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意見を表明することの役割と意義

noteやX(Twitter)には、学習者目線を自称して発信をしている語学アカウントが存在します。そして実際に、その日何を学習したかとか、見聞きした英語が何かみたいな話が発信されています。

備忘録的にSNSをつかうやり方は語学学習に限らずよくあることですし、僕も、そういうのもあるよねとは思います。ただ、そのような学習者目線アカウントに対して思うことというか、「うーん…」と感じることがあります。今回はその疑問、違和感を出発点にして、「特に有名でもない個人が意見を出すことの意味」について、考察してみたいと思います。

心の奥底で委縮していませんか

僕が確認したい問いはここです。つまり、「ネット上の何か巨大な敵を無意識に恐れていて、そのため無難で当たり障りのない『学習者目線発信』をしていませんか」という点です。無理して言葉を選んで、叩かれることのない無難な学習記録をネット上で発信していませんか。

語学系の発信をするアカウントがネット上のベテランや有識者に叩かれる、という光景を僕は何度も目にしてきたのですが、そのような光景は心底しょうもなく、偉そうに叩く人たちはみっともないな、と僕は感じます。このあたりの感覚は他の多くのひとと同じでしょう。

そして、僕がそのようなすがたを何度も見ているということは、他の多くの人の目にもそのような光景が映っているということなのですが、これが、冒頭で触れた、「学習者目線」とつながっているのでばないか、というのが僕の考察です。

SNSには、学習者目線発信であれば間違いを発信しても許される、みたいな空気感があります。「不正解」の発言をする人に絡みついてあれこれ持論を展開したがる正義中毒の人たちも、学習者を自称する人たちを狩ることを避けているように感じますし、「学習者」というラベルは身を守る盾としてじっさいに機能しているように感じます。

誰が何を言ってもいい

「突っ込んだことを言うとベテランに叩かれる」というネットのしょうもない性質を恐れて、無難な発信内容に落ち着いてる人がいるのでは、というのが、ここまでの話です。

ただ、ソーシャルメディアというのはもともと、個人のつながりやおもいつきを共有するという考えのもとで生み出されたものです。いろんな人がいろんなことをわいわいがやがや言っているのがネットの本来すがたであり、そこに信頼性だの品質だのの話は入ってきません。「おなかすいた」とか、「おしっこ行きたい」みたいな、信頼性や品質がまったく担保されていない発言をSNSでおこなっても、なにも問題にはならないはずです。

あらためて考えると当然のことなのですが、品質というのは常に担保しなければならないものではありません。SNSは、誹謗中傷をするなど一線を超えさえしなければ何を言ってもよい場所です。信頼できる高品質な情報を、高いサービスレベルで提供しなければならないという義務感をSNSのユーザーが感じる必要はありませんし、それを気にしなくてもよいはずです。

ハードオフのジャンク品のように、品質がまったく保証されていないがそれを求める人がたくさんいる、という事例はたくさんあります。ジャンク品の場合、「品質が保証されていないからこそ体験できる宝探し的な価値」があり、店ごとに出会える品物が違う、他にはない一点ものしかない、というワクワク感がそこにはあります。品質が保証されていると逆につまらなくなる、と言ってもよいかもしれません。

そしてこの、カオスな環境からおもしろいコンテンツをさがすという体験は、なんとなくSNSのそれに似ていませんか。noteをやっている人にも同意していただけるかと思うのですが、「マニアックでニッチなおもしろい人を探す」という感覚を楽しんでいる人は多いはずです。

とがった意見を言うと他の誰かの気分を害してしまうからよろしくない、などと考える必要はありません。他の誰かのごきげんはその人が100%管理すべきものであり、こちらがケアする必要など毛頭ないからです。「あなたの投稿のせいで気分が害されました!」といちゃもんをつけられたとしても、「嫌なら見るな」で一蹴できます。

さまざまな角度から自分の意見を並べて、「たしかにそれっぽいなあ」という納得感を相手方に与えるのが、意見を言うという仕事であり、それは、「正解を言うこと」ではありません。

意見の提示を重ねることで、その意見を支持できる人には「共感」を与えることができますし、逆に、その意見とは正反対の立場であった人には、よい意味で「敵対意識」を与えることができます。意見の対立は常に好ましいことであり、それがものごとの発展や運動につながるからです。

学習者目線の発信がなぜ個人的にいただけないかと言うと、この、「強い共感と強い反感」を同時につくって運動を加速していく、モーメンタムをつくるという点で、ほとんど役に立たたないからです。

品質は求められたら出す

主にハードオフのジャンク品を例に出して説明しましたが、「品質を求められないことはあるし、むしろ、品質をケアしないほうが喜ばれることもある」というのは事実です。「品質と言うのは、それを求められているときに出す」と言い換えてもよいと思います。

要求される品質を出せないのであれば、「すみません、そのクオリティは出せません」と伝えるのがよいですし、これはよく行われていることです。B2Bのやり取りとかでよくあることで、「どれくらいできますか」とか、「ここまでならできます」みたいなやり取りはたくさん発生します。「どれくらいの品質を求めているか」と、「どれくらいの品質を出せるか」のすり合わせはていねいに力を入れてなされることですし、逆に、「いい感じでヨロシク」とか、「なるはやでヨロシク」みたいな発注をしていたら、相手にされないのは目に見えています。

  • 品質は相手に求められたら出せばいい

  • 品質を出せないなら無理であることを伝えればよい

というのが、ここまでの話からいえそうです。受け手が品質を求めているのか、どれくらい求めているのかを確認する必要があるため、品質がからむシーンでは必ず、「品質の出し手と受け手の意図のすり合わせ」作業が必要になります。

正しさというのは、それをやり取りする二者間で決めて定めるものであり、取引でやり取りされる価値に付与される便益のひとつが正しさであるということです。

【語学】正しい学習法という矛盾

強気に発信してもいいし、したほうがいい

この記事で主に伝えたいことは、「誰もがSNSで気兼ねすることなく自由に発信していい」という事実なのですが、これを「品質」というキーワードを用いて説明しました。

さて、ここまでの話をうけて本筋に戻るわけですが、「正義中毒」の人たちにネットで殴られることを恐れる必要がまったくないことを、すでにご納得いただけたのではないでしょうか。

正義中毒の人たちに対するリアクションは、「他を探してください」で足りるはずです。正義中毒の人たちが求める情報はここにはありませんよ、と伝えればよく、情報の出し手が何か気に病む必要はありません。これは、ジャンク品コーナーにいる人に対して、中古保証ありの商品がならぶコーナーを案内するようなものです。

SNSはつながりやおもいつきを重視する場所であり、正解を集めて整理する場所ではないことは確認しています。正解が欲しいのであれば、電話帳や会社四季報など、正解がたっぷり掲載された情報源を読んでその人自身で自己満足すればよいわけです。

「ウケを狙うために、本当は思ってもいないようなことを断定的に言うこと」はだめですが、「自分の素直な意見を歯切れよくいうこと」はおおいに推奨されます。前者は「謙虚さにかける言い方」であり、後者は、「謙虚で強気な言い方」なのですが、個人が意識すべきは当然後者のほうです。

かりそめの理解でいい

公開の場で「間違ったこと」を発信して恥をかきたくないみたいな感情もあると思いますし、その心理はごもっともですが、それでも僕は、「かりそめの理解を固めてこれを言う」というアプローチを重視しています。かりそめのテキトーな理解をしてから、それを数年単位で時間をかけて確証あるいは反証に変えていくことがおすすめです。

なんとなくのテキトーな理解から始まり、それが仮説検証などを通じて、ものすごい時間をかけて洗練されていくというのはふつうのことであり、これは人類がいままで当然のようにやってきたことです。科学の法則は数世紀ごとくらいにアップデートされるのが通常なのですが、正しさの確認・検証というのはそれくらいの時間規模で回ります。

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