「まず、やることをやってからでしょ」その苛立ちから、初めて見えた自分のルール
やるべきことをやらないまま、自分のやりたいことを優先しているように見える人を見ると、私は強く腹が立った。
何をしているんだろう。
そんなことをしている場合ではないだろう。
まず、やることをやってからにすればいいのに。
そういう行動を目にすると、なぜか見過ごせなかった。
問題は相手の側にあるように見えていた。
もっと先に、果たすべきことがあるだろう。
私は何度も、そんなふうに思っていた。
けれど、ある時、少し気になった。
なぜ私は、この種類の行動に、これほど強く反応するのだろう。
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腹が立つことには、理由がある
やるべきことを後回しにした結果、周りに負担がかかることはある。
誰かが果たさなかったことを、別の誰かが引き受けなければならない場合もある。
だから、「先にやることをやってほしい」と腹が立つこと自体には、理由があるのだと思う。
相手の行動を無理に肯定したり、こちらの苛立ちを「よくない感情」として処理したりする必要はない。
ただ、ある時、別のことが気になった。
私はなぜ、こういう行動に、これほど強く引っかかるのだろう。
相手に問題があるかどうかとは別に、私の反応の中にも、何かがあるのではないか。
そう考えてみた時、ようやく見えてきたものがあった。
当たり前すぎるものは、信念に見えない
自分が禁じていることを誰かがしていると、強く反応することがある。
他人への引っかかりには、自分の内側が映っている場合がある。
そういう仕組みがあることを、私は以前から知っていた。
知識としては、もう何度も聞いたことがあった。
それでも、このことには何年も気づかなかった。
「やるべきことをやってから、やりたいことをする」
それが、あまりにも当たり前だったからだ。
私はそれを、自分が持っている一つの考え方だとは思っていなかった。
誰にとっても当然の順序であり、疑う余地のない正しさだと思っていた。
自分の信念というより、世の中とはそういうものだと信じていたのだと思う。
だから、やるべきことを後回しにして、自分のしたいことを優先しているように見える人を目にしても、自分の内側を見ようとはしなかった。
出てくるのは、相手を咎める言葉ばかりだった。
先にやることがあるだろう。
義務を果たしてからにすればいい。
そんなことをしている場合ではないだろう。
問題が相手にあることは、あまりにも明らかに見えていた。
他人に向けた言葉は、自分にも向いていた
けれど、相手に向けていた言葉を一つずつ見ていくと、それは私が自分にも言い続けていた言葉だった。
自分のやりたいことは、やるべきことを済ませてから。
周りのことを整えてから。
引き受けた役割を果たしてから。
必要なことをすべて終わらせて、ようやく自分の望みを叶える土俵に立てる。
私の中には、そんな順序があった。
それは、単なる段取りではなかったのだと思う。
やるべきことを果たすまでは、やりたいことをする資格がない。
私はどこかで、そう思っていた。
だから、その順序を飛び越えているように見える人に、強く反応した。
私は先にやることをやっているのに。
私は自分の望みを後回しにしているのに。
どうして、この人たちは先に自分のやりたいことを選べるのだろう。
そういう人たちは、私が自分に禁じてきたことを、目の前でしているように見えた。
だからこそ、ほかの行動よりも強く目に入り、「問題のある人」として浮かび上がっていたのかもしれない。
同じ人がいても、同じようには見えない
自分の周りに、本当に似たような人が集まっていることもあると思う。
けれど、同じ人が周りにいても、誰もが同じ強さで反応するわけではない。
休む前に、十分に頑張らなければならないと思っている人には、簡単に休む人が強く目に入る。
人に頼る前に、自分で全部やるべきだと思っている人には、ためらわず誰かを頼る人が無責任に見えることがある。
やるべきことを終えてから楽しむべきだと思っている人には、途中で自分の楽しみを優先する人が、ことさらに気に障る。
自分が必死に守ってきた順序を、平気で飛び越えているように見えるからだ。
「なんで、こういう人ばかりなんだろう」
そう思う時、同じような人が特別多いのではなく、自分の禁止事項に触れる人ほど強く目に入っていることもある。
それは、その人たちを引き寄せたという話ではない。
相手の行動の中でも、自分の規則に触れる部分が大きく見え、見過ごせないものとして浮かび上がる、ということなのだと思う。
相手の問題と、自分の規則は分けて見られる
もちろん、だからといって、相手に問題がなかったことになるわけではない。
実際に責任を果たさず、誰かに負担を押しつけているのなら、それは相手側の問題として残る。
相手の行動に腹を立てたことまで、間違いにしなくていい。
相手が何をしたのかということと、
私がなぜこれほど強く反応したのかは、分けて見ることができる。
どちらかを認めたら、もう一方が消えるわけではない。
相手の行動を問題だと思いながら、
自分の中にどんな規則があるのかを見ることもできる。
私にとって大きかったのは、相手への評価を取り下げたことではなかった。
相手を咎める時に使っていた基準が、
そのまま自分を縛る基準にもなっていたと気づいたことだった。
「終わってから」を待っているうちに
やるべきことを大切にするのは、悪いことではない。
責任を果たそうとする姿勢に、私自身、何度も支えられてきたのだと思う。
けれど、
これが終わってから。
もう少し整ってから。
周りのことをすべて済ませてから。
そう言って自分の望みをいつも最後尾に置いていると、やるべきことはなかなか終わらない。
一つ終われば、また次の用事が出てくる。
そうしているうちに、やってみたいと思った時の熱が冷めてしまうこともある。
その時にしかなかった機会や、人との巡り合わせを逃すこともある。
何度も「今ではない」と自分の欲求を退けているうちに、自分が何をしたかったのか、わからなくなることもある。
私は、やりたいことを後回しにしていただけではなかった。
やりたいと思う気持ちそのものを、少しずつ潰していたのかもしれない。
責任を大切にすることと、
自分の望みを毎回最後に回すことは、同じではない。
やるべきことをすべて投げ出す必要もない。
ただ、
私は、どんな順序を絶対のものとしていたのだろう。
誰かに向けている「それはおかしい」という言葉を、自分にも向け続けていなかっただろうか。
そうやって見てみると、他人への引っかかりの中に、自分には当たり前すぎて見えなかった規則が浮かび上がることがある。
終わってからでなければならない。
資格を得てからでなければならない。
私は、そんな順序を絶対のものとして握りしめていたのかもしれない。
気づいたからといって、すぐにその順序を手放さなくてもいい。
これまで通り、やるべきことを先にする時があってもいいと思う。
ただ、
「ああ、私は今、この信念に従おうとしているんだ」
と見えるようになる。
そうすれば、状況が許す時には、いつもとは違う順序を選ぶこともできる。
これまで通りにすることもできるし、今回は別の方を選ぶこともできる。
自分の中にあった規則に気づくことは、その規則を壊すことではない。
それしかないと思っていたところに、
ほかの選択肢があると気づくことなのだと思う。
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「やるべきことを終えてからでなければ、やりたいことを選ぶ資格がない」。今回見えてきたルールを、自分の欲求に向けていた側から書いた記事です。
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