【50代】子供の頃には見えなかった1990年イタリア大会の面白さ
2026北中米ワールドカップ始まりましたね。
すでに数試合が終わり地元の地をいかした
メキシコ、アメリカが初戦を勝ちましたね。
そして日本vsオランダ
2−2
よく追いついた
昔みたいにリードされても、
終わったみたいな
雰囲気がないのがいい
個人的には佐野海舟の凄さと、久保の怪我が心配
そしてオオトリは本田さんの、オランダ選手に対する、
辛辣な解説が結構笑えた。
どうも紅鮭の幻影です。
私がなぜこの意味のない名前になったかはこちらから
子供の頃、サッカー少年だった私のあだ名は
「ジーコ」だった。
もっとも、プレースタイルは
全然違う。
ポジションはリベロ。
子供の時代でいうと
西ドイツのマテウス
この辺の話しはこちらから
メキシコワールドカップの記事でかたっています。
そして、実は紅鮭の幻影には
もう一つ、イタリア人から長年呼ばれ続けているニックネームがあります。
イタリア人の友達に初めて会った時、
「お前の名前は?」
と聞かれた。
そこで私は、
「サルバトーレ」
と答えた。
サルバトーレ。
南イタリアでは珍しくない名前である。
そして、この名前の愛称は、
ほぼ「トト」。
実際、シチリアを旅した時も、そこら中にトトがいた(笑)。
こうして私は、20年以上
「トト」と呼ばれることに
なったのです。
実はこのトト
ワールドカップのある選手
が由来です。
そう、1990年イタリアワールドカップ得点王
サルバトーレ・スキラッチ
シチリアのパレルモ出身。
下町の路地で育った男。
家計を助けるために、菓子職人の見習いもしていた。
プロデビューは地元の
アマチュアクラブ。
その後、メッシーナへ移籍。
7年かけて、セリエBの得点王になった。
そこでようやく、ユベントスの目に留まった。
移籍金は格安だった。
期待されての移籍では
なかった。
ユベントスに移籍したのが1989年。
つまり、ワールドカップの前年だった。
それまでは無名に近かった。
イタリア代表としても、この
ワールドカップが実質的な
デビューだった。
ところが、この男。
大会が始まった瞬間から、
別人になった。
7試合で6ゴール。
得点王。
映画の主人公でも、ここまでやらない。
しかも顔がいい。
彫りが深くて、目が鋭い。
試合後のあの目つきを覚えている人も多いはずだ。
日本では後に、ジュビロ磐田でプレーした。
Jリーグが世界に向けて
「本気」を見せた時代の
話でもある。
ただ、スキラッチの人生はその後、穏やかではなかった。
輝きはあの夏に集中
しすぎていた。
ワールドカップが終わると、急速にフェードアウトしていく。
まるで、あの夏だけのために
生まれてきたような男だった。
だから余計に、眩しかった。

今回は、日本中がオランダ戦の余韻に浸っている中
その90年イタリアワールドカップを、50代の記憶を頼りに旅していこうと思います。
と、意気込んで記憶をよみがえらせてみたものの
思い出せない・・・
86年のマラドーナ
94年のあのシーン
各大会ごとに
あのゴール
あのシーン
あの国
これと言って記憶に残るシーンが蘇ってこない。
そんなわけで、
当時のメンバーや、出場国を調べ始めて驚いた。
「あれ?この大会、宝箱じゃないか」
50代の視点でみていくと、
なかなか面白い情報が
みえてきた。
当時のセリエAは、まさに毎週ワールドカップだった。
今で言うプレミアリーグ
ACミランには、
バレージ。
マルディーニ。
そして、オランダ代表の
三銃士。
ファン・バステン
フリット
ライカールト。
一方のインテルには、
西ドイツ代表の
マテウス。
ブレーメ。
クリンスマン。
ナポリには、
アルゼンチンのマラドーナ。
ブラジルのカレカ。
今思えば、とんでもない
時代だった。
そして、そのオランダ代表には、3Rだけではなく、
ロナルド・クーマンもいた。
ディフェンダーなのに、そこらの得点王と変わらないくらい点を取る男。
キャリア通算得点は資料によって幅があるものの、256得点
PSV時代の1987-88シーズンには、公式戦で26得点。
普通のFWでも十分すぎる数字である。
それを最終ラインの選手がやっていた。
意味が分からない。
しかも、その得点の多くは、あの悪魔のようなフリーキックから生まれた。
ロベルト・カルロス
のような弾丸。
それでいて、壁の隙間を射抜く精密さ。
パワーと技術が同居した、まさに元祖・殺人フリーキック。
そして30年以上経った今、
オランダ代表監督として
日本代表の前に立ちはだかっている。
2026年ワールドカップ。
日本対オランダ。
ベンチで指揮をとっているのは、かつてディフェンダーの概念を壊した男、
ロナルド・クーマン。
90年大会を振り返っていたら、いつの間にか2026年に繋がっていた。
こういうところが、ワールドカップの面白さなのかも
しれない。
アフリカ旋風の始まりカメルーン
そして、世界中の心を掴んだのは、スター軍団ではなかった。
38歳のおじさん
ロジェ・ミラ。
一度は代表を引退。
しかし、カメルーン大統領の要請で現役復帰。
38歳。
今なら、
「いやいや、無理でしょ」
と言われそうな年齢である。
しかし、このおじさん。
大暴れする。
そして、そのカメルーンが
大会開幕戦で対戦したのが、
前回王者アルゼンチン。
マラドーナ率いる
優勝候補である。
誰もがアルゼンチンの
圧勝を予想していた。
ところが、カメルーンは驚異的な身体能力と、荒々しい守備で対抗。
ついには二人の退場者を出しながら、9人で1-0の勝利を守り切った。
ワールドカップ史に残る大番狂わせ。
サッカーに絶対はない。
そんな当たり前のことを、改めて教えてくれた試合だった。
そしてロジェ・ミラは、ゴールを決めるたびにコーナーフラッグの前で踊った。

世界中が真似をした。
たぶん、ワールドカップ史上、一番陽気なおじさんだった。
イングランドのガスコインも忘れられない。
準決勝、西ドイツ戦。
イエローカードを受けた瞬間、決勝に出られないことを悟り、試合中に涙を流した。
あの顔を、今でも覚えている。
ピッチの真ん中で、大の男が泣いていた。
試合はまだ続いている。
周りの選手は戦っている。
それでも、涙が止まらなかった。
私はガスコインが好きだった。
天才。やんちゃ。感情むき出し。
どこか危うくて、人間臭い。
ピッチの外では、自分自身を
止められない男でも
あったけれど。
だからこそ、あの涙は今でも忘れられない。

一方、マラドーナは準決勝でイタリア全土を敵に回す。
舞台はナポリ。
ナポリの英雄だったマラドーナは、
「北部の人間は普段ナポリを差別している」
と発言。
複雑な空気の中、イタリアは
敗退。
英雄と裏切り者。
後に始まる転落の序章を見ているようだった。
そして1990年大会は、
史上最低得点の大会
でもあった。
守備的な試合が続き、
「退屈な大会」
とも言われた。
しかし、その反省が、
バックパス禁止。
勝ち点3制。
現代サッカーの、
礎になっていく。
つまり、
退屈だったから、サッカーは
進化した。
これもまた、歴史なのだろう。
50代になって振り返ると、もう一つ気付くことがある。
西ドイツ、数か月後にドイツに統一される。
ソ連。
ユーゴスラビア。
チェコスロバキア。
当時当たり前だった国名は、今では存在しない。
子供の頃は何も知らなかった。
ただボールを追いかけていただけだった。
でも50代になった今見ると、
あの大会は、冷戦の終わりと
新しい時代の始まりを
映していたようにも見える。
そして決勝。
またしても、
西ドイツ対アルゼンチン。
4年前のメキシコ大会と同じ
カードだった。
あの時はマラドーナが笑い、西ドイツが泣いた。
今度は逆だった。
マテウス率いる西ドイツが雪辱を果たす。
そして、「西ドイツ」という
名前で世界一になった最後の
夜になった。
正直に言う。
子供の頃の私は、
1990年大会を地味な大会だと思っていた。
でも、50代になって振り返ると、
最強のセリエA。
オランダ黄金世代。
38歳のおじさんヒーロー。
ガスコインの涙。
消えていく国名たち。
派手ではない。
だからこそ、味わい深い。
そんな大会だったのかも
しれない。
<1990 イタリアワールドカップ結果>
優勝
西ドイツ(3回目)
決勝
西ドイツ 1-0 アルゼンチン
* 得点:アンドレアス・ブレーメ(85分・PK)
* 開催地:ローマ・スタディオ・オリンピコ
* 観客数:73,603人
<得点王>
サルバトーレ・スキラッチ
(イタリア)
6得点
<MVP>
ローター・マテウス(西ドイツ)
<紅鮭の幻影的ベストイレブン>
GK
ミシェル・プロドーム(ベルギー)
DF
アンドレアス・ブレーメ(ドイツ)
ギド・ブッフバルト(ドイツ)
フランコ・バレージ(イタリア)
パオロ・マルディーニ(イタリア)
MF
ローター・マテウス(ドイツ)
ポール・ガスコイン(イングランド)
ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)
FW
サルバトーレ・スキラッチ(イタリア)
ユルゲン・クリンスマン(ドイツ)
ロジェ・ミラ(カメルーン)
監督
フランツ・ベッケンバウアー
そして次はいよいよ、
1994年アメリカ大会。
あの男の背中について語っていきます。
飾らない、ありのままの紅鮭の幻影の世界観を。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
