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Rainbow➃【note創作大賞2024/オールカテゴリ部門】

第4章 旋風
 「汝の道を進め、そして人々をして語るにまかせよ」ダンテの言葉を借りていうならば、朋樹ではなく、エリーシャはそういう生き方を人生の指針として、身寄りのないアメリカの地に足を踏み入れた。
 朋樹、十八の春だった。

 悪い知らせは、前触れもなく突然訪れた。高校二年の夏。バレエ合宿中のことだった。午前の練習をしていると、突然コーチに呼ばれた。
「朋樹、すぐに来てくれ!」
 いつになく真剣なコーチの声に、朋樹は事の重大さを察した。
 ――家族に何かあったのかもしれない。朋樹は、急いでリュックに荷物を入れ練習室を後にした。
 宿舎に着くとすぐに、会議室のようなところに通された。今回の合宿の責任者をしているコーチから、最後まで気を保って聞いてほしいと、先に告げられた。朋樹は、唾を飲み「はい……」とだけ答えた。
「実は先ほど、君の親戚からこちらに連絡があったんだ。……今朝、君のご両親が車の事故で亡くなったそうだ」コーチは、肩を落とし首を項垂れた。
「嘘……ですよね? コーチ、いまの話は全部嘘ですよね?」
「いや、すまないが本当なんだ」
 朋樹は、その場で膝から崩れ落ちた。「どうして?……」
 胸をえぐられた思いが、朋樹を襲った。一刻も早く両親の元へ行かなければ。――その思いが震える朋樹の足を支え、走らせていた。気付いた時には、朋樹は会議室を飛び出していた。

 沖縄の自宅に着いたときには、近くに住む母方の親戚家族が玄関先で朋樹の帰りを待っていた。彼らは朋樹に何か話しかけていたが、朋樹の耳には届いていなかった。
 玄関のドアを開けると、風に巻き上げられた埃たちが夕陽に照らされキラキラと宙を舞う。靴箱上の台には、朋樹の優勝トロフィーが置かれている。その手前には、いくつもの家族写真が飾られていた。どの写真も朋樹を中心にして両側に立つ両親の笑顔がどれも眩しく輝いていた。――朋樹はそのうちの一つを手に取り、付いていた埃を払った。今年最初の全国コンクールで優勝したときの写真だった。バレエ育成枠で資金面をサポートされている朋樹は、年間を通して全国の大小さまざまなコンクールに出場することを許されていた。沖縄からだと二人合わせての渡航費が高いから、全国コンクールには来なくていい。と、朋樹はよく両親に言うのだが、両親は決まって「朋樹のダンスを観ると、元気が湧いてくるんだよ」そう言い、年に一、二回、全国コンクールを観に来ていた。まさか、それが最後の全国コンクールになろうとは、だれが予期できただろう。
 家の中に入ると、今朝方までの生活の痕跡を残したままひっそりと静まり返っていた。ソファーの背もたれに掛けられた万年使いの北欧柄ブランケット。テーブル上には二つのコーヒーカップ。きっとまた夜中に二人で録画した朋樹のダンスを観ていたのだろう。本当にバカが付くほど朋樹のことに精一杯尽くす両親だった。
「朋樹くん、一先ず病院に行って姉さんたちに顔を見せるといい。さ、病院まで送るよ」朋樹は、叔父に連れられるまま車に乗り病院に向かった。その車中で、叔父は警察から聞いた事故の様子を話し始めた。
 軽自動車と5トントラックの衝突事故だったらしい。朋樹の両親は、軽自動車に乗っていた。事故を起こしたのは5トントラックの運転手だった。事故当時、彼は居眠り運転をしてしまった。それで赤信号を見落とし、進行中の朋樹の両親が乗る車に衝突した。事故を起こしたトラック運転手は、首の鞭打ち程度ですんだ。だが、朋樹の両親は、車の損傷が激しく救助も難航したという。叔父は自身も以前にトラックの運転手をしていたことから、「運転手は、おそらく労働基準を超過した勤務時間だったのではないか。かわいそうに。……」と言った。その後すぐ、自分の失言に気づき朋樹に謝った。
「いや、もちろん事故を起こした運転手が全面的に悪い。姉さんたちを殺したんだから」叔父は、話せば話すほど分が悪くなる会話に冷や汗をかいて黙り込んでしまった。罰が悪い叔父は、カーラジオのボリュームを上げた。カーラジオから流れる天気予報は、三日後に大型で強い台風が沖縄本島に襲来すると告げていた。夕闇が窓の外を染めてゆく。走る車の先には、おぼろ月が掛かっていた。まるで「白鳥の湖」を踊るときのセットのようだと、朋樹はぼうっとする頭で思った。
 病院の霊安室に通された朋樹は、横たわる二人の遺体の顔を確かめた。――顔に擦り傷やあざがあり、生前の両親とは違うような気がしたけれど、やはり、二人の顔は朋樹の両親だった。朋樹は母の顔の輪郭や眉の形、唇や擦り傷痕を指で撫でた。同じように父の方も。――その手、その指先の動きがまるでダンスの一部かのように、しなやかでいて柔らかだった。
 
 お通夜や葬儀は、段取り全てを叔父が引き受けて滞りなく執り行われた。東京から父方の親戚も来て、まだ未成年の朋樹の養育を申し出たが母方の叔父がそれを断った。朋樹自身は、……もうどうでもよかった。ただ、手に遺る両親の面影を抱きしめて、遺影を見つめるだけだった。

 葬儀の次の日から三日間。大型で強い台風が沖縄を襲った。外を歩くことさえできないほど強い風は、どこかのトタン屋根をひらりと飛ばしていた。台風一過、甚大な被害があちこちで起きていた。叔父が朋樹の様子を見るために家に行くと、そこには誰も居なかった。
 ――玄関先に飾られていた家族写真が一つ……朋樹と一緒に消えていた。

***

 七月中旬、世界中を駆け巡るニュースがあった。
 活動を休止していた世界的に有名なドラァグクイーンの女王、エリーシャが沖縄本島よりさらに南に位置する石垣島で、三年ぶりのドラァグクイーンショーを開催するというものだ。しかも、世界各国で活動しているエリーシャの仲間たちが、ショーを盛り上げるために集まるという。その数は未知数だ。ある新聞社によると、仲間たちは推定で百名を軽く超えるとされている。エリーシャとその仲間、ドラァグクイーンのファンやショーのスタッフを合わせると、約三万から四万人の来島者数が見込まれる。これは石垣島にとって前例のない事態であり、島の行政関係団体や宿泊施設は突然忙しくなり始めた。なぜなら、推定される来島者数は、日本最大のミュージックフェス、フジロックの一日の入場者数に匹敵するからだ。人口約五万人の石垣島は、今や世界中の注目の的になっていた。
 このニュースは、真里の耳にも届いていた。どのようなショーになるのか興味をそそられるものの、劇団やダンス教室も休んでいる現在の自分の精神状態では、どんなに素晴らしいものを見ても心が踊ることはないだろう。真里は消極的な感情に自分の意思を落とし込んでいた。
 そんなある日の夜、琴美が「どうしても聞いてほしい話がある」と言って真里の家に来た。
 琴美と話すのは何となく気まずい。その原因が自分にあるからだ。真里は突然の琴美の訪問に困惑した。しかし、琴美の家から真里の家までは、決して近くはない。真里は、学校では琴美に対して冷たい態度をとってしまっていた。本当はもっとちゃんと話せるはずなのに。――そんな思いが真里を苦しめていた。
 真里と琴美は、家の近くの白保海岸に向かって歩いた。途中、真里はついに琴美から決断を迫られるのではないかと身構えた。真里は劇団の練習を二ヶ月も休んでおり、そろそろ「劇団を続けるのは無理だ」と琴美に告げるべきかと思っていた。しかし、琴美からの話は意外にもドラァグクイーンショーのことだった。琴美はなぜか様々な情報を持っていた。
 「ねえ、ニュース見た?石垣島に世界的スター、ドラァグクイーンのエリーシャが来るんだって!しかも、ショーのバックダンサーを地元のダンサーからオーディションで選ぶんだって。一週間の選考合宿らしいよ。あ、これ秘密ね。まだあまり公にはされていないから」琴美は、口元に人差し指を当てて真里に笑顔を向けた。
 真里は琴美の笑顔に心を軽くした。いつもの琴美だ。それに安堵しつつも、真里はつい冷たい口調で「話したいのは、それだけ?」と言ってしまった。しかし、琴美が真里の言葉を遮ったときの声のトーンはいつもと違っていた。海岸には波の音が響いていたが、真里には琴美の声しか聞こえなかった。
 「あのね、私もそのオーディションを受けようと思ってるの。受けてみて、オーディションに落ちたら、劇団を辞める!」
「ちょっと待って!琴美は劇団で主に役を演じてきて、ダンスはみんなで踊るときくらいしか経験がないでしょ?無茶だよ、オーディションを受けるなんて」
「私はそう思わない!」琴美はきっぱりと真里に言い返した。真里は琴美の言葉に圧倒された。琴美の決意が半端なものではなく、本気であることを感じた。真里の目を真っ直ぐ見つめながら、琴美は続けた。
「真里はどうなの?いつまで自分の気持ちに嘘をつき続けるつもり?いつまで自分を卑下しているの?真里だって、踊りたいんでしょ。本当は劇団にも戻りたいんじゃないの?」
「琴美にはわからないよ。私の気持ちなんて。……」
「何?わかってほしかったの?そんなこと、言われなきゃわからないよ。私は真里じゃないもん。自分の気持ちを相手に伝えたいなら、ちゃんと言葉で言ってよ。いきなり来なくなったり、話し合おうとしても拒否するし……わからないよ。ちゃんと言ってくれなきゃ、わからない!」琴美は全力の言葉を真里に投げた。真里は言葉に詰まった。先ほどの琴美への言葉は、自分に都合のいいことばかり言っているだけだったと気づかされた。「わかってほしい……?」いや、そうではなく、「私自身が私の気持ちを理解していない」――真里は、自分が自分の本当の気持ちを曖昧にして、決断や覚悟から逃げてきたことに今気づいた。いつからか、自分の感情をさらけ出すことを恐れるようになっていた。かつては劇団で思いのままに自分を表現していたが、最近は周囲を気にして言いたいことも言えなくなっていた。いや、周囲のせいにしてはいけない。自分の内面の弱さを認めることが怖くて、目をそらしていただけだった。白保海岸の波音が、まるで真里の心を洗い流すかのように耳元で聞こえてきた。真里は堤防から暗い海を見渡しながら、琴美を見ずに話した。
 「私……まだ自分の気持ちがよくわからないの。変だよね。自分のことなのに、自分が一番わからないなんて」真里の声は震えていた。目には涙があふれていた。琴美は、真里のそばに立ち、その体を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ。真里は今、本当の自分を見つけようとしているんだから。真里ならきっと見つけられる。だって、真里は私の憧れなんだもの」琴美は、真里の顔をのぞき込んで笑った。以前なら、私が琴美にそうしていたはずなのに、いつの間にか琴美が自分よりも成長していたことに、真里は気づいた。
「ほら、泣き虫真里ちゃん。帰る時間だよ」
「もう、何よ。子供扱いしないで。琴美には、そうされたくなかったのに」真里の顔にも笑顔がこぼれた。
「はい、これ。オーディションの申込用紙。真里が気持ちを整理できたら、返事を聞かせてね」琴美は、真里に申込書を渡すと、来た道を戻って行った。
「ありがとう!」真里が琴美の背中に向かってそう叫ぶと、琴美は振り向いて「私、負けないからね!もし真里がオーディションを受けることになっても、私が勝つから!」と言いながら、拳を高く掲げて笑顔を向け、帰っていった。

 耳を澄ませば、白保村の夏の風物詩、獅子舞の三線の音が風に乗って聞こえてくる。今はまだ練習段階で、1ヶ月後の旧盆での本番に向けて、夜遅くまで三線や太鼓の音が鳴り響く。これを聞くと、真里はいよいよ夏が来たと感じる。夜空を仰ぎ見ると、そこには満天の星がくっきりと輝いていた。

***

 石垣島南ぬ島空港には、百を超える報道関係者とファンたちが到着ロビーに殺到していた。突然の活動休止から三年間、エリーシャの復活を誰もが待ち望んでいたことが分かる。
 颯爽とロビーから出て来たエリーシャは、一際目を惹く赤のスキニーパンツに水色のシャツ。その上からベージュのジャケットを着ていた。シュッと引き締まった細い体型をしている。髪は黒く短髪で、両耳にはダイヤのピアスが眩く輝いている。鼻筋のしっかりと通った端正な顔。長い睫毛の下からは、ブルーのアイラインが引かれ、彼女の知的で魅惑的な存在感が唯一無二であることを証明していた。ロビーの出口に至る通路も、彼女が歩くとまるでファッションショーのランウェイのように変わり、私たち観客は彼女の歩みを見守るかのような錯覚に陥った。彼女の持つ独特のオーラには、誰もが引き込まれる。
 千夏とその夫、史は、エリーシャを迎えるために到着ロビーの隅に追いやられながらも待っていた。
 エリーシャが報道陣に囲まれながら歩いてくるのを見た史は、千夏の肩を小突きながら言った。
「おいおい、朋樹さん、こっそり来るんじゃなかったのか? 軽自動車で迎えに来ちゃったけど、いいの?」
「いいんじゃない? そんな小さな事でごたごた言わないわよ。スターなんだし!」千夏のあっけらかんとした返事に、史は首を捻りながら不安になった。
 エリーシャは、二人を見つけるとすぐさま方向転換して、千夏と史の前に立った。エリーシャの身長は、百八十センチメートルぐらいだ。史はエリーシャを見上げて「朋樹さん、どうもお久しぶりです。史です」と後頭部に片手を当てて軽くお辞儀した。
「久しぶりね。店は繁盛してるの?」エリーシャの後ろには報道陣がたくさん詰めかけていたが、彼女は構うことなく話しを続けた。
「まあ、ぼちぼち。……」と、史はまた後頭部に片手を当てた。
「いいから、行きましょうか。細かな話はあとでしましょ!」エリーシャは、そう言うと二人の腕と腕の間に割り込んで歩き始めた。
「コロナでも潰れなかっただけマシよ。世の中甘くないからね。で? あなたたちの車は、どれなの?」空港玄関を出て、エリーシャは二人に聞いた。
 史は恐る恐る、ココア色の軽自動車を指差した。「あれなんですけど。……」エリーシャは、史の指差す先を見て一言。
「やだ、カワイイ!」と史の背中を力強く叩いたあと、千夏にウィンクを送った。
「ほら、だから言ったでしょ! スターは配車一つでごたごた文句は言わないの!」そう言うと、千夏も史の背中を力強く叩いた。
 史は痛痒い背中を掻こうと手を後ろに伸ばすが、ちょうど届かないところに二人に叩かれた手の感触が残っていた。千夏とエリーシャは、笑い合いながら先を歩いた。
 「史さん、三年見ない間にすっかり中太りしたわね。千夏、ちゃんと栄養管理できてるの? 栄養士の資格、持ってるんでしょ?」車の場所へ歩きながら、千夏とエリーシャは話しを続けた。
「持ってるのと使うのとは、また別よ。真里があまり食べない分、彼が喜んで食べてくれるから。食べてるところが可愛くて、つい」千夏はエリーシャの荷物を後部座席に置いた。
「才能も、持っていても使わないんじゃ、宝の持ち腐れね」そう言って、エリーシャは助手席へと乗り込んだ。「もう、その話は止めましょう」と千夏は運転手席に座った。後部座席には、荷物と一緒に、背中の筋肉が攣って身動きの取れない史が所狭しと座っている。
 史は、今度こそダイエットをして二人を見返してやる!と心の中で思うばかりであった。
 三人を乗せた車は、石垣島の東に広がる広大な海を左手に風を切って走り始めた。

***

 真里が子ども劇団の練習に顔を出すのは二カ月ぶりのことだった。練習をする体育館の玄関を恐る恐る入ると、玄関奥の靴箱には、四、五人の靴が置かれていた。真里は顔を上げて、体育館内を見た。すると、琴美が柔軟体操を止めて真里のところまで走ってきた。
「真里! 来てくれたの? 練習、やって行く?」琴美の喜ぶ声とは裏腹に、その後ろにいる団員たちの冷ややかな表情が真里の目に映った。真里は自分の心臓の鼓動が耳元で鳴っているかのような感覚に驚いた。本当は練習に参加したいけれど、体が拒否反応を示している。心と体が分離しているような感覚だった。真里は早くこの場から立ち去りたいと思い始めていた。
「いや、今日は前にもらったオーディションの申込書を預けに来ただけだよ」真里は琴美に紙を渡して、背を向けて帰ろうとした。そのとき、背後から男性の声が彼女を呼び止めた。
「真里先輩! 先輩はこの状態を見ても、まだ自分のことしか考えていないんですか?」それはダンスリーダーの宏太だった。真里が役者チームに異動になり、宏太が後任としてリーダーを務めることになっていた。
「ちょっと、宏太! 言い過ぎだよ。やめて!」琴美が宏太をなだめようとするも、彼はさらに真里に向かって言葉を投げかけた。
「ちょっと、宏太!言い過ぎだよ。止めて! 
「真里先輩、本当にどうしちゃったんですか? 俺が尊敬していた真里さんは、どんな時でも自分の意見をはっきりと言う人でした。だから、真里さんから副リーダーやリーダーを任された時も、真里さんがそう言うならって、真里さんが俺を頼って任せたくれたんだ。って自信が持てたのに。でも今の真里さんは、何からも逃げているだけじゃないですか!」
「宏太! もうやめて! 真里は……」琴美が言いかけたところで、真里は黙って玄関から走り出た。
「真里!」琴美が叫んでも、真里は振り向くことなく走り去った。
「宏太、これ見て」琴美は、真里が持ってきたオーディション申込用紙を宏太に渡した。
「これ、読んでみて」琴美の言葉に従い、宏太は読み上げた。
「あなたにとって、ダンスとは何ですか? ―― 私にとってダンスとは、大切な友達や仲間を笑顔にするための魔法の時間です」
読み終えると、宏太は琴美を見た。
「そう、いま真里は前進してる。必死にもがきながらね。ねえ、みんな集まって聞いてほしいことがあるの」琴美は、まだ疎らにしか集まっていない劇団員を集めミーティングを始めた。 
「みんな、いい? ニュースでも話題になっているドラァグクイーンショーの主催者、エリーシャから私たち劇団に正式なサポートの依頼が来たの」琴美は劇団員たちの顔を一瞥しながら伝えた。劇団員からは喜びと不安が入り混じった声が上がった。しかし、琴美は話を続けた。
「不安に思う気持ちはわかる。今、こんな状態だもの。だから、私から提案があるの。この劇団を一度解散します!」
「え!」という驚きの声が体育館中に響き渡った。
「ちょっと待ってください! ドラァグクイーンショーの主催者から正式な依頼が来てるんですよね?  解散したら、依頼に応えられないじゃないですか。琴美先輩、それって矛盾してませんか?」宏太が代表して質問した。
「解散して、一から作り直すの。これからドラァグクイーンショーのダンサーと役者オーディションの申込書を配るね。劇団を続けたい人は、これに参加して。真里も参加する意思を示してくれた。もちろん、私も参加する!」琴美は、真里の申込用紙を大切に握りしめた。
 以前に、琴美のケイタイにエリーシャからメールが届いていた。琴美が千夏と海の見えるカフェで話した後、エリーシャからいくつかの指示が送られてきた。その一つが「劇団の解散」だった。しかも、「真里が申込書を持ってきたら劇団を解散すること」という条件だった。エリーシャは一体何を考えているのだろうか。琴美は不安な気持ちで劇団員たちを見回した。
「分かりました。それなら、俺は書きます。参加します!」宏太が申込用紙とペンを手に取り、書き始めた。それを見て、他の劇団員も動き始めた。遅れて来た劇団員たちは何事かと琴美に尋ねたが、宏太が説明を引き受けた。真里の不在以来、宏太は以前の真里のように率先して動いてくれていた。
 琴美の嫌いな言葉は「派閥」だ。それぞれに大した差のない意志を掲げ、どんぐりの背比べをすることに何の利点があるのかさっぱり理解できない。それより、皆の意志を一つにして力を合わせれば、大きな力になると信じていた。だから、派閥にはあまり関わりたくなかった。でもリーダーとして、必要最低限のことはしていた。今回の「解散」で派閥に亀裂が入ることを琴美は密かに望んでいた。
 「ちょっと、琴美先輩。どういうことですか!」派閥を作った一人が琴美に詰め寄った。琴美は内心やれやれと思いつつ、表情には出さずに応えた。
「何? 宏太が説明した通りよ」
「解散って、リーダーの一存で決めていいわけないでしょう! みんなの合意がないまま勝手に決めないで。本当に迷惑です!」百合という女性だった。真里が来なくなってすぐに派閥を作ったのは彼女だった。琴美は百合の言葉を聞き流し、ここぞという時に切り札を出した。
「わかった。そんなに言うなら、覚悟を見せて。劇団は今、解散したの。再結成はあなたの自由。劇団は誰のものでもないのだから。あなたが一から作り出せばいいのよ。どうぞ」百合は戸惑った。予想外の返答だったからだ。琴美の行動に今まで難癖をつけてきたが、これは予想外だった。突然、劇団再結成の役を任され、自分の度量を琴美に見定められた。不利なのは明らかだった。百合は黙って琴美の前を去った。そして、派閥仲間と相談して、申込書を琴美に提出した。
 琴美は百合の申込書に書かれた「オーディションへの意気込みは?」の箇所を見た。「実力で劇団のリーダーの座を奪う」と記されていた。それは、琴美への挑戦状だった。琴美は深く息を吐き出した。さあ、舞台は整った。

 ジメジメとした夏の熱気が体育館内にこもる中、琴美は一人、涼しげな顔をしていた。

***

 青い空から降り注ぐ陽光が、無機質なクリーム色の床を明るく照らしている。消毒液の匂いが染み付いた壁と壁の間を、白衣を着た人々が行き交っていた。
 ここは、カリフォルニア州ロサンゼルスのメディカルセンター。人の出入りが制限されている入院患者病棟は閑散としており、ひんやりとした空気が漂っている。個室にいるエリーシャは、ドクターから入念に説明を受けていた。彼女は、一つ一つの注意事項にいくつかの質問をしてドクターの説明を十分に理解しようと努めていた。すべての説明を終えた後、ドクターはエリーシャにもう一度意思の確認を行った。
「本当にこれでいいんだね。君の『覚悟』は充分に理解しているつもりだが、私個人としては君の治療にまだ可能性を見出している。もっと時間をかけて治療に専念すれば、君の命をさらに延ばすことができると信じているよ」と言って、ドクターはエリーシャに花束を渡した。
「わあ、ありがとう。素敵なプレゼントね。あなたたちは充分に私に尽くしてくれたわ。だから、私はここまで回復できた。あのどん底の状態から」花束の香りを嗅ぎながらエリーシャは言った。
「エリーシャ、どうして急に日本行きを決めたんだい?」
「ねえ、可憐な花はなぜ美しいと思う?」エリーシャは花束をベッドに置き、ドクターに顔を向けた。思いがけない質問にドクターはしばらく考えた後、答えた。
「可憐な華が美しい理由? それは、蜂などの仲介者を使って繁殖をするために鮮やかな色を好んで纏っているからだろうか」
「まともな答えで、つまんないわね」困り顔のドクターを見て、エリーシャは笑った。
「私にとって、可憐な花が美しいのは、その美しさの儚さを知っているからよ。いずれ枯れて誰も見向きもしなくなることを知っているからこそ、美しさを保てるうちに精一杯、可憐に華を咲かせるの。日本でのショーが終わったら、またここに戻ってくるわよ。だって、私はこの病院が嫌いじゃないもの」とウィンクでドクターに別れを告げた。

 エリーシャは、看護士や医師に見送られながら病院の出口を抜け、タクシーに乗り込んだ。タクシーはロサンゼルス空港へ向かっている。車内でエリーシャはスマートフォンを見た。「千夏」と着信履歴に数件表示されていた。
 千夏からの着信は三年ぶりだった。相変わらずの天然で、日本とアメリカの時差がどこでも十二時間だと思っているらしい。千夏からの着信を受けたのは、ロサンゼルスでは深夜二時だった。実際の時差は十七時間だ。しかし、その天然さが彼女の魅力だとエリーシャは幼少期からの付き合いで十分に理解していた。
 「頼みたいことがある」と千夏から連絡を受けたとき、エリーシャはすぐに日本行きを決めた。これが千夏を助けられる最後の機会だと悟ったからだ。千夏が喜ぶ姿を思うと、エリーシャの心はいつも晴れやかになり、涼しい風が吹き抜ける。最高の贈り物を用意し、彼女の期待に応えようと、エリーシャは日本の南の島、石垣島でのドラァグクイーンショーを企画した。すぐにマネージャーに連絡を取り、日程と場所、スタッフのスケジュールを確保した。エリーシャはスマートフォンを再度確認した。以前からメッセージの数が増え続けている。そこにはドラァグクイーンの仲間たちの名前が並んでいた。みんながショーへの協力を申し出てくれた。彼女たちにも何か贈り物をしたいと思うが、今はまだ何も思い浮かばない。早く彼女たちに再会したいと、エリーシャは携帯ケースの縁を細く長い指でなでた。

 夕陽を背景に飛行機が滑走路へ降下してきた。その後ろには夕闇が迫っている。――すべてに明かりを灯すことは難しい。しかし、せめて「自分の愛が届くところすべて」だけでも明かりを灯したい。エリーシャは夕闇にかかる月を見つめ、それを目に焼き付けた。
 タクシーが空港に到着すると、ロサンゼルスの空気を胸いっぱいに吸い込んで、エリーシャは空港のエントランスへと歩き出した。

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門


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