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英語のトレーニングに関しての原理的考え方

僕は、「語学の学習法にはひとの個性がでるから、この方法がオススメです、とは言いにくい」という考えを持っているのですが、同時に、「ここは外さないほうがいいよね」という原理的な考えも持っています。今回は、誰にとっても適用できるであろう、この原理的考え方についてシェアします。

まず、以下の3つが原理的考え方の柱です:

  • じっさいに将来的につかう技能をトレーニングする

  • トレーニングは局所に着目してやる

  • 補助輪は使えるが将来的に外すという意識が必要

以降で一つずつ説明していきます。

将来やることをやる

「じっさいに、将来的につかう技能をトレーニングする」というのはあたりまえで、いうなれば「自明」です。その人が今後しない、あるいは使わないであろう部分を鍛えても、なんの意味もないからです。

英語学習であれば、語彙がこの原則の影響をつよく受けます。世の中に流通している英語の語彙というのは無限といっていいほどであり、そのため「語彙をコンプリートする」ことは人の一生の時間をかけても達成できません。必然的に、「その人が将来的につかう、つかいそうな語彙」との面識を優先的に増やしていくようなアレンジ、工夫が必要になるのですが、そのようにする背景に、「将来やることをやる」という今回紹介する原則があります。

また、将来やることをやるというこの主張は、「トレーニングの方法だけを見て、それに意味があるだの、ないだのの指摘はできない」と言い換えることもできます。トレーニングが意味ありそうかどうかは、「で、あなたは結局なにをどのようにしたいのですか」という質問にクリアにこたえることでわかる話であり、問うべき質問は、「その方法は適しているか?」ではなく、「あなたが何をどうしたいのか?」です。その問いの回答として出てくる目的との整合性で、そのトレーニング方法が役に立つかを判断します。

ここがやっかいというか、トリッキーな箇所になると思うのですが、「その人が何をどうしたいのか」をその人自身がわかっていないことが、けっこうあると思うんですよね。「英語力をつけたいです」とか、「リスニングで聞き取れるようになりたいんです」というのは回答としてはまだフォーカスが甘く、「結局なにがしたいのか」まではたどり着けていません。もし、よいメンターみたいな人がいるのであればわりと容易に論点や本質の根っこをつかみにいけるのですが、それがうまくできないと、どうしでも「英語力をつけたいです」よりも精細な現状の把握ができなくなってしまいます。

別の記事で、語学学習では現状の把握や事実の把握がかならず必要であると説明したのですが、その、「現状の把握」のなかには、「自分がなにをどうしたいのか」の把握も含まれます。そしてそれは、何をどのようにトレーニングするか定めていくさいに死活的に重要になります。

またこのことは、ある学習方法が誰にとってもオススメです、とは言いにくいという冒頭で示した事情とも関連します。「あなたは誰で、何をどうしたいか」という情報なしに「筋のいいトレーニング方法」を確定させることができないため、虚無の状態から意味があるだの、ないだのの話はできない、ということになります。

ふたつめの、「トレーニングは局所に着目してやる」では、技能やスキルというのはしばしば、要素技能の複合になっているという都合がからみます。

たとえば、自動車の運転技能について。自動車運転の技能を習得するためには、とにかく自動車を運転すればいい、という主張は、なにかが間違っているわけではないのですが乱暴な表現ですよね。自動車運転の技能は、ハンドル操作、クラッチ操作、四方の安全確認をする操作など、複数の要素技能の複合なのですが、これは、それぞれの機能や全体における役割についてよく理解することを必要とします。そのような要素技能を「がっちゃんこ」してひとつの総体的な技能にするわけですから、トレーニングでは局所に着目して丁寧にやる、というのは自然です。

これは、ひとつの学習法にあれこれ期待しないと言い換えることも可能です。one size fits all のソリューションを求めない、銀の弾丸を探さない、「これだけでペラペラ!」のような過激なコピーに踊らされないようにする姿勢は、「細かく丁寧に着目してから全体として仕上げる」という原理的態度で達成できます。

分析と総合

キーワードは分析的視点と総合的視点です。分析とは、成分を分析する、競合を分析するなど、対象を細かく分け、その性質・特徴を調べる操作です。中身はどうなっているんだろう、という疑問を起点にして内容を詳細に調べる、という感じです。

一方で総合とは、がっちゃんこしてひとつにまとめることであり、複数の異質な要素をひとつのものにする操作です。もちろん、まとめる諸要素の関係性や順序もきちんと加味して、全体としてきれいにまとまるように仕上げることが重要です。すでにした「自動車運転技能の醸成」の話もこれと同じです。

「将来的につかう技能をトレーニングする」と「トレーニングは局所に着目してやる」は、分析的視点と総合的視点で達成できます。分析してから総合し、その結果をまとめることが「ひと仕事」になるのですが、語学学習における「ひと仕事」は当然、総体的な技能の習得です。つまり:

  • 英語力とは何か、どのような要素からなるか。どこまで細かく分類できるか。それぞれの諸要素を形作る特徴は何か

  • 分析により洗い出された諸要素や要素技能の関係性はどうなっているか。前後関係、依存関係はあるか。普遍的な性質に着目して、シンプルにまとめ上げることはできるか

をじゅうぶんにケアすることが重要になります。

言い方を変えると、「一石二鳥を狙うアプローチ」はおすすめできないということです。銀の弾丸を探すと、自分が何をやろうとしているのか、何をやっているのかという意識があいまいになってしまい、複数の要素を細かく丁寧に仕上げるという発想がおろそかになってしまいます。

学習する本人の分析と総合の眼が必要であるということです。自分が分析的操作をしているのか、総合的操作をしているのか、というのは頭の横に置くべきことであり、「分析して総合し、まとめる」という流れのどの辺にいるかを、メタ的に把握する必要があります。

また、「もうすでに知っている内容をまた知る」というのはあまり筋のいいアプローチではないのですが、局所に着目するトレーニングの場合、「もうすでにできることをしない」という判断をして、それを回避できます。ここは手を付けなくてもいい、よさそうだ、という判断は、MECEのような要素分解のアプローチをしたうえで行えることです。分析を走らせた結果として「離れザル」みたいな要素が出てきた場合は、それをのけた方がいいよね、ということです。

目に入るのは部分であるが、やろうとしていることは抽象であり、全体であるという意識がミソです。この話は、「3人のレンガ職人」の話と似ていて、「見ればわかるだろ、レンガを積んでいるだけだ」とぼやく1番目の職人ではなく、「歴史に残る大聖堂を造っているんだ」と説明する3番目の職人になったほうがいい、ということです。いずれにせよ、部分をメンテナンスして全体を機能させる、全体を機能させるために部分に着目するという考えが骨子になります。

技能の包含関係

技能には包含関係があり、ある技能を持つことが、それとは別のより基礎的な技能を持つことの延長であると説明できます。「部分と全体」という言葉ですでに説明しましたが、これは、「ある技能が、その下にある基礎的な技能のうえにある」と言い換えることができます。

たとえば、正しいランニングフォームを習得するには、正しい直立姿勢、正しい歩行姿勢を順番に習得してから、その延長線上として正しいランニングフォームを習得しますが、これを、直立>歩行>走行の順に、だんだんと技能が特殊になっていくと解釈することも可能で、つまり:

  1. 正しいランニングフォームができる人は、正しい直立姿勢や正しい歩行姿勢がかならずできる

  2. 正しい直立姿勢ができない人は、正しい歩行や走行の姿勢がぜったいにできない

といえます。正しいランニングフォームを身に着けたい人にたいしてまず教えることというか、まず確認すべきことは、「その人が正しい直立姿勢がとれているかどうか」です。とれているのであれば、正しい歩行のトレーニングにシフトして、上体がぶれたり猫背になってたりしているのれあれば、それをまず直すことをします。直立姿勢を直すことをする場合、当然、「まだ走ることすらしていない」のですが、それはここまでの話でしたように、その延長線上にある「ランニング」という技能に貢献していきます。

分析的視点で部分を見て全体の技能に貢献させると言いましたが、この、「部分を見る」の一例が、「きちんと正しい直立姿勢が取れているか」を確認することになります。英語でもこれはあることで、たとえば、母音や子音を正しく出せることは、単語や文の発音を巧みにすることの必要条件ですし、母音や子音の習得は、ランニングにおける直立姿勢のような立ち位置になります。

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