって日常的に会っていたわけでもない。
たまに連絡が来て、会って、話す。
そういう距離感だった。
その日、母親は少し上機嫌だった。
髪を巻いていた。
化粧がいつもよりちょっと濃かった。
耳に、鮮やかな緑色のピアスが揺れていた。
座るなり、父親の話が始まった。
「あの人とね、離婚のこと話し合いに行った時の話なんだけど」
コーヒーを頼んで、子どもは頷いた。
「信じられる?腕掴まれて、ホテル街の方に連れてかれそうになったのよ」
母親は眉を上げて笑っていた。
呆れと、少しの面白がりが混ざったような顔だった。
「そもそもね、結婚してた時だって、私は嫌だって何度も言ってるのに、ハプニングバーに行こうって誘ってくるの。何回断ってもしつこくて。ほんっと、どうかしてるでしょ?」
母親はテーブルの上のストローを指先でくるくる回しながら、
「信じらんない」と笑った。
子どもは、笑った。
「サイテーだね」
そう言って、コーヒーに口をつけた。
本当にそう思っていたかは、わからない。
ただ、この場にはその言葉が必要だった。
母親は、聞いてほしかったんだ。
「ひどい目に遭った私」の話を、
誰かに「ひどいね」と言ってもらいたかった。
その"誰か"が自分の子どもであることを、たぶん、気にしていなかった。
子どもは黙ってコーヒーを飲んでいた。
また同じだ、と思っていた。
前に座っている相手が違うだけで、構造は同じだった。
大人が、自分では抱えきれないものを、
テーブルの向こうに押し出してくる。
子どもはそれを受け取って、笑う。
父親の時は「そっか、びっくりだね」と言った。
母親の時は「サイテーだね」と言った。
どちらも正解だった。
場の空気を壊さない、という意味では。
ひとつだけ、余計なことを覚えている。
母親の耳で揺れていた、あのエメラルドのピアス。
以前、母親が嬉しそうに見せてきたことがあった。
「これね、もらったの」と。
……誰から、とは聞かなかった。
聞かなくても、なんとなくわかっていた。
父親の話を「サイテー」と笑う母親の耳元で、
別の誰かからもらった石が、小さく光っていた。
子どもはそれを見ていた。
見ていたけど、何も言わなかった。
……今日の話は、これだけ。
