物語の欠片 鶯色の芽吹篇 22
-レン-
レンがマカニとポハクを行き来する時には、何か特別な事情が無い限りは最短距離を飛ぶ。他のマカニ族も同じだと思う。こんな風に西側に寄って飛ぶことはせず、アルカン湖上空を抜ける航路が気流も安定していて適度な湿度があり、翼の状態を考えても飛びやすい。つまりこの航路は、あまりマカニ族が通らない場所だということである。地上にしても同じことだ。ポハクの商人がマカニへ商売をしにやって来るにしても、乾燥したラプラヤから早めに抜けてアグィーラの土地を歩いた方が楽なのではないだろうか。こんなにもぎりぎりまでラプラヤを北に向かって進んでからエルビエントに入る利点が、レンには思い浮かばなかった。
「族長は以前この辺りを飛んだことはあるのですか?」
目的地への半ば辺りに差し掛かった時、レンは隣を飛ぶ族長に尋ねた。
「何度か」
さすが、と族長の背中でイベリスが手を叩く。カリンとは違う意味で、イベリスは他の人があまり族長に対してとらない態度をとる。それがちっとも無礼に感じられないのは、イベリスの人柄故だろう。実際イベリスは、気を遣わなくても良いところまで気を遣うこともある。だからパキラに言わせると「浅く掘るべき所は深く掘り、深く掘るべき所を浅くしか掘らない。採掘工にあるまじき勘の悪さ」ということになるのだが、レンはそんなイベリスの不器用さが好きだ。
「反対に、族長様がこのアグィーラ王国内で、まだ飛んだことのない場所はあるのでしょうか。海向こうまでは辿り着けなかったとは伺いましたけれど」
レンの背中の上で、カリンが問う。確かに、とレンも思った。
「アグィーラ城の上空は飛んだことがない」
族長の答えにカリンはくすくすと笑う。平時に城の真上を飛ぶことは、アグィーラの法律で禁じられている。空を飛ぶのは今のところマカニ族だけだから、これはマカニ族に対してのみ有効な法律であるが、カリン曰く、きちんと法典に載っているらしい。族長は冗談を言っているような雰囲気でもなかったが、飛んだことがないのは法律で禁じられている場所だけだ、ということが本当ならば、族長は族長になる前に、相当旅をしたに違いない。戦士のリーダーであってもそれ程自由な時間があるとは思えないから、随分と若い頃から旅をしていたのだろう。ふとスグリのことが頭に浮かぶ。スグリも、もしかしたら非番の日に色々と出かけているのかも知れない。今更ながらに、マカニさえ平穏ならば良いとマカニに留まっていた自分との違いを思う。折角成人する前からマカニを出る経験もさせてもらっていたというのに、自分には何も見えてはいなかったのだ。
「レンは、城の上空を飛んだことがあるであろう?」
反対に族長から問われ、レンは口ごもりながらも頷く。レンがアグィーラへ行ったのは平時ばかりではない。特別に許可されて、直接城の中庭に着陸したことも、城の中庭から飛び立ったことも何度かあった。
「どちらが良いということはない。人の一生はそれぞれ限られた時間の中にある。何にどれだけ時間をかけるかどうかは人次第だ。戦士という一面のみを切り取っては語れぬ」
何か言葉を返さねばと考えているレンの背中で、カリンが大きく動いた。
「カリン、危ないよ」
「あ、ごめんなさい」
「何か見えたか?」
族長の口ぶりから、カリンが遠眼鏡を構えていたことが知れた。
「はい。多分、目的地の湖が」
レンの眼の端には、先程からアルカン湖が映っていたが、目的地の湖はまだ肉眼では見えない。アルカン湖は間違いなく王国で最も大きな湖だが、目的地の湖はどれほど小さいのか。それでも「湖」と呼ばれているくらいだから、アルカンの森の奥の泉や、ワイの北の泉よりはずっと大きいのだろうと思う。何故、カメリアが其処で待っているのか。その基本的な質問を、レンばかりかイベリスさえもできずにいた。「ついて行けば分かる」とパキラは言ったが、昨夜漸くカリンによって整理された筋書きの先に、何が起こるのか、レンには想像もつかないのだった。
「もう少しだ」
族長の言葉に、イベリスが疑問の声を発する。
「俺たちは、どう振る舞えば良いのですか?」
「思うがままに。基本的には私が話をしよう」
「俺、カメリアに会ったら絶対に文句を言ってしまうと思いますが」
「それはそれで良い」
族長は背中のイベリスの方を振り返って微笑んだ。イベリスも族長と目が合うように自然と身体が動いている。重心はばらばらだ。よくあれで均衡を保っていられるものだとレンは感心した。
目的の湖が肉眼で見えてくる頃には、エルビエントの山々が随分と眼前に迫っていた。少しずつ高度を下げると、地面にも砂地は減り、緑が目立つ。しかしここはまだぎりぎりラプラヤだ。
「小屋?」
カリンが呟くと、族長は「それよりは多少立派であろう」と答える。レンは思わず尋ねた。まだレンの眼には小屋らしきものは見えなかったのだ。
「族長。もしかして昨日ポハクへいらっしゃる際、こちらの上空を通っていらっしゃいましたか?」
「ああ。湖があるのは知っていたが、その付近に滞在できる場所があるかどうかは自信がなかったからな」
そう言うや否や、族長は速度を上げた。急降下と言っても良い。カリンの遠眼鏡であちらの小屋らしきものが見えるということは、マカニの物程性能が良くなくとも、遠眼鏡を使えばあちらからもこちらの姿を捉えられるということだ。あちらが何か行動を起こす前に素早く相手の懐に入ってしまおうということだろう。あっという間に肉眼でもその小屋らしきものが視界に入り、ぐんぐんと近づいてきた。確かに小屋と呼ぶには少々立派だ。言葉は悪いが、富裕層が敢えて田舎の生活を楽しむための湖畔の別荘という風情だった。小さいながらに造りは上品で洗練されている。
反射的に、小屋の横にある小さな厩舎に居る馬の数を数えた。三頭だ。しかし、小屋の中に居るのが三名という保証はない。基本は頭脳戦だと考えているものの、相手の目的が分からない以上、武力に訴えてくれる可能性が皆無とも言えなかった。
幸いなことに、レンの考えに反して何事も起こらないまま静かに着陸した。難を言えば、静か過ぎる程静かだ。しかし族長は少しも躊躇わずに歩を進め、小屋の扉の前に立った。レンは一瞬、自分が先頭に立った方が良いかと思ったが、その気配を見せただけで族長はこちらを振り向き、首を横に振った。だから族長を先頭のまま、カリンとイベリスを先に行かせて最後尾に立ち、前後の様子に集中した。
族長は、扉にしつらえられている旧式の呼び鈴……「鈴」というより、扉を叩くように使用する金属の飾りのようなもの……で、規則正しく二度扉を打った。
暫くすると、中で人の動く気配がした。相手は、ひとりだ。殺気はない。おそらく使用人だろうと思いつつも気は抜けない。
扉が薄く開き、程なく大きく開かれた。
「マカニ族御一行様ですね。主がお待ちしております」
大柄な女が恭しく一礼した。その隙のない身のこなしを見て、殺気を感じなかったのは戦意がないからではなく、手練れだからということが分かった。用心棒兼使用人なのだろうか。純粋な戦士には見えない。そういえば、ポハクの警邏所へ赴いた際、数名の女が居たように思うが、あれはもしかして事務要員ではなく、生粋の戦士だったのだろうか。マカニでは女が戦士になることは無いため、完全にその可能性を排除していた。
俺は無視かよ、というイベリスの小さな声が聞こえた。そしてそのイベリスの不満も、女は無視したまま踵を返す。ついてこい、ということだろう。最後尾に居たレンは、扉を閉める前にさっと外を確認したが、人の気配は感じられなかった。しかし、カメリアと今の女と、最低あと一名は居る筈だ。これまでにレンが直接カメリアに対峙したのはパキラの館でのみ、つまり自陣のようなものだったから、初めての敵陣での対面に警戒していた。
富裕層の別荘のようなもの、と言ってもそれ程広い家屋なわけではない。玄関からすぐのところに、応接室兼居間と思われる広い部屋があり、そこに三つの扉と、扉の無い通路がひとつ。扉の無い通路の先は、キッチンなのではないだろうかと推測される造りだった。女は奥の扉の前に立ち、「マカニ族の皆様がいらっしゃいました」と声をかける。扉の向こうから「通してちょうだい」という声。少し掠れたような、それでいて耳元で囁かれているようによく聞こえる、紛れもなくカメリアの声だった。
扉が開かれたが、案内の女は脇に避けて中には入らず、どうぞ、という風な仕草を見せた。族長が開かれた扉の中央に立ち、一礼する。
「マカニ族族長のエンジュと申します。お寛ぎのところお邪魔する非礼をお許しください」
「ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りになって」
「失礼いたします」
族長、カリン、イベリスの順に部屋へ入る。扉の向こうは少々驚く広さだった。先程の部屋よりもずっと広い。パキラの館のイベリスの部屋と同じくらいだろうか。その部屋だけで生活するのに不便のないくらいの広さと機能を備えているように見える。さすがにキッチンは備えつけられていないようだったが、洗面所などは豪奢な衝立で仕切られた奥にあるのだろう。相変わらず他の人間の気配はしないが、人が隠れる余地は沢山あった。
カメリアは肘掛けつきの布張りの椅子に腰かけていた。仕事に関する書類だろうか。書籍ではないが分厚い紙の束を読んでいたようだ。椅子の前の低いテーブルにはガラスの水差しに、レモンの浮かべられた冷たい紅茶らしきものが置かれているが、手をつけた様子はなかった。
「お好きなところへお座りになって。飲み物は何がよろしいかしら? 仮住まいだから、何でもあるわけではないけれど、お茶? お水? それともお酒かしらね」
くすくすと笑うカメリアには、エリカのような妖艶さは感じられなかったが、何を考えているか分からないような底知れぬ凄みがある。イベリスは目元がパキラに似ているが、カメリアは唇の形がパキラに似ていた。イベリスの他の姉二人はどちらかと言えば母親であるサフィニアに似ているように思うが、カメリアは明らかにパキラ似だなと、レンはどうしても外見を観察してしまう。それもこれも、内面が全く見えないからだ。
「どうぞお気遣いなく。すぐ帰ります」
そう言って族長はカメリアの正面の一人がけの椅子に腰を下ろした。必然的に、テーブルを挟んで左右に置かれている長椅子に、イベリスが一人で、反対側にレンとカリンが座る。カメリアはもたれていた背もたれから身を起こし、姿勢を正した。族長に向けて、やや挑戦的な視線になる。
「あら、ゆっくりしていっていただきたいわ。漸くお会いできましたのに」
「一度、ポハクでお会いしました」
「ええ。でもあの時は直接お話しすることは叶いませんでしたわ。それに、わたくしがマカニの族長様に本当に興味を持ちましたのは、あのことがあった後です」
族長相手でも、カメリアは全く臆することない物言いだった。イベリスのそれとは違い、カメリアの態度はどことなくレンの気に障った。
「ご希望がないのでしたら、ひとまずお茶でご容赦くださいませ。時間になりましたらお昼を用意させましょう」
そう言うと、意外なことにカメリアは自ら席を立ち壁際の棚からグラスを運んできて、水差しから人数分のグラスに茶を注いだ。その後再度壁際まで行き、同じ棚から、乾燥させた果物を使った茶菓子を盛った鉢を運んでくる。先程の大柄の女は戸口に立ったままで、扉は開いている。こうして、妙な朝の茶会が始まった。
