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トラ猫のミケ 白猫

生まれた場所

物置の陰、段ボールを重ねた隙間に、温かい体がいくつも重なっていた。目はまだ開いていない。聞こえるのは、母の心音と、兄弟たちの小さな鳴き声だけだった。

光を感じたのは、目が開いてからだった。物置の隙間から差し込む、細い一筋の光。埃が舞う様子を、初めて目で追った。

母の毛には、いつも同じ匂いがあった。その匂いがある限り、他に何も必要なかった。

兄弟

乳を飲む場所は、決まっていなかった。押し合い、蹴り合いながら、良い場所を奪い合う。

一番大きな兄弟が、いつも先に良い場所を取った。白い体は、端に押し出されることが多かった。

それでも、体を斜めに滑り込ませる方法を覚えた。争うより、隙間を縫う方が早いと分かった。

兄弟の温もりが重なる夜は、物置の外がどれほど冷えていても、寒さを感じなかった。

母の匂い

歩けるようになると、母のあとをついて回った。物置の外に出るときも、母の尻尾の先だけを目印にした。

母が立ち止まると、自分たちも立ち止まった。母が匂いを嗅ぐと、同じ場所に鼻を寄せた。世界の広さは、母が歩く範囲の分だけだった。

ある日、母が見知らぬ人間に近づかれ、身を硬くしたことがあった。その日から、人の気配がすると、反射的に母の後ろに隠れるようになった。

巣立ちの日

兄弟たちが、一匹ずつ物置から姿を消していった。理由は、誰も教えてくれなかった。

ある夜、一番小さかった兄弟が、段ボール箱に入れられて連れて行かれた。生ぬるい風の吹く晩だった。

ある朝、母もいなくなっていた。いつもの場所で待ったが、日が暮れても戻ってこなかった。

次の日も、その次の日も、同じ場所で待った。母の匂いは、日ごとに薄くなっていった。

やがて、待つことをやめた。物置の隙間には、一匹だけが残った。

雨宿り

初めての雨は、音から始まった。屋根を叩く音が、次第に強くなっていく。

物置の隙間から、外を見た。地面に跳ねる水しぶきを、しばらく眺めていた。

外へ出る勇気はなかった。体を丸め、隙間の奥へと後退る。冷えた空気が、隅々まで入り込んできた。

雨が止んだのは、夜が明けてからだった。濡れた地面から立ちのぼる匂いを、初めて一人で嗅いだ。

人の手

決まった時間に、決まった場所に、皿が置かれるようになった。最初は、遠くから眺めるだけだった。

皿の主が立ち去ってから、ようやく近づいた。中身を食べ終えると、また距離を取った。

「大丈夫よ、ゆっくりで」

声をかけられても、近づくことはしなかった。それでも、皿は次の日も、同じ場所に置かれ続けた。

日を重ねるうちに、皿の主が近くにいても、食べられるようになった。触れられることだけは、まだ許さなかった。

ある日、皿の主が、いつもと違う入れ物を持って現れた。逃げる間もなく、体は網の中に包まれていた。

目を覚ますと、知らない匂いのする部屋にいた。体の奥が、ひんやりと重かった。耳の先が、少しだけ欠けていた。

数日後、いつもの場所に戻された。皿の主は、いつもと同じように皿を置き、名を呼ぶことはしなかった。

耳の先の欠けだけが、そこにいたことの、もうひとつの跡になった。

縄張りの匂い

体が大きくなるにつれて、物置の周りだけでは収まりきらなくなった。歩ける範囲が、少しずつ外へ広がっていく。

強い匂いが残る場所には、慎重に近づいた。誰かが先に、そこにいた証だった。争いを避けるように、その匂いを避けて歩く道を覚えた。

自分の匂いを残すときは、いつも一瞬だけだった。長く留まれば、誰かに見つかる。見つかれば、失うかもしれない。

それでも、匂いを残さずにはいられなかった。ここにいた、という跡だけは、どこかに残しておきたかった。

塀の上の少年

ある日、塀の角に匂いを付け直しに行くと、少し先に、見慣れない毛並みが見えた。トラ模様の、若い猫だった。

同じように、匂いを確かめているらしかった。動きに迷いがなく、堂々としていた。近づくことはしなかった。

しばらく、互いを見つめ合った。相手が先に目を逸らし、それぞれの方向へ歩き去った。

その後も、同じ場所で何度か見かけるようになった。名前があるのかどうかは、分からなかった。

距離の意味

トラ猫は、いつも同じ距離のところで足を止めた。近づいてくることも、遠ざかることもしなかった。

その距離が、自分にとってちょうどいいことに、いつからか気づいていた。近すぎれば身構える。遠すぎれば、意味がない。

母が消えたときのことを、忘れたわけではなかった。兄弟たちが、一匹また一匹と姿を消したことも。

消えた仲間

同じ地域で育った、もう一匹の白猫がいた。餌の時間になると、決まって少し離れた場所で待っていた。

ある冬、その姿を見かけなくなった。皿の主に聞いても、はっきりとした答えは返ってこなかった。

しばらくの間、いつもその猫がいた場所を、通りがけに確かめるようになった。何も見つからない日が、そのまま続いた。

トラ猫との距離を、もう少しだけ詰めることはなかった。ただ、以前より少しだけ、塀に早く着くようになった。

初めての冬を越えて

屋根のない場所で迎える、初めての冬だった。物置の隙間に、古い毛布が敷かれているのに気づいたのは、霜の降りたある朝だった。

皿の主が、そっと置いていったものらしかった。礼を言う術はなかったが、その夜から、そこで丸くなる時間が増えた。

寒さの中で、体を縮める角度を覚えた。日向を選ぶ角度も、少しずつ分かってきた。

季節がひと巡りする頃には、警戒する相手と、そうでない相手の区別が、はっきりとつくようになっていた。トラ猫は、後者の数少ない一匹だった。

白猫

塀の上から、夜を見下ろすことが増えた。名前を呼ばれることはなかったが、呼ばれないことには、慣れて久しかった。

トラ猫には、名前があるらしかった。家の奥から聞こえる声が、繰り返しその音を呼ぶのを、何度も耳にしていた。自分には、そういう音がなかった。

それで困ることは、何もなかった。皿の主は、皿を置くだけで、名を呼ぶことはしない。呼ばれなくても、皿はいつもそこにあった。

名前がなくても、自分の匂いは、確かに塀の角に残っている。それだけで、十分だった。

蒸し暑いある晩、塀の上に体を横たえていると、隣の駐車場の方から、聞き慣れた足音が近づいてくるのが聞こえた。

足音は、塀の下で止まった。顔だけを、少し起こす。見なくても、誰なのかは分かった。

塀の下から、トラ猫がこちらを見上げていた。夜の明かりの中で、縞模様だけがぼんやりと浮かんでいる。塀を降りることはしなかった。トラ猫も、登ってはこなかった。

しばらくして、トラ猫がいつもの場所に腰を下ろした。

その距離を見てから、白猫もまた、体を横たえた。

近すぎない。遠すぎもしない。

それでよかった。

風が塀の上を通り抜け、二匹の毛をわずかに揺らした。

どこかの家で、窓を閉める音がした。皿の主の家からは、食器の触れ合う音がかすかに聞こえていた。

白猫は目を閉じた。

塀の下から、ときどき小さな物音がする。トラ猫が、そこにいる。

白猫は耳だけを動かした。

そのまま、眠った。


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Marcus ねこのカリカリ代に使います。ありがとうです。