トラ猫のミケ
遠雷
熱帯夜の塀はまだ熱を持っていた。トラ猫のミケは、いつものようにその上に寝そべっていたが、体の下からじわりと伝わってくる熱に耐えかねて、とうとう起き上がった。暑さで毛づくろいをする気にもなれなかった。こんな夜は、どこに行っても暑さから逃げられないことを、ミケはもう何年も前から知っていた。
塀を飛び降り、路地を抜けて向かったのは、いつもの駐車場だった。コンクリートの上より、少しだけ土が残っている花壇の脇のほうが涼しい。そこに体を横たえ、目を細めて夜空を見上げる。星はほとんど見えず、雲の底が街の明かりを映して、うっすらとオレンジ色に光っていた。
どこかで自動販売機の冷却機が低く唸っている。その音に混じって、家々の窓から漏れる冷房の室外機の音が、夜通し途切れることなく響いていた。ミケは、その音の方向へ、尻尾の先だけをゆっくりと一度動かした。
しばらくすると、隣のアパートの階段の下から、白い猫が姿を現した。近所ではよく見かける顔で、名前は知らないが、互いに敵意がないことはとうに分かっている。白猫はミケから少し離れた場所に腰を下ろし、同じように夜空を見上げた。二匹の間に会話はない。
やがて、遠くの空に稲光が走った。音はまだ届かない。次の瞬間、ぬるい風がふわりと吹き抜け、土の匂いと、かすかに水の匂いを運んできた。雨が近いのかもしれない。ミケは耳をぴくりと動かし、それから、ゆっくりと目を閉じた。
白猫が小さくあくびをした。ミケもつられてあくびをする。遠くで、ようやく雷の音がひとつ転がった。二匹は顔を上げたあと、また何事もなかったように夜空を見つめていた。
遠花火
八月に入ってから、夜になっても地面の熱がなかなか引かなくなった。トラ猫のミケは、いつもの塀の上で丸くなっていたが、遠くから届く低い音に耳を立てて、目を開けた。太鼓の音だった。祭りの気配は、風向きが変わるたびに近づいたり遠のいたりする。
塀を降り、いつもの駐車場を通り過ぎ、少し先にある神社の石段まで足を伸ばした。石段は昼間の熱をまだ抱えていたが、上まで登れば、町の明かりの向こうに細く光の筋が見える場所がある。
登りきったところに、白猫がすでに座っていた。ミケは、いつもと同じだけ間を空けて腰を下ろした。二匹の毛が触れることは、今夜もなかった。
しばらくすると、遠くの空に小さな光が咲いた。音は、少し遅れて届いた。低く、腹に響くような音だった。白猫の耳が、その音の方にぴくりと動いた。
光はもう何度か上がったが、ミケはそのうち目を細め、追うのをやめた。風に混じる火薬の匂いに、どこかの家の蚊取り線香の匂いが重なった。白猫が小さく身じろぎをした。ミケは、そのまま目を閉じた。
十五夜
九月に入ると、夜の底から聞こえる音が変わった。塀の上でうたた寝していたミケの耳に、涼しい風とともに、鈴虫の細い声が届いた。ひと夏を通して聞き慣れた蝉の声はもう、どこにもなかった。
体を起こし、いつもの道を辿って向かったのは、神社の裏手にある空き地だった。周りに高い建物がなく、上を仰げばよく見える場所だ。着くころには、満月がちょうど屋根の稜線を越えたところだった。
空き地の隅、いつもと同じ距離を空けて、白猫がすでに座っていた。月の光は、花火や雷のように動かなかった。ただそこにあり続けるだけの光だった。
どこかの庭から、金木犀の匂いがかすかに運ばれてきた。ミケは鼻先を持ち上げ、しばらくその匂いを追ったあと、目を細めて白猫のほうを見た。月光が、白猫の背中の毛を薄く光らせていた。
ミケは何も言わず、自分の前足に鼻先をうずめた。鈴虫の声だけが、途切れることなく続いていた。月は、二匹の影を夜空の下に並べたまま、動かずにいた。
雨上がり
十月に入ってから、雨の降り方が変わった。一日中しとしとと降り続いた末に、夜になってようやく上がる。ミケは軒下で丸くなったまま、屋根から滴る雨粒の間隔が少しずつ延びていくのを聞いていた。
雨音がすっかり途絶えると、ミケは軒先を出た。舗装の隙間に溜まった水たまりを避けながら、いつもの公園へ向かう。落ち葉が地面に濡れたまま張りついていた。
ベンチの下、白猫はすでに座っていた。濡れた尻尾の先だけを、時おりゆっくりと振っていた。ミケはいつもと同じだけ間を空けて腰を下ろした。
近くの水たまりに、街灯の光が映り込んでいた。風が吹くたびに光の形がわずかに崩れ、また静かに元へ戻る。濡れたアスファルトの匂いは、夜気に溶けるように少しずつ薄れていった。
ミケは水面の光からゆっくりと目を逸らした。どこか遠くで、木の枝に溜まった雨粒が一度に落ちる音がした。それきり、あたりは何も鳴らなくなった。
銀杏
十一月に入ると、通り沿いの銀杏並木が、日ごとに色を深めていった。ミケは塀の上から見下ろすたびに、緑の合間に黄色が増えていくのを眺めていた。
ある夜、強い風が吹き抜けたあと、並木道は一面、黄色い葉で埋め尽くされていた。ミケはいつもの道を外れ、その絨毯の上を歩いた。踏むたびに、乾いた葉が小さく音を立てた。
街灯の下、白猫は落ち葉に埋もれるように座っていた。積もった黄色の中に、白い体だけが浮かび上がって見えた。ミケはいつもと同じだけ間を空けて、隣の葉の上に腰を下ろした。
風向きが変わるたびに、銀杏の実の強い匂いが漂ってきた。決して心地よい匂いではなかった。ミケは鼻に皺を寄せ、少し顔をそむけたが、白猫は気にする様子もなく、同じ場所に座り続けていた。
しばらくして、また風が吹き、頭上の枝から一枚の葉が舞い落ちた。それは白猫の背中にそっと乗った。白猫はそれに気づかないまま、じっと動かずにいた。
やがて白猫が立ち上がると、背中の葉は音もなく地面へ落ちた。白猫は振り返ることなく、黄色い絨毯の奥へ歩き去っていった。
残された葉は、さっきまでそこにいたことを覚えているように、静かに横たわっていた。ミケは一度だけ鼻先を近づけると、乾いた音を立てながら歩き出した。
イルミネーション
十二月に入ると、夜の空気が刺すように冷たくなった。ミケは塀の上にいつまでも留まることができなくなり、日ごとに、体を丸める時間が短くなっていった。
その夜、寒さに追われるように、ミケはいつもより高い場所を目指した。アパートの外階段を上り、屋上に近い物干し場までたどり着いた。
先に着いていた白猫が、フェンス際に体を寄せて座っていた。ミケはいつもと同じだけ間を空けて、隣に腰を下ろした。鼻先がフェンスをかすめると、冷えた金属の匂いがした。
眼下には、家々の軒先や庭木に巻きついた電飾が、通り沿いに点々と続いていた。花火のように弾けることも、雷のように途切れることもなく、光はただそこに留まり続けていた。
冷たい風が吹き抜けるたびに、白猫の吐く息が白く尾を引いた。ミケは尻尾の先を体に巻きつけたまま、その息の行方をしばらく目で追っていた。
冬の朝
一月に入り、朝の地面はすっかり白くなっていた。ミケは夜明け前の寒さに目を覚まし、いつもの塀からそっと降りた。冷たい空気が鼻先に刺さり、思わず身をすくめた。息を吐くたびに、真っ白な塊が宙に浮かんでは消えた。
霜を踏むと、かすかに乾いた音がした。ミケはその音を確かめるように、一歩ずつゆっくりと駐車場へ向かった。まだ誰の足跡もついていない地面に、自分の足跡だけが点々と残っていく。
花壇の縁で、白猫はすでに目を閉じていた。夜ではなく、朝にここで会うのは初めてだった。ミケはいつもと同じだけ間を空けて腰を下ろした。
東の空が、少しずつ白み始めていた。霜の張った地面が、その光を受けて淡く輝いていた。二匹は言葉もなく、その光の変化をただ眺めていた。
やがて白猫が立ち上がり、いつもとは違う方向へ歩き出した。ミケもまた、いつもの方向へ戻り始めた。二匹の足跡は、霜の上で少しずつ離れていった。
窓辺
二月に入ると、夜の冷え込みは一段と厳しくなった。ミケは、もう長く外にいることができなくなっていた。飼い主の家の、キッチンの窓辺が、近ごろの居場所になっていた。
ガラス越しに見る夜は、いつもより静かだった。物干し場の白い息も、遠雷の音も、ここまでは届かない。
ある夜、窓の外に、白い影が横切った。白猫が、庭先の塀の上を歩いていくところだった。ミケはガラスに鼻先を寄せ、その背中を目で追った。
白猫は塀の途中で足を止め、こちらを振り返るでもなく、じっと外の闇を見つめていた。ミケも同じ姿勢のまま、ガラスの内側で動かずにいた。
しばらくして、白猫はまた歩き出し、闇の中へ溶けるように見えなくなった。ミケは、白く曇ったガラスの跡だけを、しばらく見つめていた。
春の匂い
三月に入ると、朝晩の冷え込みの合間に、時おり柔らかな風が混じるようになった。ミケは塀の上で目を覚ますと、これまでとは違う匂いが漂っているのに気づいた。
匂いを辿るように歩いていくと、隣の家の庭先で、白い梅の花がいくつも咲いているのが見えた。まだ蕾のままの枝も多く、花はまばらだった。
塀の下に、白猫はすでに身を寄せていた。ミケはいつもと同じだけ間を空けて、隣の枝の下に腰を下ろした。
風が吹くたびに、甘く控えめな香りが二匹の間を通り抜けていった。花びらが一枚、白猫の頭の上に落ちたが、白猫はそれに気づかない様子だった。
ミケは鼻先を持ち上げ、しばらくその匂いを追っていたが、やがて静かに前足の上へ鼻先を戻した。
桜
四月に入り、通りの桜が一斉に咲いた。ミケは塀の上から、夜風に揺れる花の白さを何度も眺めていた。
ある夜、強い風が吹き、花びらが一斉に舞い散った。ミケは塀を降り、花びらの吹き溜まりができた駐輪場へ向かった。
すでに白猫が、花びらの吹き溜まりの端に座っていた。ミケはいつもと同じだけ間を空けて、隣に腰を下ろした。
風が吹くたびに、頭上からさらに花びらが降ってきた。何枚かが、二匹の背中にとまっては、また風に飛ばされていった。地面に積もった花びらは、街灯の下でほのかに光って見えた。
ミケは降りかかる花びらを一枚も避けようとせず、じっと座ったまま、白猫の背に舞い落ちる花びらを目で追っていた。
若葉
五月に入ると、夜風にはっきりと湿った緑の匂いが混じるようになった。ミケは塀の上で、その匂いを吸い込みながら、体を伸ばした。
匂いに誘われるように、いつもの公園へ向かう。木々の若葉が、街灯の光を透かして、淡い緑色に光っていた。
いつものベンチの下、白猫はすでに丸くなっていた。ミケは、いつもの距離を残して、隣の若葉の陰に腰を下ろした。
どこかで、かすかに水の音がした。まだ遠くはあったが、夏が近づいていることを、ミケはその音の中に感じ取った。
白猫が小さくあくびをした。ミケもつられてあくびをする。若葉の匂いに包まれたまま、二匹はしばらく、夜風の中でじっとしていた。
蛍
六月に入ると、夜になっても地面の熱が抜けきらない日が増えてきた。ミケは塀の上でうとうとしていたが、闇の中に小さな光がひとつ、ふっと灯るのが目の端に映った。
体を起こし、光のした方――用水路沿いの草むらへ向かった。歩くたびに、湿った土と青草の匂いが立ちのぼった。
草むらの手前、白猫がすでに座っていた。ミケはいつもと同じだけ間を空けて、隣の草の陰に腰を下ろした。
蛍の光は、花火のように弾けることも、電飾のように留まり続けることもなく、灯っては消え、また少し離れた場所で灯った。二匹の目が、同じ光を何度も追いかけては、見失った。
蛍の光が草むらの奥へすっかり見えなくなると、ミケはいつもの塀のほうへ戻っていった。白猫が座っていた場所では、倒れた草がゆっくりと元に戻っていった。夜風にはまだ、昼間の熱の名残がわずかに残っていた。
熱帯夜
七月に入ると、熱帯夜の塀はまだ熱を持っていた。トラ猫のミケは、いつものようにその上に寝そべっていたが、体の下からじわりと伝わってくる熱に耐えかねて、とうとう起き上がった。暑さで毛づくろいをする気にもなれなかった。こんな夜は、どこに行っても暑さから逃げられないことを、ミケはもう何年も前から知っていた。
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ねこのカリカリ代に使います。ありがとうです。