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トラ猫のミケ はじまり

誕生の夜

段ボール箱を抱えて、車から降りた。九月の風はまだ生ぬるい。

助手席に置いていた箱の中から、か細い声がしていた。震えているのが、箱越しにも分かった。

玄関を開ける。灯りをつける前に、まず箱を降ろした。蓋を開けると、小さな体が丸まっていた。目をまだ、うまく開けていない。

「大丈夫だよ」

声をかけても、意味は伝わらないだろう。それでも、何度も繰り返した。

タオルで包んで、抱き上げる。想像していたより軽い。手のひらの中で、心臓の音が速く伝わってくる。

夜、ミルクを温めた。哺乳瓶を近づけると、小さな口が吸いついてきた。飲むたびに、喉が鳴った。

「ミケ、って呼ぼうか」

名前を決めた瞬間、腕の中で身をよじった。前足が伸びて、タオルに爪を立てた。

窓の外で虫が鳴いている。腕の中で、トラ猫のミケが、初めての夜を眠っていた。

名前

「ミケ」

声がするたびに、体のどこかが反応する。まだそれが何を意味するのか、分からない。

最初は、ただの音だった。ほかの音と同じ、区別のつかないもの。食器の音、テレビの音、玄関のチャイム。その中に混ざっていた。

繰り返されるうちに、少しずつ違って聞こえてきた。この音のあとには、決まって何かが起きる。手が伸びてくる。器が置かれる。温かい膝が近づいてくる。

ある日、名前を呼ばれて、顔を上げた。それだけの動作だったが、呼んだ側の顔が緩んだのが分かった。

「わかるんだね」

呼ばれるたびに、同じように顔を上げた。

その音が近づいてくると、顔を上げるより先に、耳の向きが変わるようになった。意味は、まだ分からないままだった。

歩き方

畳の上を四歩、進んだところで体が傾いた。前足が交差して、そのまま転がる。

起き上がる。もう一度、同じ場所を歩いてみる。今度は三歩で止まった。膝が震えている。

見えている距離と、実際に進める距離が合わない。目標にしていた座布団は、思ったよりずっと遠かった。

何度も転びながら、少しずつ角度が変わっていった。足を出すタイミング、体重のかけ方。転ぶたびに、少しだけ違う体の使い方を試していた。

夕方、初めて部屋の端から端まで、転ばずに歩けた。座布団の上で、そのまま丸くなる。

疲れていた。脚の筋肉が、じんわりと重くなっていた。

眠りに落ちる前、もう一度だけ、脚を伸ばしてみた。筋肉の奥に、まだ小さな震えが残っていた。

家の中の地図

知らない匂いしかしない。新しい畳、新しい壁紙、新しい木の匂い。どれも硬くて、まだ家の匂いになっていない。

リビングの真ん中で、しばらく動かずにいる。天井が高い。前の場所より、音の響き方が違う。自分の鳴き声が、少し遠くから聞こえた気がした。

窓際に日が差している。前足で光の輪をなぞってみる。逃げない。床に張りついたまま、動かない光だった。

キッチンで水を出す音がする。蛇口は、低い音で鳴った。覚えておくことが増えた。

廊下の奥に、暗くて狭い場所を見つけた。押し入れの隙間だった。そこに入って、丸くなってみる。

一部屋ずつ、匂いを確かめて歩いた。ソファの下、テレビ台の裏、カーテンの陰。どこに何があるか、少しずつ分かってくる。

数日かけて、家の輪郭が頭の中にできあがっていった。目を閉じていても、どこに何があるか分かる。そうなったとき、初めてこの場所で、体の力が抜けた。

爪とぎ

柱の木目に、前足の爪が引っかかった。何気なく力を入れてみると、乾いた音がした。

もう一度。今度は両の前足で、交互に引っかいてみる。木の繊維が、細く裂ける感触が伝わってくる。

やめられなかった。爪の根元がむずがゆいような、説明のつかない衝動だった。柱の同じ場所に、何度も爪を立てた。

「あ、そこは」

声がして、体が一瞬止まった。けれど、衝動はまだ収まっていない。少し場所をずらして、また爪を立てた。

段ボールの切れ端が、床に置かれるようになった。試しに引っかいてみると、柱よりも音が良かった。繊維が層になって裂ける、あの感触。

以来、爪とぎはそこで、と決まったわけではない。気分によって、柱だったり、段ボールだったり、ソファの脚だったりした。

爪を立てるたび、指先の奥が静かになる。

柱には、日ごとに引っかき跡が増えていった。

窓の外

網戸に前足をかけて、外を見ている。トラ猫のミケだ。

庭に何かが動いた。小さな鳥だった。目で追ううちに、体が低く沈んでいく。腰が浮いて、尻尾の先だけが揺れた。

網戸がなければ、飛びついていただろう。その一枚の網が、いつも世界を半分に分けていた。

匂いは通り抜けてくる。土の匂い、草の匂い、雨上がりの匂い。音も聞こえる。葉の擦れる音、虫の声、遠くの車。それなのに、触れることはできない。

日が傾くと、網戸の桟に頬を寄せて、しばらくそのままでいた。金網越しの風が、ひげを揺らす。

何度も同じ場所に座るようになった。座る場所の畳だけ、色が少し変わっていた。

ある日、玄関の戸が、少しだけ開いていることに気づいた。網戸の向こうではなく、実際に外へ続く隙間。

その隙間を、しばらく見つめていた。

初めての外出

前足を一歩、敷居の外に出してみる。ひんやりとした感触。それだけで、体の毛が逆立った。

もう一歩。地面は思ったより硬い。踏みしめるたびに、小さな音がした。

庭に出ると、風が強く感じられた。家の中では聞こえなかった音が、いくつも重なって聞こえる。葉の擦れる音、鳥の羽ばたき、遠くの犬の声。

土の感触は、畳とも床とも違った。柔らかい場所と硬い場所が、歩くたびに入れ替わる。

植木の根元に、知らない虫がいた。じっと見つめる。動くたびに、体が反応した。まだ捕まえ方は分からない。

一通り庭を歩いたところで、家の中から名前を呼ぶ声がした。振り返ると、玄関が思ったより遠くにあった。

戻ろうか、迷った。けれど、まだ確かめていない匂いが、庭の隅に残っていた。

名前を呼ぶ声に、片耳だけを向けたまま、匂いのする方へ足を進めた。

塀の上

塀の下に立つ。見上げると、思ったより高い。それでも、後ろ足に力を込めて、飛びついた。

一度目は届かなかった。爪が表面を滑って、地面に落ちた。

二度目、前足が縁にかかった。体を持ち上げる。塀の上に、ようやく立った。

見渡す景色は、庭よりずっと広かった。隣の屋根、その向こうの電線、さらに遠くの木々。風が正面から吹いてくる。

高さのぶんだけ、匂いも変わっていた。地面近くにはなかった、遠くの匂いが混ざっている。

しばらく、そこから動かなかった。

家の中から、名前を呼ぶ声がした。

ミケは振り返らなかった。まだ、もう少しだけ。

縄張り

塀の上から見えていた景色を、少しずつ歩いて確かめるようになった。庭の外にも、道が続いている。

角を曲がると、知らない匂いがした。別の猫のものだった。しばらく嗅いで、その場を離れる。

自分の匂いを、いくつかの場所に残すようになった。塀の角、電柱の根元、決まった木の幹。理由を説明できるわけではない。ただ、そうしておきたかった。

ある日、塀の角に匂いを付け直しに来ると、少し先の茂みに、白い毛並みが見えた。同じように、匂いを確かめているらしかった。近づくことはしなかった。しばらく互いを見つめたあと、それぞれの方向へ歩き去った。

塀の角に残る二つの匂いは、しばらくそのままだった。

膝の上

ブラシの毛先が、背中を滑った。最初は身をよじったが、繰り返されるうちに、力を抜くことを覚えていた。

膝の上は、外の地面よりずっと柔らかい。体重をかけても沈まない場所を、少しずつ探り当てる。

「今日はどこまで行ったの」

答える代わりに、喉の奥を鳴らした。声にならない音だった。

ブラシが背中から尾の付け根まで通るたび、目が細くなる。爪を立てる必要のない、静かな時間だった。

外では味わえない重みがあった。膝の熱、手のひらの動き、規則正しいブラシの往復。眠気が、少しずつ体の奥から広がっていく。

気づくと、ブラシの音が止まっていた。手だけが、ゆっくりと背中を撫でていた。

窓の外は、まだ日が高かった。外に出るには早すぎる時間だった。ミケは、膝の重みに体を預けたまま、目を閉じた。

帰ってきた日

ある朝、覚えのない匂いのする箱に入れられた。車が揺れる感覚は、初めての夜と似ていた。

戻ってきたのは、日が傾いた頃だった。抱き上げる腕に、いつもより力がこもっていた。

「よかった……ちゃんと帰ってきた」

声が、少し震えていた。撫でる手が、なかなか止まらなかった。

体のどこかが、少し軽くなっていた。塀の角に匂いを残したい衝動も、以前ほど強くはなかった。

歩ける範囲は、それでも少しずつ広がっていった。最初は庭だけだった世界が、隣の家の裏、道の先の空き地まで伸びている。

戻る場所は、変わらなかった。日が傾く時間になると、自然と足が家の方向を向いた。

遠くまで歩いた日ほど、家の匂いを強く感じた。鼻先がその匂いを捉えると、歩幅が少しずつ縮んでいった。

玄関をくぐるとき、いつも同じ場所に体を沈めたくなった。

狩りの目

葉の陰で、何かが動いた。目が、それだけを追い始める。体の重心が、自然と低くなった。

呼吸が変わる。浅く、静かに。尻尾の先だけが、小さく揺れていた。

一歩、また一歩。足音を立てないよう、体重の乗せ方を変えている。爪の先だけが、地面に触れていた。

距離が縮まる。飛びかかる瞬間、頭で考える暇はなかった。体が先に動いていた。

外れた。虫は葉の裏に消えていく。しばらく、その場所を見つめたままでいた。

次の機会は、鳥だった。庭の隅、地面をついばんでいる。今度はもっと時間をかけて、距離を詰めた。

結果は同じだった。飛び立つ羽音だけが残った。

失敗を重ねても、衝動は消えなかった。むしろ、何かが動くたびに、体が勝手に反応するようになっていった。獲れるかどうかより先に、追ってしまう。それが、いつからか当たり前になっていた。

初めての冬

朝、庭の土が白くなっていた。踏むと、いつもと違う音がした。

足の裏が冷たい。それでも、しばらく雪の上を歩いてみた。歩くたびに、跡が残るのが不思議だった。

家の中に戻ると、体が小刻みに震えていた。丸くなって、しばらく動かずにいる。

その頃から、体つきが変わり始めていた。毛が、以前より厚く感じられる。丸くなったときの体積が、少し大きくなっていた。

日が短くなった。夕方の光が差し込む時間が、以前より早い。網戸の外を眺める時間も、自然と短くなっていった。

暖かい場所を探すことが増えた。ストーブの前、日だまりの座布団、毛布の重なった場所。日向と日陰の境目を、体の半分だけで感じ分けるようになっていた。

季節が一周する間に、体も、過ごし方も、少しずつ変わっていた。丸くなったときの毛の厚み、爪とぎの音の低さ、日だまりを選ぶ角度——どれも、初めの頃とは違っていた。


トラ猫のミケ

塀の上に座って、外を見ている。トラ猫のミケだ。

もう、光の輪を前足で追いかけたりはしない。見下ろす景色を、ただ眺めるだけだ。

虫の声が聞こえる。九月の夜と同じ、細く長い声だった。何年経っても、その音だけは変わらない。

爪とぎの柱には、幾重にも傷が重なっている。一度や二度でついた数ではない。今も、ときどき思い出したように爪を立てる。

塀に飛び乗る動作は、考えるより先に体が覚えている。名前を呼ばれても、すぐには振り返らない。

変わったことと、変わらないこと。数えようとすると、うまく線引きができない。歩き方も、爪とぎの癖も、狩りの構えも、少しずつ違っている。それでも、こうして高い場所から外を眺める、この時間だけは同じだった。

夕方の光が、塀の上に長い影を落としている。ミケは、その影の中に体を沈めた。

明日も、同じ場所で外を見るだろう。それだけは、確かだった。


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Marcus ねこのカリカリ代に使います。ありがとうです。