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【文学フリマで買った本】逃げるように揺蕩う外れ値 生きることにアンバランスな作品(3) 

先日、途中まで書いたものの続きです。

第1回

第2回

考えたことを思ったことで整理するだけでは
うまくことばにできない領域も
あることに気づきました。
少しだけ、考えたことを野放しにする、
ということをしてみよう、と思います。
AIさんのThinking traceみたいな感じです。
それでもうまくまとめることができませんでした。

ぼく自身が自分の気持ちを表出するのが、
あまり得意ではないということと、
考えたことが思ったことを圧迫して、
もはやともかくも吐き出さないことには、
ぼくを支配する思考から解放されない、
からです。

どこか自分のことばではない、
という感覚があるようなものが、
コードブロックに放り込まれています。

生きることに困難さを感じている方、
そうした方にぜひ読んでもらいたくて書きました。
ネガティブなことばを使っていますので、
作品を褒めていないようにも読めるな、
と思いましたが、
きっと生きていることに苦しみを感じている方には、
こうしたことばでしか届かない気がしたのと、
何かきれいなことばで嘘をついている気がしたからで、
作品を褒めていないように見えるかもしれません。
一応、ぼくとしては絶賛のつもりです。

センさんの紹介記事を越える13,000字という文字数に、
自分でも引いてます。

先日、知ったのですが、
中澤作品はBASEで通販が可能なようです。
ごちゃごちゃしたぼくの紹介文よりも、
作品自体をお手に取ってもらって、
感じられることの方が、
よほど有益な時間かと思います。

こちらにて、現物を手に入れる方が、
手っ取り早いと思います。
札幌近辺にお住まいの方は、
明後日の文学フリマ札幌に出店されるそうですので、
そちらにて手に入れられます。

4.メッセージとメディアのメッセージの混交、その悲しさ

(1) 前回の振り返り

前回、作品の内容に立ち入って、

中澤の作品は理知的で、
だから、どうしても悲しい。

と述べました。

作品では、メッセージとメディアの水準、
それぞれで切実な悲しさがあります。

ちぎられ、つぎはぎされたような現実=歌、
その中心に空洞でしかないひとりが、ある。

ような生を生きるしかなかった中で、

**世界を腑分けする「目」

を持たざるを得なかった。そこでは、

現実が虚構としてしか描けない

ような実感の中で生きていくことになる。

ですが、前回は書きませんでしたが、
それらが組み合わさってしまうと、
別の苦しさ、悲しさを表現してしまうのが、
『外れ値にて、漂流』という、作品です。

それは、表紙で表現された少女が、

「平均」になるために、馴致されるため、
自分自身で削り取らなければならなかった
もともと、自分の一部だったものであったり、
うまく「平均」になることができないがために、
社会の中から四捨五入されてしまったひと

を象徴してしまっていることとかかわっています。

(2) メディアとメッセージによって届いてしまうこと

メッセージはメディアを介した現実です。
だから、ぼくたちは何かを受け取るとき、
同時にこの2つを見つめざるをえません。

【とりの考えていること、あるいは補足】
人によってはぼくが素材ではなくメディアと書いたところで気づいたかもしれませんが、「メディアはメッセージである」ということばを少しだけ意識しています。ただ、マクルーハンなしに、紙やモニタ(時には空気)なしに文字や絵画が浮かび上がっているなんてことはありえません。ですので、ぼくは、作品を鑑賞するときには、メッセージとメディア、そして鑑賞する環境をセットに考えます。映画館で観た方が面白い作品がある一方で、PCやスマホで観るからこそ面白い作品、というものがあったり、名画をスマホで観ることで新しい発見がある、と思っています。それは、いずれが良いのかと決め切れるものではありません。例えば、『モダンタイムス』は、その気になれば、どんな観方もできるかもしれませんが、もしかしたら、通勤中の満員電車でスマホを用いて鑑賞することは映画館で観る以上に当事者性をもって思索を深めてくれるかもしれません。

これまでどうにかこうにか生きてきた苦しさが、
現実を現実として実感する虚構を持たせず、
眼前の全てが歪んだ現実だったもの=虚構、
と気づかせる「目」を持たせてしまうことがある。
そうとも読める『外れ値にて、漂流』の表現は、
確実にある種のひとの苦しさを代理しています。

そして、この苦しさは、当事者たちにとって、
苦しみを生き延びた、かけがえのない経験、
と感じられることも、作品から推察されます。
ほかの作品を見る限り、作者自身もまた、
この苦しみのサバイバーだと想像もできます。

ところが表紙の強度は苦しみを、
あらゆるひとに開いてしまいます。

少女の象徴するものが、

**「平均」になるために、馴致されるため、
自分自身で削り取らなければならなかった
もともと、自分の一部だったもの

を含めたものである、と読まれるときには、
この苦しみを経験することができる能力を、
あらかじめこころの底に仕舞った人たちにも、
別の傷となっている、と開いてしまうのです。

もう少しだけありていに言ってしまいましょう。
この苦しさを知りもしない、忘れている人間
この苦しさを誰かに今味あわせている人間
この苦しみのただ中にいるひとを目の前にして
平然として気づくことも気遣うこともない人間
にさえも作品は開かれてしまっているのです。

このぼくをはじめとした「この苦しみ」を知らない
世の中の多くの人間に意味を届けてしまうこと。
それは、作品の強度と言えるでしょうけれども、
この作品の悲しさの根源とも、思えてるのです。

作者と共有するかけがえのないものを、
作品によって他のひとに知ってもらうこと、
サバイバーには喜ばしいことかもしれません。

けれども、そのかけがえのないものを、
ぼくたちのものと、他人が取り上げる。

それは、違う。それだけは違うのです。

端的な例。ぼくが紹介文を書けること。
それこそが、本作の本当の悲しさです。

この悲しさは作品の間違いや失敗ではありません。
ひとが手にした苦しみを、丁寧に表現してしまえば、
それは、どこまでも誤解を含みながら届いてしまう。
この作品の強度には、そういう悲しさがあるのです。

5 読むことについて

5では、作品に共感する足場を持たないひと
つまり、ぼくやぼくのようなひとが考えるための補論
という位置づけになります。
もしも、ここまでの話で、
中澤作品が描いているものは、
自分自身のことだ、と思った方は、
6に飛んでいただいて構いません。

【とりの考えていること、あるいは補足】
つまるところ、ぼくはガヤトリ・スピヴァクが言う意味での問いを投げかける側ではなく、語りえなくしている者の側であることについて考えたいのだ。それは、黒人音楽とポップミュージックの関係やお涙頂戴の物語に書き換える作業にも似ている。けれども、それよりも、もう少しどうにもならない読み手としての罪もあるのだ。
読み手としてのぼくは技術的な問題で「文化的盗用」的な作品作りはおおむねできないだろう。感動ポルノに仕立て直しもするつもりはない。しかしながら、そういう問題ではないのだ。「読む」ことによって作品は、その作品の持つ世界の見方を自分なりに取り込み新たな「読み方」として自らの中に取り込んでいくことでもある。世界を手元に置いてその形を、感触を確かめる手つき、世界を眺める目を、自分にとって、安全な形で取り込んでいく。それはあまりにも自動的で、制御ができない。しかし、何かを「読む」ということは、この安全な取り込みだけは予見可能なものだ。それは未必の故意と言って良い種類の罪だと言って良いだろう。結局のところ、読むこととは、作品と作者の意図を切り刻み、自分自身にとって心地よい形に配置しなおして悦に浸るような吐き気を催すエゴイスティックな行為なのだ。
だが、読まない、ということが正しいのだろうか?
読まないということは、つまるところ、語りえない立場の者の声を見ないことにする、というふるまいでしかない。そして、読み、そこで何かを受け止めたことを伝えないこととは、その声に意味が存在したことを消極的になかったことにしてしまうことでしかない。今のところ、「他人の消費」という行為の上にしか「自分を含めた社会」の他者の声は存在しえない。
ほんとうの時系列に並べ替えよう。読み手は、二重の罪の上にいる。誰かの声を非公式なつぶやきへと貶めることを通じて、非公式なつぶやきとされた声を拾い上げ、その中で自分にとって都合の良いところを自分の享楽に適う形で並べ替えるのだ。それはレイプした後でセカンドレイプをすることのようだ。傷ついた者が「理解されたくない」と述べるとき、それは、この消費の構造を見抜いている。
そのうえで、もしくは、だからこそ、読み手は出会ってしまった声をなかったことにしてはならないのだ。自らの卑小さを認め、語りえない者たちに届くことや「消費者たち」のランダムな読みが書き手の声に近づくことを祈りながら、他の「消費」を呼び込むことくらいしかできないのではないだろうか。

(1) 作品に向き合うということのできない、ぼく

ぼくが『外れ値にて、漂流』を、
作者の意図と無関係に、
読めたことにできてしまえるのは、
作品の強度が高いこともありつつ、
共感のふりができるからでもあります。
そこには、たちの悪い「開き直り」があります。
読み手としてのぼくは、
この種の開き直りを通じて、
自分自身の中に取り込んでいきます。

一方で、読み手は読むまで、
その作品の内容がわかりません。
読んでみて、読みきることができないことに
気づかされてしまいます。
一方で、読んでしまった、その時には、
作品はぼくの中に入り込んでいます。

読み手としてのぼくは、
描かれたそのままに作品を受け止めません。
一方で、読み手としての僕は、
受動的にならざるをえないところがあります。

読み手としてのぼくは、
どうあっても誠実さを持てません。
おそらく、ぼくは、あらゆるものに対して、
正しく読むことができません。
読み手としてのぼくは、
そういう種類の原罪を抱えています。

(2) それでも作品を語る、ぼく

では、出会ってしまった作品について、
語らないことは許されるのでしょうか。

それはそれでおかしな話に思えてしまいます。
ぼくは作品から確かに何かを受け取りました。
それは語られなかったかもしれない物語です。
語ることのできない物語をどうにか語ったもの、
かもしれません。
この物語の宛先は僕ではなかっただけです。

この物語をはがきにたとえてみます。

間違った宛先としてぼくのところに、
はがきが届いてしまったのです。
ぼくははがきを誤って見てしまった。
そして、ぼくははがきをなくしてしまった。
宛先もわからなくなってしまっています。
このときに、ぼくが何もしなければ、
その痕跡さえも宛先に届きません。

ぼくがやるべきことは、
このはがきの宛先らしきひとたちに、
ぼくの読んだことを伝えることしかない
と思えます。
もしかしたら、その中で、ぼくのように、
作品を読んだことにできてしまうひとにも
届いてしまうかもしれません。
それはそれで良いのではないか、
とも思えます。
ぼくはそのひとと一緒に、
このはがきの宛先らしきひとたちに、
読んだことを伝える作業ができるのです。
ひとりでは宛先に届けることができなくても、
誰かと一緒なら届けられるかもしれません。

(3)読み手の責任

誠実な読み手は、
きっと読むことと読まないことについて、
自由と許しがあります。

でも、不誠実な読み手である
ぼくには、責任が残ります。
たぶん、その責任は、
つたないことばを重ね、
誰かに作品を届けること、
なのだと思います。

6 『外れ値にて、漂流』の先、誰と連帯できるのか

「ひとり」であることは肯定されるべきである。「ひとり」になる/ならざるを得ない/なることを選択するプロセスがあったとして、それは社会の責任であり、個人の責任ではない。一方で、社会は「ひとり」を排除しようとする。確かに、孤独・孤立の害を防ぐ福祉・保健・衛生的な課題であるが、一方で、生産性の問題ともつながっている。前者が非常に重要な課題であったとしても、後者の圧力が新たな孤独・孤立の生成に寄与することは歴史的な過程を考えれば、杞憂というよりは念のための用心というべきではないだろうか。エドワード・サイードは文化と市場、政治に同時期に生じる複数の声によって成立した社会の状況を「対位法」と呼んでいたと記憶している(対位法的読解と呼ばれるものは、この世界史的な状況に対して、そこに周縁からの複数の声を呼び出すことの必要性として生まれたものと考えている)。社会は善意で「ひとり」の領域を削っている。それは集団レベルでの(パットナムのいう意味での)社会関係資本の蓄積であり、誰もが共通して使える公共財の蓄積であると言える。一方で、個人レベルでの(ブルデューがいう意味での)社会関係資本の蓄積と格差も進む。そもそも、個人レベルでの社会関係資本は文化資本やハビトゥス、場と経済資本との関係と無関係ではないが、それは社会階層の再生産と疎外や抑圧の論理であり、経済資本の蓄積の賭金が単に経済資本だけではないことを明らかにしたものである。ゲームの賭金が社会関係資本に軸足をずらすだけになっていく可能性は考えておく必要がある。ブルデューはかつて、公平にも、「抑圧する者はあらかじめ抑圧されている」と述べていた。意地悪く言うならば、抑圧を「努力」と言い換えるとわかりやすいだろうが、「努力した者が報われる」というのは再生産と疎外・抑圧を生成するゲームのルールにたまたま耐えられうる位置にいる者が、他の者に対して抑圧する権利を得て、自ら受けた抑圧の溜飲を下げることができる、とでも言いたくなる。ブルデューはこのようなゲームを赤の女王のようなたとえを用いたり、資本を持つ者は無限に譲歩することでその地位を安定させられる、と述べたことも付記しておくべきだろう。
そもそも「外れ値」同士は離れていて、相互に似ていない。散布図では全然違う場所にある。その数値のままにクラスター分析をかけても同じクラスターに入れることができない。というよりも、同じクラスターに入れられるなら外れ値にする必要がない。ただ、平均から離れているというところだけが似ている。外れ値の「ひとり」であるということは、「ひとりとひとりとひとり」ではなく「ひとりと、ひとりと、ひとり」あるいは「ひとり」と「ひとり」と表現せざるを得ない「分断された者同士」でしかない。だが、この読点やカギカッコはそれぞれの来歴であり、かけがえのなさの源泉でもある。
「ひとり」と「ひとり」がそれぞれ「ひとり」であるままに、社会にアクセスすることは可能なのだろうか。「連帯を求めて孤立を恐れず」ということばがある。谷川雁のサークル村から始まり全共闘に引き継がれた。連帯に向けた決断とその継続が謳われている。それは現代風に言うならば、「早く行きたければ、一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」だろう。だが、その運動の息苦しさを私たちは知っているし、そこに身の置き場を持てない者たちがいることも私たちは学んでいる。その息苦しさは文化資本とハビトゥスを中心とした経済資本に対する闘争であったにせよ、異なるゲームへの真剣な参画が求められたことにあるのではないか。一方で、ベ平連は「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」をスローガンのひとつとした社会組織体である。両者の違いは「やめる」ということである。一方で「やめる」という切断は社会関係資本のゲーム(と社会関係資本の経済資本への転換)が現在展開されているという診断に対しては特効薬と言えそうである。一方で、それは解決策として十分ではない。なぜなら、ゲームのルールの変更には孤独・孤立対策という正当性があるためだ。孤独・孤立が人を殺すことは事実である。
一旦、サブカルチャーを参照してみたい。2012年、アニメ『這いよれニャル子さん』のオープニングテーマ「太陽曰く燃えよカオス」ではその歌詞に「絆むかむか無理やりされがち」というフレーズが挿入されていた。確かに、「絆」は2011年の今年の漢字であった。震災の中で必要であったことは確かである。孤独・孤立、社会関係資本の議論の重要性が浮かびあがったともいえる。2006年の自殺対策基本法の制定、2017年の社会福祉法改正による市町村地域福祉計画策定の努力義務化、2023年の孤独・孤立対策推進法の制定の中で、社会関係資本に関する政策は進んでいたものの、当時、絆ということばがそれほどに「無理やり」に作らされるようなものであったとは思いにくい。一方で、確かに、徐々に行政の主催する有識者会議の中で時折、「隣組のようなもの」が必要ではないかといったことばや戦前に隣組を創出する際に用いられた「向こう三軒両隣」といった言葉が使われることがある。「みんなで進め」ということばとともに、洗練されたつながりづくりは進行していたともいえる。「むかむか」と言われる程度には今進行している「絆」は危うさを持たされかねないものである。孤独・孤立対策というそれ自体が喫緊の対策が、他の社会条件からある種のミクロな政治性を帯びている中で、別の回路を作る必要があるだろう。
ひとつには大塚英志・森美夏のまんが『北神伝奇』における「逃げる」あり方ではないだろうか。作品の最後で、山人の血を引く兵頭北神は、山人を満洲に逃す船を前に「ユートピア建国のための道具になれ(人間=「みんな」を<やめる>という死)」と「山人を殺す道具となれ(山人=「みんなになれない者」を否定するみんな側に回る<連帯>のような死、自分を殺して従うことを求められ、だが、いずれ自分自身も殺される)」という2つの命令の選択肢を与えられ、そして、それが嫌なら「死ねばいい」という冗談めかした助言を前にする。このとき、北神は「死にたくない」と言って、すべてを投げ出してどこかに逃げてしまう。
「逃げる」こと、それは責任の放棄である。だが、何が悪いのだろうか。責任とは、自分を道具にせよという命令に他ならない。それが受け入れられない程度になったとき、逃げることは悪いことではない。役割とは他人に与えられるものではなく、選ぶものである。そこに責任が生じるのだとして、果たせないと判断したならば、逃げるべきだろう。そして、居場所を探してどこかに行くべきである。その新しい居場所でも責任を果たせないならば、また逃げれば良いだけのことである。責任を果たせる間は、誰かの居場所をほかのものと一緒に維持すれば良いのである。
ここで構想される社会は、逃げて海を漂流する者たちと、「いつかきっと逃げる者」たちによって作られる「岸」とでも比喩されるべき居場所で構想される。「海」とは責任から逃げる者が漂う場である。責任を果たしきる者がいなくなったときに「岸」という場所は時になくなってしまうかもしれない。「岸」が「海」に飲み込まれることもある、ということである。永遠に続くものなどないのだから、いずれはなくなってしまうものだ。だが、いつ飲み込まれるか、その長短は岸の種類によるだろう。居場所は会社であったり家族であったり地域社会や趣味の共同体、ボランタリーな市民団体だったりするだろう。むしろ、企業のゴーイングコンサーンや地域の身近な圏域の居場所の継続性などと、個人の所属と、個人の生存が一体化していること自体が規範意識となっており、その規範意識が制度設計を支えている。それは、技術や状況といった形を持たないものは個々人の中に内在したものの総和に成り立つのだから、属人性が高ければ高いほど、その規範意識を重視することになるだろう。だが、それは奇妙でもある。誰かが逃げたとしても人類社会全体の総和としての技術量は変わらない。ならば、社会にとっては技術の消滅ではなく、単なる技術の移転でしかない。制度設計する社会側にしてみれば、この集団の継続性と個人の所属、個人の生存を一体化させる必然性はない。
個アマルティア・センの意味での潜在能力の考え方をするならば「誰もが逃げる潜在能力を持てるようにせよ」こそが、この社会における重要な社会命題となる。
だが、この論理構成では「逃げる者」の問題ではなく「逃げる者が出る場」にこそ問題がある。一方で、「逃げられる場」自体が「逃げる者」によって作られていることを忘れてはならない。人間とは傷を負った生き物である。「抑圧する者はあらかじめ抑圧されている」ということを忘れてはならない。そして、逃げる者もまた「負い目」を持つことになる。負い目なき場づくりを考えるならば、場の生成されるルールは「逃げられてしまう場」を罰する形ではなく「逃げることができる場」に価値を生む必要もまたある。つまるところ、技術量が減った集団に対して何かが得られれば、逃げる権利は規範の点では実質性を持ちうる。何かを逃げる者が支払う必要はない。それは「負い目」や「負債」となる。逃げられることとこれらは矛盾する。つまり、支払いは社会またはその集団が行うべきものである。
その一方で、個人の行動のあり方も変わっていく必要がある。「誰もが逃げること」と同様の意味を持つあり方へと変わっていく必要がある。それは「ここから離れること」、しかしながら、「ここに縛られている意識」を傷つけないようなものでなければならない。それは、力なく、海を漂うかのような振る舞いである。

(1)ひとりでいること、その意味

中澤は「なんでもひとりでつくるやさん」
と名乗っています。
ぼくには、「ひとり」ということばが、
どうしても大切だと思えます。

彼女自身は、今後、ほかの作家とともに、
作品作りも、していくようで、
そのことは寿ぐべきことだと思います。
きっと作品の幅は大きく広がるだろう、
と思えています。

その一方で、「ひとり」ということばが、
いまでも残っていることは、
とても大切だと思えます。

近年、世間では、
「早く行きたければ、一人で進め。
遠くまで行きたければ、みんなで進め」
ということばが語られることがあります。

分からなくもないです。
おそらく、この命題のもとで、
行政はさまざまな政策を作っていくでしょう。
企業はESG戦略を立てていくでしょう。

でも、「みんな」からこぼれ落ちたひとにとって、
このことばほど尊厳を傷つけるものもあまりないな、
と思わなくもないです。

中澤の「ひとり」は、
ひとりと、ひとりと、ひとりしかいない世界で、
ひとりでいること、ひとりで生きるしかないこと、
その孤独でだけが共通している
そういう世界にいるひとが自分以外にもいる、
というメッセージになる、とも読むことができます。

(2)「外れ値」は、違う顔をして、でも同じように必死に生きている

『外れ値にて、漂流』が、
「ひとり」のひとによって書かれたことには、
大きな意味があると思います。
「ひとり」が書いたものが、
きっと「ひとり」のひとに届く、
紙とフィルムを介したアナログなこの通信は、
置き去りにされたものたちが、
かろうじてつながるには、
こういう方法しかない、
と言っているかのようです。

社会調査のアンケートでは、
「外れ値」のような回答があります。
ぼくの経験上のお話ですが、
「外れ値」のような回答をしたひと同士は、
外れ値以外の回答について、
「全然似ていない回答結果」
ということがとても多いです。
その他や自由記述になると、
もはや全然違うパーソナリティだろう、
などと想像されます。
「外れ値」同士は、
簡単にはつながれないのです。

外れ値同士が似た者同士だから仲良くなれる、
ということはまずないだろうな、と思えます。
外れ値同士は全然、似ていない。
平均から予め排除されていること、
このたったひとつのことだけが同じ、
というところで必死に生きていることが想像されます。

ひとりでしかいられないひとがいる。
そのひとは社会に何も残せないのでしょうか。

ぼくはここで、
「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」
というフレーズを思い出します。
ひとりと、ひとりと、ひとりの連帯。
ひとりが単位となる社会での責任の実践の、
系譜を思い出します。

7 逃げたい者。そこから文学が、はじまる

もちろん、「ひとり」にできることには、
きっと、限界があるでしょう。

でも、「みんな」というものは、
「みんなでない者」を排除もします。
排除されたくなければ、
ぼくたちに役割を押し付けてきます。
そのお仕着せに自分自身を押し込める中で、
「みんな」になれない自分のなかの何かを、
自分自身から排除しなければなりません。
一方で「みんな」になりさえすれば、
なることができさえすれば、
生きていけるどころか、
おそらく、幸せを実感することも多いことでしょう。
「賢くなれよ」、「賢いのにもったいない」
そうしたことばが、外れ値たちに投げかけられます。

漂流する「外れ値」は、
外れ値同士つながることも難しく、
それでいて、みんなにもなれない。

だとしたら、「外れ値」は、
「逃げる」しかありません。
「逃げる」とは、理想的な
「ここではないどこか」を求めること、
ではありません。
「いま、手に持っているものさえも、
全て投げ捨てることになってでも、
別のところにいくこと」
です。

「逃げる」とは、責任の放棄、
と言えるかもしれません。
責任とは名前を持つ者に与えられるものです。
名前のない存在を
法廷に呼び出すことができないように、
究極的な「逃走」とは、
名前を捨て、
何者でもない者になることです。
放棄するのは責任だけではなく、
自分の名前さえも捨ててしまうことです。

名前を捨てる、ということは、
呼びかけられてきたものから離れ、
つながりから切り離され、
自分の培ってきた来歴さえも、
喪ってしまう、
そういうおそれもあるものです。

それでも、身体は生きている。
生きているからには、
逃げた先で名前を持つことでしょう。
誰かが「あなた」に、
名前をつけ、
呼びかけ、
関係が生まれ、
役割を与える。
その名前が気に入ったならば、
そこにいれば良い、
苦しいのならば、
また逃げれば良いのです。

けれども、誰もが、
「逃げる」という能動的な行為を、
行うことができるのでしょうか。

捲土重来、臥薪嘗胆、
といった言葉もあるように、
逃げる、という行為は、
とてもヒロイックでもあります。

逃げることが難しくとも、
誰もが「逃げる」ように、
苦さをたたえた場所から出ていくことができるように、
そのためには、漂うこと、
ここにいるわけでもなく、
かといってどこかに向かっているわけでもなく、
それでいて、気づけばここからいなくなっているように。
そういったあり方を考える必要があります。

8 中澤作品の描く、漂流

表紙についていささか長く語ってしまいました。
本文について語りたいと思います。

(1)醜さから、始める

『外れ値にて、漂流』は、
投影する醜さから話し始めます。

「犬になりたかった」という。
犬への希望の投影。
他人の弱さとそこに手を差し伸べる自分の手を、
守られなかった弱さを抱える自分自身と
守られたかった自分の過去の希望を投影している、
と言います。

そうした形でしか、
不足している自分を許してやれないのか、
と、否定的に問うのです。

ですが、この世界では、
自分を許すことは、
なんの役にも立ちません。
あるいは、他人に手を差し伸べても、
実は許されることはありません。

なぜなら、
他人に自己を投影した瞬間、
他人は他人ではなくなってしまいます。
でも、それは、自他を対等とする、
とはなりません
それは自分の見たいものを見るための、
自分の延長、道具にしてしまうのです。

投影とは他人の現実を、
自分に都合の良いカタチに、
切り取ってしまうことでしかありません。

既に否定的に捉えているように、
むしろ、醜さと罪は、投影の方にあります。

自分を許せないという弱さが、
投影という醜さと罪という、
新たな弱さを呼び込んでいるのです。

この作家は、
弱さが呼び込む弱さ、
そんな存在が存在し続ける醜さ、
爪弾きにされた時に、
本人自身が納得してしまうような、
そういう種類の醜さ、
それを持って存在することを始めるしかない、
無限退行する醜さの連鎖から始めるしかない、
と語っているかのようです。

ぼくたちは、
何かを許すことはできません。
何かを癒すことはできません。
何かに手を差し伸べることも、
できません。
そして、
どこかにいて良いという根拠は
いつまでも感じられません。
愛を受け止めることもできません。

もしも、同じように、
この無限に増殖し続ける醜さに、
思いなやんでいるひとは、
きっと、この作者とともに、
だれともつながることなく、
他人に投影し、
他人を切り取る、
人間というみんなのもつ限界を、
ひとりで引き受けようとする、
美しい無謀さのただなかにいるのでしょう。

ぼくは、そのことに、
胸をはるべきだ、
と思います。

(2)漂流する者たちの世界

中澤の描く、漂流する者たちの世界は、
イネイブラー性、孤独な自愛、
苦しみの中でだけ赦しを感じる倒錯、
暗澹たる精神だけが避けられる腐臭、
憧憬が嗚咽するような苦しみ、
孤独と生きづらさの悪循環
に満ち溢れています。

けれども、それらは、
詩的な誇張では、
たぶん、ありません。
淡々とした比喩を用いた
事実報告です。
涙が川になる歌の世界は、
漂流する者にとって、
あまりに現実操作的で、
能動的に過ぎる、
とでも言うような、
謙抑のなかにいます。

漂流する者、
その場に留まるかのように去って行くひとにとって、
何かができること、それは価値ではありません。
できる/できない以前のところ、
そこに漂流する者はいるのです。

(3)漂流する生き方

そもそも、
漂流する外れ値たちの世界の前提は、
作中の
「正しさはおれを守ってくれない」
にあります。
正しさとは、
「各人に彼のものを」と迫る
天秤のようなものです。
より多くの義務を果たすものには、
その者にふさわしい対価が。
何かを拠出する者に対して、
拠出された者が支払いを行います。
誤った者、失敗した者には、
それに相応しい罪と罰を。

しかし、外れ値とは、
比較以前に外されるものです。
天秤に載せられる前に
弾かれるものです。

そこでは、何かができるかできないか、
何者であるのか、何者でもないのか、
そうした二分の外に置かれるものです。

現実との関わりの外側にいるのです。
正しさの外にあるのです。
法外の者、と言って良いでしょう。

すでに「逃げる」ことについて語りました。
逃げるとは責任を放棄する、
ということです。
しかし、それは外れ値にとって、
放棄にさえならないのです。
外れ値は既に法の外に置かれているからです。
責任とは権利と義務の関係を示すものであり、
法的な関係の中にない存在は、
責任を問われる存在ではないからです。

(4)外れ値の誇り

本書の先には何があるのでしょうか。
そうした存在である外れ値たちは、
ただ生きている、揺蕩う海に向かっていくこと、
そこにしか誇るところはありません。
死なない。
生きていくこと。

それは生きて、世界に爪痕を残す、
そういった生き方ではありません。
それは人間として、名前を持って生きていく
近代から続く生き方です。
ですが、それは、外れ値を生み出すものです。

その先には何があるのかについて、
まだ見えていません。
ひとりと、ひとりと、ひとりが、
それぞれに試みていくこと、
何かを作っていくことの先にあるのかもしれません。

例えば、それは、中澤のように、
卓越した作品もそのひとつでしょう。
ですが、もしも、彼女の作品に
何かを受け取ったならば、
noteに何かを書き残していくこと、
同人誌を作ってみること。
思いを詰めた瓶を海に投げるのか、
種をまいていくことなのか、
宛所不明になってしまうかもしれない手紙を出すことなのか、
そうしたものになってしまうかもしれません。
ただ、そうした試みの先に何かがありそうな気がします。

補足

(1)文学フリマ札幌に出店するらしいです

文学フリマ札幌でも出展されるそうです。

ブースは以下です。


(2)お節介:文学フリマにサークル参加される方へ

自分のサークルを知ってもらうためには、
文学フリマ札幌だけではなく、
webカタログで自分のサークル名を検索し、
そのURLを表記してください。
そして「☆気になるをぜひ押してください。励みになります」
と書いておくと良いです。

これをして初めて「サークルを宣伝した」
ということになると思った方が良いです。
宣伝は「このサークルのところに行きたい」
と思ったひとの手間を省くところまでやって、
初めて「宣伝」です。
宣伝はしたくない、というお考えの方も
もちろんいらっしゃると思います。
それはそれで良いと思います。
ただ、宣伝は必要と考える方は、
蒸気を最低ラインと考えていただきたいです。

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