「わたしってこういう人じゃん?」その役は、どこから来た?
渋谷のラジオを聴いていたら、福山雅治さんが、二重跳びを20回跳んでいるという話をしていた。
……なかなかすごい。
けれど私は、「体力があるんだな」とは少し違うことを考えていた。
福山雅治だから、跳ぶのかもしれない。
以前、福山雅治さんが、応援してくれるファンがいる以上、その人たちが見ている「福山雅治」が、かっこ悪いわけにはいかない、というようなことを話していたのを覚えている。
正確な言葉は覚えていないけれど、自分一人のためではなく、ファンの中にある「福山雅治像」まで引き受けているように聞こえた。
それを思い出して、二重跳び20回も、
「福山雅治たるもの」
という意識と、どこかでつながっているのではないかと勝手に思った。
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人は「自分は誰か」に沿って動いている
人は「何をするか」を選んでいるようで、実は、
「自分は誰か」という自己像に沿って行動している
ことがあるのかもしれない。
「私は約束を守る人だ」と思っていれば、
多少面倒でも約束を守ろうとする。
「私は人に迷惑をかけない人だ」と思っていれば、
困っていても一人で何とかしようとする。
「私は運動が苦手な人だ」と思っていれば、
体を動かすことは、最初から選択肢に入りにくい。
「わたしって、こういう人じゃん?」
何気なく口にするこの言葉は、単なる自分の説明ではなく、
その後の行動を選ぶ前提にもなっているのかもしれない。
仮に私が本気で、
「私は福山雅治である」
という自己像を持ったとしたら、今とは違う行動を選ぶ可能性がある。
二重跳びを20回するかはわからない。
それでも、自分の体や身なりを、今より丁寧に扱うようになるかもしれない。
一方で、仮に、
「私はベイマックスである」
と思っていたら、二重跳びを20回する方向には行かない気がする。
どちらがよいという話ではない。
自分を何者として認識するかによって、
自然に選ばれる行動が変わる、ということだ。
もっと身近なところでは、
「自分は、途中で投げ出さない人だ」
「頼られたら応える側だ」
「自分がしっかりしなければならない」
という自己像もある。
それを自分の意思で引き受けているなら、
簡単ではない場面でも踏みとどまる力になる。
けれど、周りから期待され続け、
断る選択肢を持てないまま、その役を担っていることもある。
同じように責任を果たしていても、
自分で引き受けた役なのか、降りることを許されなかった役なのかでは、
内側の感覚はかなり違う。
セルフイメージ、だけでは少し足りない
ここまでなら、「セルフイメージが行動を変える」という話で表せる。
けれど、私が気になったのは、もう少し先のことだった。
一口にセルフイメージと言っても、その成り立ちは同じではないと思うのだ。
いつの間にか自分が持っていた自己像がある。
「こういう人でありたい」と、自分で持とうとしている自己像もある。
周りから、
「あなたはしっかりしている」
「あなたなら引き受けてくれる」
と見られ続け、そのイメージに合わせて振る舞っていることもある。
そして、外から与えられたイメージだとわかりながら、
「それでも私は、この役を引き受けたい」
と、自分で選び直している場合もある。
「自分がつくったセルフイメージ」と
「他人から与えられたセルフイメージ」。
その二つに分けるだけでは、少し足りない。
他人から渡された役でも、自分で納得して引き受けることはできる。
反対に、自分で選んだつもりの自己像が、
周りの価値観をそのまま取り込んだものだった、ということもある。
大きな違いは、最初に誰がつくったかだけではなく、
私は今、その役をどのように引き受けているのか
なのだと思う。
求められた役が「自分」に変わっていく
役に立つ人。
迷惑をかけない人。
感情的にならない人。
弱音を吐かない人。
頼まれたら応える人。
最初は周りから求められた振る舞いだったとしても、それを繰り返しているうちに、
「わたしって、こういう人じゃん?」
という自己像に変わっていくことがある。
そうなると、もう誰かに命令されなくても、
自分で自分をその役に戻すようになる。
本当は断りたい時にも、
「でも、私って断れない人じゃん」
と引き受ける。
休みたい時にも、
「私は途中で投げ出さない人だから」
と動き続ける。
周りから求められた役割を、
自分の性格や本質だと思って生きていることもあるのかもしれない。
ただ、外から与えられた役だから悪い、ということでもない。
福山雅治さんも、多くの人が抱く「福山雅治像」と無関係ではいられないのだと思う。
けれど、その期待を理解したうえで、
「私は、福山雅治という役を引き受ける」
と本人が選んでいるのだとしたら、それは、ただ押しつけられた役とは違う。
役は、人を縛るだけではない。
自分一人では選べなかった行動へ、自分を連れていくこともある。
二重跳びを20回する自分。
人前に立つ者として、自分を整え続ける自分。
「福山雅治である自分」が、福山雅治さんを、さらに「福山雅治らしい場所」へ連れていくこともありうるのだと思う。
その役を、今も引き受けたいだろうか
だから、役割から自由になればよい、という話ではない。
誰の期待にも応えず、自分だけで自分を決めればよい、とも思わない。
そもそも、人は周りとの関係の中で、
自分が何者かを知っていくところもある。
ただ、今の自分が当然のように担っている役について、
この役は、どこから来たのだろう。
そして、
私は今も、この役を引き受けたいと思っているのだろうか。
そう見てみる余地はあるのかもしれない。
周りから求められるまま担い続けることと、
その役を一度見つめ、自分の意思で引き受け直すこと。
外から見える行動が同じでも、内側の立ち位置は違う。
引き受けたい役なら、改めて引き受けてもいい。
もう違うと思う役なら、少しずつ関わり方を変えていくこともできる。
「わたしって、こういう人じゃん?」
その言葉の中には、
自分を縛ってきた役も、
自分を支えてきた役も、
自分をこれから先へ連れていく役も、
混ざっているのかもしれない。
よければ一言だけ。いまのあなたにいちばん近かった一文、どれでしたか。(読むだけでももちろん大丈夫です)
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自分が背負ってきた役割を、ほかの人も当然引き受けるものだと思っていた。自分の中の「当たり前」が、どこから来たのかを見つめた記事です。
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