1.序文——二重のデジタルデトックス:『都市巡礼』について
目次(各章は別リンクです)
1.序文——二重のデジタルデトックス:本リンク
2.多孔的都市——哲学の終焉:2024年9月公開
3.機械的都市——顕在的中心:2024年10月公開
4.幻視的都市——潜在的中心:2024年11月公開
5.沿岸的都市——地霊への巡礼:2024年12月公開
6.「 」都市——差異と反復:2025年1月公開
7.跋
(約2,800字)
2016年ごろの大学生だったころに作り始め、翌年から投稿を始めた創作活動は、気づいたら8年以上が経過していた。当時のことはそれほど記憶にもないが、8年が経過した今この時点で当時の言葉を振り返ってみると、なんという意味の軽さに対し、うんざりしてしまう。当時の私はまだ若かったと思うと同時に、それくらい過去の自分を客観視してしまうほどには、長い年月と経験を経たのだろう。あれから大学院に進み、博士後期課程まで進学はしたが学位は取れず、紆余曲折の果てに図書館員になった。京都で学生をしていた当時、まさかこの地から遠く彼方の広島へ移住することになるなんて、まさか思ってすらいなかった。
「都市巡礼」は、私がバンドとして音楽活動をしていた2010年代後半に提案された。「京都らしい名前を」という理由で生まれたukiyojinguという名前だが、その名前に「憂き世」とあることからか、最初から現実主義的な音楽を目指していた——或いは、むしろ名前が無意識理に方向性を決めた、というべきかも。京都の中心に生まれ、京阪神で生まれた私にとってのリアルな世界は、最初から都市だった。碁盤の目と形容される京都市街、そしてその中でシステマチックに駆動する人間の様相。大学生になって初めて一人で行った渋谷や新宿の、プログラムされたかのように動く人の流れ。全く思想も行き先も異なるはずの人びとによる、何一つミスのない完璧な動きを魅せる都市は、どこか数学的崇高ともいえよう美しさを感じさせてくれた。都市は無数もの人々の無数もの思惑を最大公約数的なものとして、最大限の効率性を発揮するように設計され今日も動いている。そんな都市に対する観察拠点としてukiyojinguという名前が機能しだしたのは、思えば2020年代に入ってからのような気もする。
それから数年、2020年代の折り返しも見え始めた今この時点で、改めて過去を見返す理由はなぜか。一つは個人的なことなのだが、昨年に行った就職活動が結果的に巻き起こすことになった、デジタルデトックスに起因する。昨年まで続けていた大学非常勤講師の仕事は私にとって紛れもなくよい経験だったのだが、非常勤講師をいつまでも続けることができない手前、昨年4月から私は就職活動を行なっていた。その間、依頼を受けて執筆させていただいた各種論考を除いて、自らニコニコ動画で新曲を投稿することはしなかった。無論、就活がその理由だが、それはまた、ニコニコ動画と距離を置く理由にもなると考えていた。合成音声音楽を用いた朗読詩たるPOEMLOIDへの関心が一時的に高まったのは一昨年の初音ミクWikiだったと思うが、その際、一時的に私がその代表格のように扱われつつあったことを私は記憶している。無論、それは光栄なことだし、投稿者は須らく自らの動画を見てもらいたいと思っている欲望を抱えている点において、そういう話を無視することは個人的にしたくない。だがしかし、それでもだ。私は有名になることが同時に、作品が内包される意味が非特定多数の目に曝されることによって、どこか自らの意図を遠く離れたどこかへ流れていってしまうことの恐怖感を、同時に抱えていたのだった。言葉は自由に解釈されることは否定されるべきではないし、それは受容者の権利でもある。さらにいえば、私がこれまで実践してきた批評活動こそ、作者の意図とは全く別の次元で、新たな価値を生成する仕事でもあった。そういう意味では、私は自らが発信する言葉や意図が誰かの手によって切断され、全く異なる解釈へと伝達されることを否定する権利は一切ない。それでも、言葉がどこまでも無限に横滑りし続けることに対しては、私は私の価値判断のもとで抵抗するべきだと考えている。無論、一切の意図が誤配されてしまうことを否定すべきではない。だが、その過剰さには常に警戒心を持つべきではないか。解釈が氾濫し、言葉の意味があらゆる方面でそぎ落とされた空間は、もはや無秩序と同じだからだ——そんな意味や意図の維持は、日々働く場として居続ける図書館の、ある種の本質のようなものだとも思っている。都市のシステマチックな形態に憧れを持った当時の私が、そんな無秩序を許すわけがないだろう。そんな自惚れのような思惑と重なった就職活動の時期は、結果的に私にデジタルデトックスのための機会を提供してくれた。
ところが、今年6月にKADOKAWAのサーバー被害に伴うニコニコ動画のサービス停止が発生したことで、デジタルデトックスは延長された。まるで新型コロナウイルスに伴う現実世界での交流が絶たれた数年間の反動のように、今度はデジタル空間でのディスタンスが、今のニコニコ動画ではとられた。セルフプロデュースに勤しむ若手ボカロPの多くがYouTubeをはじめとした他の動画投稿サイトで活動を継続する姿はまるでニコニコ動画の今日的必要性を反映しているようで皮肉だが、ともあれ、これは換言すれば、今の私たちはニコニコ動画を失った程度でデジタルデトックスはできないということだろう。そんな時代において、私たちは過剰にもデジタル空間で接続し、表示される動画に付与される再生回数に一喜一憂を続けている。止める手段なきインスタントコミュニケーションの数々は、どこまでも意味を奪い去り、私たちの固有性を延々と失わせてゆくような気がしてならない。こんな時代で、言葉の意味や作者の意図は一体、どこまで維持されるだろう——或いは、もはやそんな問題は必要ないのだろうか。
かくして、個人的理由とKADOKAWAへのサーバー攻撃という、二重のデジタルデトックスに伴って、私は改めてデジタルなものから「都市」へ目を向ける。当時と比べていろいろなことを知ったからか、都市の全てがシステマチックに駆動しているとは、もはや思えなくなった。碁盤の目たる京都市街から、扇状地状に沿うように道路が交差し続ける広島へと移住したことも、大きく関係しているかもしれない。とはいえ、そのうえで動く人々の動きは、やはりシステマチックでもある。かつて作った曲を振り返りつつ、そんな都市への願望投影として作られた8年前の曲を、今一度システマチックに再構成することで、私はかつての私が得られなかった深みを再確認し、これまで以上に複雑にできるだろうか。きっと不完全なものとなるだろう本作を10年後にこれを見た私は、その不完全さに眩暈を感じるだろう。それでも、残された不完全さを改めてくれると期待し、この序文を閉じられる。
