『シン・ウルトラマン』が示したヒーローの美しさと、人類の可能性について。
【『シン・ウルトラマン』/樋口真嗣監督】
1966年に、空想特撮シリーズ『ウルトラマン』の放送が始まってから、既に半世紀以上の月日が経った。特撮の神様・円谷英二、そして、当時の気鋭のクリエイターたちが生み出した唯一無二のキャラクター・ウルトラマンは、この国におけるポップ・アイコンとして、また、正義のヒーローの象徴として、誕生以降、平成、令和と時代を超えながら末永く愛され続けている。
そして、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』をはじめとした昭和シリーズがもたらした驚きや興奮、感動は、数え切れないクリエイターの創造上の源泉となっている。実際に、放送当時、その空想特撮の世界に熱狂していた子供たちが、現在は、クリエイティブの世界をリードする世代へと成長しており、『シン・ウルトラマン』の企画・脚本を手掛けた庵野秀明も、監督を務めた樋口真嗣も、まさに『ウルトラマン』に大きな影響を受けた世代のクリエイターである。
「この令和時代において、再び、未知の存在としてのウルトラマンを描く」という今作の企画は、作り手にとっても受け手にとっても、まさに大きな夢そのものであり、そして言うまでもなく、製作陣にとっては、失敗や中途半端な成功は許されない非常にシビアな挑戦でもあったのだと思う。原点への愛とリスペクトが大きいからこそ、今作の製作においては絶大なプレッシャーが伴ったことは間違いないだろう。
そして、2019年の製作発表から約3年、昨年の公開延期を経て、ついに私たちの前に『シン・ウルトラマン』が姿を現した。今作を通して、僕が特に強く心を震わせられた点が2つある。1つは、正義のヒーローとしてのウルトラマンを、極めて美しく描いていることだ。
今作におけるウルトラマンのデザインは、初代ウルトラマンのデザインを手掛けた美術総監督・成田亨がもともと思い描いていた姿をベースとしている。その原点となるデザインにおいては、胸元にカラータイマーが存在しない。それは成田が、ウルトラマンのフォルムの美しさを徹底的に追求した故だという。
今作においては、そのカラータイマーのない成田案が採用されており、また、3DCGで描かれる今作のウルトラマンには、特撮のスーツにおける目の覗き穴やファスナーを隠すための背ビレ、継ぎ目などが存在せず、フォルム全体が流麗に洗練されている。

そして、その美しさこそが、ウルトラマンというヒーローの本質を司る重要な要素に他ならない。1983年に成田が描いた絵画『真実と正義と美の化身』が表しているように、成田によるウルトラマンは、ギリシャ哲学的な「秩序(コスモス)」をコンセプトにデザインされている。ギリシャ的な価値観においては、美しさと善の概念が結び付いており、つまり、美しさこそが、正義のヒーローとしてのウルトラマンの本質を表しているのだ。
いわば原点回帰的でありながら、その造形美を映像として打ち出すという果敢なテーマに挑んだ今作におけるウルトラマンは、荘厳なほどに美しい。神秘的なオーラと佇まい、圧倒的な重量感と覇気、そのどれもが美しさという一つのテーゼのもとに紡がれていて、今までのウルトラマン作品では味わったことのない無類の感動が押し寄せてきた。
映画『#シンウルトラマン』#大ヒット上映中
— 映画『シン・ウルトラマン』公式アカウント (@shin_ultraman) May 15, 2022
【#ウルトラマン(仮称)、正体不明】 pic.twitter.com/V6qjWJzCnb
そしてもう一つ、僕が今作を観て強く心を震わせられた点がある。それは、今作が、人類の輝かしい可能性を衒いなく描いていることだ。
振り返れば、今作においてメインで語られているのは、禍威獣ではなく外星人のエピソードであった。つまり今作では、初代のテレビシリーズにおける「人類と宇宙人(外星人)のコンタクト」という側面が強調されている。(その意味において、今作は『ウルトラセブン』のテイストに非常に近いとも言える。)
ザラブやメフィラスが、人類の愚かさや脆さを炙り出していく展開は、元となる半世紀以上前のエピソードが描いた時と変わらず、もしくはそれ以上にスリリングな味わいをもたらす。広い宇宙から人類を俯瞰する外星人からすれば、やはり人類は、もはや救いようのないような無力な存在なのかもしれない。
しかし今作が映し出すのは、そうした悲観的なビジョンだけではない。ウルトラマンは、人類と外星人の狭間の存在として、私たち人類が誇る可能性を懸命に問い続ける。ラストシーンで登場する「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」という名台詞が象徴的なように、ウルトラマンは、たとえ、人類が、か弱くて、多くの矛盾を抱えた存在であったとしても、私たちの未来にポジティブな可能性を見い出そうとするのだ。
そして、特筆すべきは、ラストのゼットン戦における展開である。初代テレビシリーズの最終回「さらば、ウルトラマン」では大胆に省略されてしまっていた「人類の叡智によってゼットンを倒す」上でのプロセスが、今作では、むしろ物語終盤の軸となっている。僕は、このラストの展開を通して、今作の製作陣が掲げる「私たち人類が秘める可能性を諦めない」という渾身のメッセージに触れて、強く心を揺さぶられた。
(また、ゼットン戦において、禍特対の班長・田村君男が、ウルトラマン、および、神永新二の命を犠牲とすることで成立する作戦の概要を知り、その作戦を即座に取り止める判断をしたシーンに、決して自己本位なだけではない人類の尊厳が表れていたことを、ここに合わせて書き記しておきたい。)
まさに『シン・ゴジラ』がそうであったように、今回の『シン・ウルトラマン』の真の主役は、私たち人類一人ひとりなのだと思う。
いつの時代も世の中は混沌としていて、そしてその多くの原因は、人類自らの過ちや、人類同士の衝突であったりする。宇宙からの観点で相対化した時、人類は、たしかに容易く侵略してしまえるような非常に弱き存在なのかもしれない。
しかし、ウルトラマンが示してくれたように、そして、信じてくれたように、それでも人類には、輝かしい可能性がある。それは、フィクションとしての「空想特撮映画」だからこそ掲げられる、いや、映画にしか掲げられない至高のメッセージだ。
君が望むなら それは強く応えてくれるのだ
今は全てに恐れるな
痛みを知る ただ一人であれ
ヒーロー映画の本来的な意義は、ヒーローへ羨望の眼差しを向ける観客自身に、「あなたもヒーローになれる」ことを心から信じさせてくれることだとしたら、これ以上に素晴らしいヒーロー映画は他にないと思う。
新たなヒーロー映画の金字塔の誕生を、心から祝福したい。
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