物語の欠片 金糸雀色の午篇 8
-レン-
ヒソップの店を出た頃からどことなく顔色の冴えなかったカリンは、パキラの館へ戻る頃には足元も覚束なくなり、イベリスに勧められるがままにそのまま寝込んでしまった。
カリンは、軽い熱射病だと思うと言い、自ら薬を飲んでベッドに潜り込んで目を閉じたので、そうするとレンも看病するまでもない。
戻っているだろうと思われたパキラもまだ戻ってきておらず、突然イベリスと二人で時間を持て余すことになった。
「マカニからポハクへ来てアグィーラへの往復。やっぱり疲れが出たのかな。」
「うーん。それもあるだろうけど、イベリスのことを色々考えちゃったんじゃないかな。」
「俺のこと?」
「君たちは似ていると言っただろう?あの食堂でのやり取り、カリンにも堪えたんじゃないかな。」
「…そうか。」
「うん。昔の自分を思い出したんだと思う。…つまりそういう意味では君の方が未だに重傷だってことだよ。カリンは随分人の好意を素直に受け入れられるようになった。」
「それはお前と…マカニのおかげだろう。」
「そうかもね。」
「悪いことしたな。」
「ほら、それがまた悪い癖なんだって。」
「安心しろ。だからって俺はカリンから遠ざかったりはしない。」
「うん。そこは良し。…実際問題、君の置かれた立場の難しさも理解できるよ。ポハクの土地柄もね。でもね…。」
「でも?」
「実はさっきのあれも、族長の受け売りなんだ。」
「あれ?」
「君があの食堂に行かなくなることが誰の為になる?ってやつ。」
「ああ。」
「闇を浄化する直前、カリンが突然マカニに来なくなったことがある。」
「あの、二つ目の夢を見た後だろう?」
「そう。」
六百年前の風の化身と大地の化身。二人が惹かれ合ったせいで、風の化身は人柱になり、マカニ族は王族から迫害されたのだ。もしそれが自分だったらと、レンも考えたことが無いわけではない。
自分がアイリスの立場だったら…。
人柱を受け入れないわけにはいかないのだろう。
その後、柱の中から大地の化身とマカニの運命を知ったら、自分は魔物になっていただろうか。
人柱になる前に、大地の化身やマカニの為に残してやれるものが果たしてあっただろうか。
思わず自分の感慨に流されそうになるのを押し留めて先を続ける。
「…あの時、僕が伝えた族長からの伝言で漸くマカニに来る気になったカリンに、族長は言ったんだ。『カリンが身を引いてマカニに来なくなって、誰が幸せになる?』って。マカニの人たちはその時既にみんなカリンが好きだった。長い間カリンが来なくてつらい思いをしていた人が沢山居た。来なくなったカリン自身だってつらかった。それが誰の為になるんだろう?そしてね、族長は更に、村人がつらい思いをして村の平穏が保たれることを良しとするならば、自分は族長失格だとも言った。」
「……。」
「ほう、エンジュがそう言ったか。」
黙ってしまったイベリスの代わりにパキラの声がして、レンは後ろを振り返る。開けたままだった居間の扉に、いつの間にかパキラが立っていた。
「すまない。立ち聞きをするつもりはなかったのだが。」
「あ…いえ。」
いつから居たのだろうか。幾らイベリスとくつろいでいたからとはいえ、戦士である自分が気配に気が付けなかったのは随分と迂闊だ。
「ずっと聞いていたわけではない。最後のレン殿の言葉だけだ。エンジュの名前が出て来たから思わず聞いてしまった。話の腰を折ることになるかもしれないと思ったが、あのまま立ち聞きするのも申し訳なく声を掛けた。」
パキラにしては珍しいばつの悪そうな表情である。きっと本心なのだろう。
「パキラ様に隠さねばならないようなことではありません。元はと言えば私たちが扉を開け放して話をしていたわけですし。ええと…どうしようかな。カリンに、パキラ様が戻られたら起こすように言われているのです。」
「カリン殿はお加減でも悪いのか?」
「軽い熱射病だと言っていました。薬を飲んで少し休めば治まるそうです。」
「そうか…いや、話は夕食のときにしよう。俺も少々疲れた。自室で休む。レン殿。すまないが、うちの馬鹿息子を頼む。どうにも浅く掘るべき所は深く掘り、深く掘るべき所を浅くしか掘らない。採掘工にあるまじき勘の悪さなのだ。」
言い得て妙な表現にレンは思わず笑ってしまう。同じく隣で苦笑しているイベリスに向かってパキラは付け加えた。
「あのな。族長としての心構えは俺もエンジュと全く同じだ。民を犠牲にして族長が楽してどうする?そして、お前は俺の息子でもあるがポハク族のひとりでもある。俺がしなければならない苦労とお前がしなければならない苦労は違うんだ。よく憶えておけ。」
そうしてパキラは、お帰りなさいともお疲れさまでしたとも声を掛ける暇なく部屋を出て行ってしまった。
見送ったレンとイベリスは顔を見合わせ、互いに溜息のような笑いのようなものを漏らした。
「あのさ、イベリスにはパキラ様のああいう態度がイベリスへの愛情だって伝わってるの?」
「ん?ああー。まあ…な。」
「ならいいや。…で、敢えてさっきの続きを言うならば、マカニやポハクと同じまでは言わないけどさ、お店の主も同じじゃないかな。自分の店を本当に大切にしてくれる客につらい思いをさせてお店が栄えても嬉しくないんだよきっと。少なくともイベリスの好きなヒソップさんはそういう人だろう?」
「……。」
「どうしてそっちは黙っちゃうのさ。…いや、分からなくもないけど。いいよ。夕食までまだ時間はあるし、ゆっくり考えなよ。僕は本でも読んでるから。」
まさかこんな場面でマカニから持ってきた本が役に立つとは思っていなかった。イベリスは長椅子のひじ掛けに脚を乗せ、天井を見詰めて考え事を始めてしまったので、レンは隣の椅子で古代アーヴェ語の本と向かい合う。
辞書は荷物になるので持ってきておらず、所々分からない単語が出てくるのを、前後の話から推測しながら少しずつ読み進めた。
そういえばこのパキラの館の書庫にはアーヴェ語の辞書があるかもしれない。そう思いながらも動き難く、その場に留まる。
族長に借りて持ってきたのはマカニ族の古い歴史の本である。マカニ族は昔、主にアルカン湖の東岸から北岸にかけて集落を作って暮らしていた。
マカニ族が翼を持つ前に騎乗していた鳥は主に二種類居たが、そのうちの一種類は魚を主食としていた為、豊かな湖の畔は居住地に適していたのだろう。
六百年前の風の化身アイリスも騎乗していた、あの大きな鳥。二十六フィートの翼開長にも驚くが体重は九十ポンド程もあったという。大鷲ですら二十ポンド程なのだから、現存する鳥とは比べ物にならないくらい大きく重い。
しかしだからこそ昔のマカニ族は、人間も翼を持てば空を飛べるかもしれないと考えたのだろう。今の常識ではきっと考えられない。
「なあ。」
随分と時間が経った頃、イベリスがふと声を上げた。
「なんだ。あまりに静かだから寝てるのかと思った。」
「いや、実際寝そうだった。」
イベリスは身を起こしてにやりと笑う。
パキラの館は、ひんやりとした分厚い石造りであるのと同時に、風の通り道が計算されいるのか、いつも心地良い風が通り抜けており、ポハクの灼熱の午後を忘れてしまう程に快適だ。
「で、何?」
「結局のところさ、俺は道化が楽なんだ。」
「…うん。それも分かる気がする。無理する必要もない。」
「昔は本気で道化一本だった。その裏側は自棄になってた。でも今は違う。少なくともお前たちや父上には…少しは真面目に接してると思う。」
「少しじゃないよ、大丈夫。」
「そっか。」
「うん。」
「でさ、俺にはそれで十分なんだ。父上が居て、お前たちが居てくれて、多分俺がずっと渇望していたものは満たされた。今の俺の道化は、俺の近くに居る人がとりあえず表面だけでもいいから、その瞬間だけでもいいから笑ってくれればいいと思ってやってる気もする。」
「なるほど。」
「それでもまだ重症かな。」
道化の欠片もなく素直な表情で首を傾げるのが可笑しくて口元が緩んだのをイベリスは見逃さず、笑うなよと唇を尖らせる。
「ごめん。僕が悪かった。折角イベリスが素直に話してくれてるのに。」
「そうだよ。滅多に無い大盤振る舞いだ。」
「…あのさ、僕は子供の頃から随分カリンを泣かせてきた。」
「何だよ唐突に。」
「好きだったくせに傷つけることも沢山言ったし、僕の無知が傷つけたことも沢山あったと思う。今でももしかしたらまだそうかもしれない。それでもさ、結局一緒に居るんだ。」
話の道筋が見えたらしく、イベリスの表情が真面目になる。
「僕だって傷つけたくて傷つけているわけじゃない。あ、これはべつにカリンに限った話ではなくて、君に対しても同じだ。自分の意図と違うところで大切な人が傷ついたら、それはその先にどうにか修復するしかないんだよ。ずっと笑っていてほしいと思う方が傲慢だ。…君の、少しでも笑ってほしいという方向性は間違ってはいないけどね。」
イベリスは暫く天井を見上げ、長い長い溜息を吐いた。そのまま膝の上で頬杖をつく。
「俺はさぁ、やっぱり色々と半端なんだよなあ。」
「それがイベリスの優しさだよ。」
「そうなのか?」
「そう。僕は優しくないんだ。もっと利己的で、僕の判断基準は自分がそれを好きか嫌いかだけだ。好きなものは大切にしたいけど、それ以外は積極的に関わらない。世界が狭いと言われたってそれでいい。」
「ああ…。なんか出逢ったばかりの頃のレンを思い出した。確かに、義務だから此処に居るけど、風の化身だという立場にそんなに興味ありませんって顔してたな。」
「だろう?」
思い出したらレンも可笑しくなって、イベリスと二人で当時の互いの台詞を揶揄い合いながらひとしきり笑った。
イベリスと仲良くなったのは偶々だ。二人で話してみたら、自分が想像した以上に楽しかった。だからといって、その先もそんな関係を積極的に探しに行くかと言ったらそうではない。
「人間も、鉱脈みたいに素直だったらいいのにな。そうしたら、何処をどう掘ればいいのか一発で分かるのに。」
先程のパキラの言を受けてか、イベリスが言う。
「風は人間より意地悪だよ。」
「なるほど、お前は風に鍛えられてそのしなやかな心を身につけたわけだ。」
「案外そうかもね。…イベリスもまた一緒に空を飛ぼう。少しはコツが掴めるかもよ。」
「そりゃあぜひ。」
「まあ、急ぐことないと思うけどね。」
「そうだよな。うん。焦りは禁物だ。」
イベリスはにひひと笑う。
心から笑えば、それだけでもぱっと陽の光の射したようないい笑顔なのに、イベリスの心の中は何と複雑なのだろうかとレンは思う。それでもイベリスのことはちっとも面倒だとは思わない自分を不思議にも思う。
だからと言ってその理由を深く追求しないのがレンだった。
レンにとって大切なのは、その理由ではなく、今自分がイベリスのことを大切に思っていることと、イベリスと過ごしているこの時間だった。
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