野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第5話 本居宣長(4)
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宣長の学問は、明治以後の大学教授のように、固定給を得たうえで進められたものではない。28歳から72歳で世を去るまで、医者(漢方医)として生計を立てながら講義をし、問答を交わし、研究をし、執筆し、さらには出版もした。彼にとっての学問は、その全過程を通じてまったく自発的なものであり、こうした自発性は、江戸時代の学問、とりわけ民間学の活力を支える原動力だった。
宣長は、内科と小児科の医者だったと考えられている。士農工商の別を問わず、患者の脈をとり、視覚、聴覚、触覚、嗅覚をはたらかせながら症状の見立てをし、薬を調合し、経過観察をする。
自宅でも診察したが、仕事としては町なかや近隣の農村への往診が主で、場合によっては片道25キロの伊勢までも出かけた。背負って歩く薬箱は、薬を入れて重さ5キロ。宣長自身の覚え書によれば、旅行時の薬、目薬、ハンセン病の薬、口中薬、入浴剤、外科薬も入れていたようだ。
仕事は忙しく、はしかなどが流行ると、ほとんどの時間が医業に奪われた。


京都帰りの宣長の話を聞きたがる町の人びとは多かったのだろう。
宝暦8年(1758)には、歌会を開いて文化サロンの担い手となる一方で、『源氏物語』の講釈会を開いたりもした。
自宅でのこの講話会は、以後40年続く古典講義のはじまりとなった。


《「奥の間」は旧宅の中では最も広く、宣長が弟子たちに講釈をした部屋です。
お客は坪庭に面した「中の間」から家へ入ったといわれています。》
宣長最初の著作である歌論『排蘆小舟』の成立は、この時期のことだと考えられている。
歌の世界は、万葉集や古今集のむかしから、尊敬語、謙譲語、丁寧語のような敬語を使う必要が一切ない、アジール(避難所)のような世界である。
歌は、人の心のありようをありのままに、同じ人にむかって表現するものであるがゆえに、制度的な因習やイデオロギーからの解放を可能にする根拠ともなる。はじめて書く本の主題に宣長が歌を選んだことには、強い必然性があったはずである。
宝暦10年(1760)、31歳の宣長は、同じ町内の商家の娘村田ふみと結婚。ふみは「みか」と名を改めるが、3か月で破局。二人が思い描く理想の暮らしぶりに違いがありすぎたのではないかとも考えられるが、原因はわからない。
離婚から一年半後、堀景山塾での友人草深丹立の妹で、夫と死別していたたみと再婚(京都時代に一時帰省した宣長が見初めていたとする説もある)。たみは、草深家よりの要請に従って改名し、宣長の母の名をとって「かつ」とした(1741-1821)。
宣長とかつとのあいだには、春庭(長男)、春村(次男)、飛騨(長女)、美濃(次女)、能登(三女)の二男三女が生まれた(死産した二人の子もいる)。

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◆著者プロフィール
野口良平(のぐち・りょうへい)
1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。
〔著書〕
『「大菩薩峠」の世界像』平凡社、2009年(第18回橋本峰雄賞)
『幕末的思考』みすず書房、2017年
『列島哲学史』みすず書房、近刊(2025年9月)
〔訳書〕
ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』共訳、みすず書房、2011年
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』 みすず書房、2019年
〔連載〕
「列島精神史序説」(「月刊みすず」2020年7月号~2022年9月)
「幕末人物伝 攘夷と開国」(けいこう舎マガジン)!!!!!!
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