物語の欠片 鶯色の芽吹篇 7
-カリン-
爽やかな目覚めだった。
レンの言うとおり夜通し考えることをしなくて良かった、とカリンは思う。
おそらく僅かに先にレンが目覚めた。そしてそのレンがこちらを向いた動きで、カリンは目覚めたのだ。だから目を開けるなりレンと目が合った。
「おはよう」と言い合い、軽く口づけを交わす。時間を確認したいのだろう。レンが身を起こして時計の置いてある方を見た。外はだいぶ明るい。
「七時か……いつもよりは遅いけれど、まあまあかな」
「イベリスが起こしに来ないということは大丈夫なのではない?」
朝食の約束は八時だった。イベリスは、ぎりぎりまで寝ているかも知れない。身を起こしたついでにレンはそのまま起き上がり、水差しから二人分のグラスに水を注いで片方をカリンに差し出した。礼を言って受け取り、口に含むと、微かに薬草の味がする。おそらく薄荷だろう。薄荷水の通って行ったところから細胞が目を醒ましていくような感覚がした。
「カリンはちゃんと眠った?」
「ええ、勿論。ありがとう。レンのおかげですっきりと目覚めた」
身支度を終えて食堂へ降りてゆくと、まだ誰も来ていなかったが、給仕係が二名、食卓の準備をしていた。カリンとレンは何度もこの館に泊まっているので、使用人たちともすでに顔見知りだ。来客への畏まった挨拶ではなく、親愛の念の感じられる挨拶を交わすと、先に飲み物だけでも準備しようかと問われたが、先程部屋で水を飲んだので大丈夫だと伝えて断った。
庭に面した大きなガラスの扉は開け放たれており、早朝の、ポハクの太陽に灼かれていない気持ちの良い風が丁度よく入り込んでいる。その扉から庭に出て植物たちに挨拶をしていると、レンも外に出てきた。中庭を挟んで反対側は応接室だが、そこには今日はまだ誰も居ない。
「よくできているよね。何処から見ても、いつもパキラ様が座っていらっしゃる席はよく見えないようになっているんだ。反対側からこちらを見てもそうなのじゃないかな。あるいはパキラ様がそうなるよう気をつけていらっしゃるのかな。それにしても、きちんと死角ができるように造られている」
同じ庭に居ても考えていることが違うのが面白い。そう告げると、レンも可笑しそうに笑った。
平和な朝だ。
族長とパキラはほぼ同時に、八時ぴったりに食堂に姿を現した。食堂の扉が開かれていなければ、それまで二人で別の場所で話をしていたのではないかと思っただろうが、実際はそれぞれ反対側からやってきて扉の前で鉢合わせしたのが目に入った。
カリンとレンも庭から室内へと戻り、二人に挨拶をする。イベリスは少し遅れて駆け足で到着した。
「相変わらず朝から騒々しいな」
パキラに言われ、照れたように笑いながらも跳ねるように元気に「おはようございます」と挨拶をする。それからカリンの傍へやってきて「どうせ俺が最後だろうから、厨房に声をかけてきたんだ」と遅れた言い訳するように囁いた。
イベリスのその行動はきっと毎朝の習慣なのだろう。そのおかげか、いつも給仕係たちは特に近くに控えているわけでもないのに、時間を見計らったかのように朝食を運んでくる。
薄く焼かれた香ばしいパンに、豆と野菜を煮込んだものと、何処から運んでくるのか瑞々しい果物たちはいつもの通りだったが、今日はその他のパンの種類がいつもより多かった。何度も訪れて食べ慣れたポハクの朝食だったが、パキラの指示なのか料理人の気遣いなのか、こうやって毎回少し工夫をしてくれることを有り難く感じた。
食卓につき、天候の話やそれぞれよく眠れたかなど当たり障りのない会話が少し続いた後、パキラが徐に族長の方を向いて切り出した。
「今日にでも、あそこから骨を運び出そうと思っている」
「随分性急だな。その必要がある……ということだな」
「まあそういうことだ。勘違いしないで欲しいのだが、何も今日中にアグィーラへ運ぼうと思っているわけではない。早くあの場所から骨を取り除いてしまいたいのだ」
パキラは族長の方を向いたまま、器用にポハク独特の薄いパンに豆と野菜を包みながら言う。カリンは一瞬その指先に見惚れた。
確かにその速さでの決断が必要ならば、族長が此処に居なければできない。レンがマカニに戻って族長の許可を得ている時間は無かっただろう。パキラはマカニ族を頼ることに躊躇いを見せてはいるが、今の所パキラの考えていたとおりにことが運んでいるようだ。
「勘違いはしていないが、どうせ運び出すならば、すぐにアグィーラへ運んだ方が良いであろう。あれをこの館に保管しておくつもりか?」
族長が言うとパキラはくつくつと笑い、イベリスがぞっとしたような表情を見せる。
「使っていない部屋は沢山あるからな。暫く眺めてみるのも悪くない……が、まあ、アグィーラで早めに引き取ってくれるならばその方が有難い」
しかし、とパキラが言いかけた時、使用人がカエデの到着を告げに来た。カエデは食事が終わるまで別室で待っていると言ったらしいが、パキラはすぐにこちらへ案内するようにと指示した。使用人が一礼して部屋を出てゆくと、パキラは族長に向かって肩を竦めて見せた。
「無理はしてくれるな、と言おうと思ったのだが、カエデ殿が到着してしまったようだな。あまりにことが早く進みすぎて、俺が意図しているのかお前のいいように動いているのか分からなくなる」
「向かう方向が同じならばどちらでも良かろう」
「いいわけがないだろう」
パキラが眉間に皺を寄せると、族長はふ、と笑った。
使用人に案内されて部屋に入ってきたカエデは、早すぎる到着を詫びたが、パキラはいつもより朝食が遅かっただけだとそれを否定した。
「私が頼まれもしないのに夜中に行動したのだ」
と族長が補足するとパキラは苦笑を浮かべる。カリンならば困った表情を浮かべてしまうところだが、カエデは穏やかな笑顔で二人の気遣いに礼を言った。
「カエデ殿は、朝食は? 朝が早かったのではないか?」
「いえ、私はいつも朝が早いのです。朝食は摂って参りました。もしよろしければ飲み物だけいただければ幸いです」
「勿論だ。お嫌でなければイベリスの隣に座ってくれ」
パキラとイベリスが隣り合って座り、向かい側にマカニ族の三人が座っていたので、イベリスの隣が空いていた。イベリスは、気が利かずにすみません、と言いながら、端に移ろうとしたのか腰を浮かせかけたのだが、パキラとイベリスの間にカエデが入るというのもどうかと思い直したのだろう。再び腰を下ろして隣の席の埃を払うような仕草をした。
「作戦はまだ定まっていないのだ」
カエデが飲み物に口をつけたのを確認してから、パキラが誰にともなく呟くように言った。
「作戦、ですか」
相槌を打ったのはイベリスだ。
「そう。作戦だ。まだ、手駒が足りない」
言葉とは裏腹に、パキラの手は再び迷いなく器用にパンに好みの具を乗せてゆく。
「お前の御息女たちはどうしている」
族長が尋ねると、パキラは何が可笑しいのか、肩を揺らして笑った。
「一番上のアベリアは、変わりないよ。ワイに医院ができるという騒ぎがあった時も淡々と運営を続けていた。診療所はそこそこ安定しているらしい。夫婦仲も悪くない……こんな情報でいいのか?」
「ああ」
「二番目のカメリアは相変わらず手広く商売をやっていて、今はアグィーラに行っているらしい」
と、ここでパキラは意味深な視線を族長に送った。族長は表情を変えない。パキラは小さくため息を吐いて続けた。
「が、アグィーラには入っていないことが確認されている。いや、アグィーラに入ったことが確認されていない、と言う方が正確かな」
「見張らせているのか?」
「散々好き勝手やらせていたのだが、いい加減相手をするのも面倒になってな。四六時中張り付いているわけではないが、ポハクを出る時と、各地への出入りだけ見張らせている」
「アグィーラに行くと言ってポハクを出て、アグィーラに到着していない」
「そう。何処かで道草を食っているのか、そもそもアグィーラではない場所に向かったのか。ただ、他の地方の入り口に張り込ませている戦士からも報告は無い」
「カメリア殿に身の危険は?」
「さて。正直それも分からん。あれ自身が何かを企んでいるのか、何かに巻き込まれているのか」
でもなあ、とパキラは天井を見上げた。
「簡単に何かに巻き込まれるような人間ではない」
まるで他人のようにカメリアのことを語るパキラを見て、カリンは胸の奥がきりりと小さく痛むのを感じた。
「道草を食うような場所はあるのか?」
「無いとは言えない。ポハクとアグィーラの間には、町とは呼べない小さな集落が幾つかある。ラプラヤ内の集落は一応ポハクの配下だ。何処まで統治が効いているかは甚だ不明だが、時折戦士に巡回させているし、法令の交付などは届くようにしてある。何か問題があれば裁くのはポハクの役所であり、俺だ。俺も、族長補佐の時期と族長に就任したばかりの時期には一通り見て回ったよ。いずれもポハクに反発しているわけではなく、大きな町を嫌って自分たちの秩序の中で暮らしたい、あるいは貧しくて町の中に土地を持てない人々が集まっているように見えた。当時はそれほど悪の巣窟になりそうな雰囲気は無かったのだがな」
ちょっと放置しすぎたかな、と最後は呟くように言ってから、パキラは気を取り直したようにはっきりとした発声で続けた。
「三女のカンナも変わらず、これは何もしていない。薬師の夫もアベリアの診療所のおこぼれに預かっているという体だ。ああ、そうだ。不思議なことに三人とも夫婦仲は良いようだな。自分たちの親を反面教師にしたか……」
パキラはにやりと笑って話を終え、族長の反応を待った。
しかし、族長が口を開く前に、館の入り口の方が騒がしくなったかと思うと、数名の戦士たちが部屋の入り口で片膝を突いて頭を垂れた。
「お食事中、失礼致します。急ぎ、ご報告したいことが」
「構わん。入れ」
パキラは穏やかに答える。
はっと歯切れよく返事をした戦士が一名、パキラの耳元で何か囁いたが、パキラは、此処にいる皆に聞こえるように話すよう指示した。戦士は再び歯切れよく返事をすると、目線を何処に持って行ったものやら少し迷った後、パキラと族長の間くらいを見詰めながら報告した。
「駝鳥の骨の保管されている部屋に、何者かが侵入しました」
え、と声を出したのはレンとイベリスだった。しかしその場にいた殆どの者が驚いていただろう。カリンも驚いたが、それより先を聞きたくて声を出す暇がなかったのだ。
カリンたちがあの坑道を去った後、明け方までそれ程時間は無かった。が、去り際に見張の戦士たちに「くれぐれも用心されるように」と声をかけた族長を思い出す。
平和だった朝の空気が一変したが、食堂へ流れる風はあくまでも穏やかだった。
