【聖夜までに恋をひとつ―氷の数式が溶ける夜―】第3章 「一般論が通じなくなった瞬間」
第3章テーマは、自己関連処理優位性(Self-Referential Processing Bias)
自己関連処理優位性は【「自分の話になると、脳は本気を出す」 という特性】というものです
しかし、心理学に沿いながらも「冷静に考えるとおかしい行動」になる場合もあります
それでは、第3章 「一般論が通じなくなった瞬間」をイメージ楽曲と共にお楽しみ下さい
↓第3章のイメージ楽曲↓
前回のあらすじ
放課後の生徒会室
氷室先輩は、いつも通りノートを開いていた
「恋愛というのはですね」
始まりの合図は、だいたいいつも同じだ
「人は、一定の条件を満たした相手に好意を抱きやすい傾向があります」「へえ」
俺は否定しない
というか、もう慣れた
「接触頻度、共通項、安心感
これらが揃うと、成功率は上昇します」
「なるほど。確かに聞いたことあります」
実際、言ってること自体は間違ってない
問題は、その説明の仕方だけだ
先輩はペンを走らせながら続ける
「つまり、恋は再現性のある現象です」
「先輩らしい結論ですね」
「褒めていますか?」
「たぶん」
先輩は小さく頷き、ノートに書き足した
―人は、〇〇な条件下で感情を形成する―
(“人は”ね)
その主語に、俺は少しだけ引っかかった
「……氷室先輩」
「はい」
「それって、先輩自身はどうなんですか」
ペンが止まった
「どう、とは」
「先輩は、そういう条件で恋したことあるんですか?」
完全に想定外だったらしい
先輩は一瞬、言葉を探すみたいに視線を泳がせた
「私は……」
そこで止まる
(あ、今“私は”って言いかけた)
「……私は、その話をしているわけではありません」
言い直した
でも、もう遅い
「でも、今“私は”って言いましたよね」
「言っていません」
「言ってました」
「……聞き間違いです」
強情だ
でも、耳まで赤い
「別に責めてないですよ」
俺は笑って、椅子にもたれた
「ただ、先輩がどう思ってるのか、気になっただけです」
「それは……」
先輩はノートを閉じ、胸の前で抱える
「一般論で説明する方が、正確です」
「正確でも、先輩の話じゃないですよね」
沈黙
その沈黙が、妙に長い
「……天ヶ瀬くん」
「はい」
「あなたは、どう思いますか」
「俺ですか?」
急に振られた
「恋って、条件揃えれば起きると思います?」
俺は少し考えてから答えた
「起きることもあると思います」
「……曖昧ですね」
「でも、起きないことも多いです」
先輩は眉をひそめた
「それは、非効率です」
「そうかもしれません。でも」
俺は言葉を選んだ
「条件より先に、気になる人が来ることもあります」
先輩の指が、ノートの端をぎゅっと掴む
「それは……危険です」
「危険?」
「制御できません」
その一言が、静かに刺さった
(ああ)
「先輩、怖いんですね」
言ってから、やっちまったと思った
でも、先輩は否定しなかった
「……怖くないとは、言いません」
小さな声
「感情は、急に暴走します
数値にできない。予測できない」
「だから、一般論にしてる?」
問いかけると、先輩はしばらく黙ったまま、ノートを見つめた
そして、ゆっくりペンを取る
書き足された一行
―私は、感情を扱うのが苦手だ―
(……主語)
先輩はそれを見て、少しだけ目を見開いた
「……今のは」
「消します?」
「……いいえ」
ノートを閉じる音が、やけに大きく響いた
「今日は、ここまでにします」
「もう?」
「これ以上は……一般論では続けられません」
立ち上がる先輩の横顔は、どこか疲れて見えた
俺は思う
(この人、恋を知らなかったんじゃない)
(怖がってただけだ)
その考えが、胸の奥に静かに落ちた

氷室先輩は、ノートを閉じたまま席に戻らなかった
立ったまま、窓の外を見ている
(……あ、これ今、話しかけない方がいいやつだ)
そう思ったのに、先輩の方から口を開いた
「……天ヶ瀬くん」
「はい」
「少しだけ、過去の話をしてもいいですか」
少しだけ、という前置きほど信用ならないものはない
でも、俺は頷いた
「どうぞ」
先輩は椅子に腰を下ろし、ノートを開く
さっきまでのページとは違う、かなり前のページ
文字が少ない
余白が、やけに多い
「中学の頃」
淡々とした声だった
「気になる人が、いたことはあります」
(あるんだ)
意外でもなんでもないのに、胸が少し動く
「ですが……」
先輩はペン先で、何も書いていない余白をなぞった
「“好き”と判断する前に、条件を確認しました」
「確認?」
「距離、接触頻度、会話内容
数値にできるものは、全部」
(やっぱりやってたんだ……)
「結果、基準値には届きませんでした」
「で、終わりですか」
「はい」
即答だった
「……あの」
俺は首を傾げる
「その人、先輩のこと好きだった可能性は?」
「未検証です」
「検証しなかったんですね」
「はい。結果が不安定になるので」
不安定
その言葉が、妙に重い
先輩はノートに書き足す
―私は、判断を先延ばしにした―
(“私は”だ)
「それで、後悔とかは?」
聞いてから、余計なことを聞いたかと思った
でも、先輩は考え込むだけで、怒らない
「……当時はありませんでした」
「今は?」
沈黙……
その沈黙の間、先輩はノートを見つめている
余白に、何も書かれていない場所
「……ある、のかもしれません」
小さな声
「でも、それが何なのか、わかりません」
先輩はペンを走らせる
今度は、迷いながら
―私は、少しだけ、残念だった―
(少しだけ、か)
「それ、今決めなくていいんじゃないですか」
俺は言った
「名前つけるの、後でも」
先輩は眉をひそめる
「後回しは、非効率です」
「でも、先輩」
俺は笑った
「今、無理に決めようとして、困ってますよね」
「……」
否定しない
「それに」
俺は続ける
「先輩がどう感じたか、俺は評価しませんし」
「……評価しない?」
「正しいとも、間違ってるとも言いません」
先輩は少し驚いた顔をした
「解決もしませんよ」
「……それは、助言ではありません」
「はい。聞き役です」
先輩は一瞬、戸惑ったあと、小さく息を吐いた
「……不思議ですね」
「何がです?」
「話しているのに、結論が出ない」
「それ、普通です」
「普通……」
その言葉を、先輩は噛みしめるみたいに繰り返した
ノートに、また一行
―私は、結論が出ない状態が、少し怖い―
(また“私は”)
先輩はそれを見て、苦笑した
「増えていますね」
「主語ですか?」
「はい」
「悪いことじゃないと思います」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、“人は”より、先輩っぽいです」
その一言に、先輩は少しだけ笑った
ほんの一瞬
でも、確かに
「天ヶ瀬くん」
「はい」
「あなたは、私をどう見ていますか」
また来た
核心質問
俺は少し考えて、正直に答えた
「一般論で逃げる人じゃないと思ってます」
先輩は目を見開き、すぐに視線を逸らした
「……それは、褒め言葉ですか」
「たぶん」
先程と同じ返しだ
先輩はノートを閉じ、立ち上がる。
「今日は、ここまでにします」
「もう?」
「これ以上話すと……」
言い淀んでから、続けた
「“私”の話が増えすぎます」
「それ、良いことでは?」
先輩は答えず、扉に向かう
でも、出て行く前に、振り返った
「……天ヶ瀬くん」
「はい」
「聞いてくれて、ありがとうございました」
珍しい
ちゃんとした感謝
俺は軽く手を振った
「どういたしまして」
先輩が去ったあと、机の上に残されたノート
閉じられた表紙の下で、主語が静かに変わり始めている
俺は思った
この人は、恋を知らなかったんじゃない
ただ―自分の話をするのが、怖かっただけだ―
(……まあ)
(それを引き出した俺も
冷静に考えると、だいぶ変なんだけど)
そう思って、ひとりで小さく笑った
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