【ホラー小説】デッドエンド・シンドローム #3
第3章:伝染する悪夢
オフィスは、ゆっくりと腐敗していく巨大な生き物の骸のようだった。外部デバッグチームの大量離脱は、「機密保持契約に対する重大な違反行為への対処」として、神宮寺から全社に通達された。その巧みな情報操作は、残された開発者たちに「我々こそが選ばれたチームなのだ」という歪んだ選民意識と、プロジェクトを頓挫させれば次は自分たちが切り捨てられるという恐怖を同時に植え付けた。

狂気は、空気感染する病のように、フロアの隅々まで染み渡っていた。
樹の視界の端で、アートチームの女性が、自らがデザインしたクリーチャーモデルを画面に表示させ、モニターに向かって「ごめんなさい、こんな姿にしてごめんなさい」と涙を流しながら謝罪している。サウンド担当の男は、ヘッドホンをつけたまま虚空の誰かと口論し、突然怒鳴り声をあげては、はっと我に返って周囲を見回す。誰もが寝不足の深い隈を刻み、疑心暗鬼に目を光らせ、隣人のタイピング音にさえ怯えるようになっていた。ここはもう、創造の現場などではなかった。集団ヒステリーが渦巻く、隔離病棟だ。

樹は、彼らから距離を置くように、自らのデスクに立てこもっていた。あの「悲鳴」のデータを発見して以来、彼はゲーム内のあらゆる環境音――風の音、水の滴る音、衣擦れの音――を収集し、解析し続けていた。何かが隠されている。神宮寺の狂気だけでは説明のつかない、もっと根源的な悪意が、このゲームのコードには潜んでいる。
そして、ついにそれを見つけた。
ホワイトノイズ。ゲーム内のあらゆる場面で、常に背景に流れ続けている、ただの雑音。樹はその膨大なデータをスペクトラムアナライザーにかけ、周波数ごとの強度を視覚化した。最初は意味のない、ランダムなパターンにしか見えなかった。だが、何時間も見続けた彼の目が、ノイズの波形の中に、ある一定の周期で繰り返される、微弱な規則性を見出したのだ。

指が震える。彼はそのパターンを抽出し、音声データとして逆変換を試みた。再生ボタンを押す。
ヘッドホンから聞こえてきたのは、人間の声ではなかった。機械的で、感情がなく、まるで深海から響いてくるような、不気味な合成音声。それは、たった一つのフレーズを、悪夢のように繰り返していた。
―― It's your fault.
「……あ」
声にならない声が、樹の喉から漏れた。全身の血が、一瞬で凍りつく。
お前のせいだ。
その言葉は、樹の記憶の最も深い場所に突き立てられた、錆びついた杭だった。学生時代。彼が初めて世に問うた、実験的な心理ゲーム。その中に、イースターエッグとして彼が冗談で隠したメッセージ。親友だった裕輝は、そのゲームにのめり込み、次第に精神のバランスを崩していった。「このゲームは、僕に話しかけてくる」と憔悴しきった顔で訴える彼に、樹は「ただのゲームだ」と取り合わなかった。そして裕輝は、ある朝、忽然と姿を消した。
フラッシュバックが、濁流のように樹の意識を飲み込む。「お前のせいだ」と彼を責める裕輝の声。ディスプレイの反射に映る自分の顔が、やつれて青ざめた裕輝の顔と二重写しになる。
「……はっ、はっ……」
樹はヘッドホンを引きちぎるように外し、荒い息を繰り返した。冷や汗でシャツが背中に張り付いている。落ち着け、これは偶然だ。神宮寺が、俺の過去をどこかで調べ上げ、嫌がらせのために……? いや、裕輝のことは誰にも話していない。なら、どうして。どうしてこのゲームは、俺の罪を知っている?
よろめくように席を立ち、冷たい水を求めて給湯室へ向かう。誰もいない、薄暗い廊下。そのコンクリートの壁が、ぐにゃりと歪んだ。気がつけば、樹は『LAST ASYLUM』の、あの薄汚れた精神病棟の廊下に立っていた。壁のシミ、床の傷、天井からぶら下がる裸電球。すべてが、ゲーム内で彼が毎日見ていたテクスチャと寸分違わず一致していた。

「――っ!」
悲鳴をあげそうになるのを、歯を食いしばって堪える。瞬きを繰り返すと、景色はいつものオフィスの廊下に戻っていた。幻覚だ。疲れているんだ。
だが、自分のデスクに戻った樹は、完全に言葉を失った。
彼のディスプレイの中央に、一枚の黄色い付箋が、貼られていた。

乱暴な筆跡で、カタカナで、こう書かれていた。
オマエノセイダ
全身の産毛が総毛立つ。心臓が氷の手に掴まれたように冷える。フロアを見渡すが、誰も彼もが自分のモニターに顔を埋め、誰一人としてこちらを見ていない。誰が? いつの間に?
樹は震える手でその付箋を剥ぎ取り、ぐしゃぐしゃに握りしめた。紙の乾いた感触だけが、これが現実なのだと告げている。
神宮寺か。それとも、精神を病んだ同僚の誰かか。
あるいは。
あるいは、この部屋には、開発者リストに載っていない「何か」がいて、裕輝の怨念が、このゲームを媒体にして、自分に復讐しようとしているのか。
疑念と恐怖が、毒のように彼の思考を麻痺させていく。もはや、ここは安全な場所ではない。この狂気のオフィスで、一体誰を信じればいい?
握りしめた付箋が、汗でじっとりと湿っていく。樹は、深い闇に包まれたモニターを睨みつけた。まるで、檻の中から猛獣を睨み返すように。もう後戻りはできない。この悪夢の正体を突き止めるまで、ここから逃れることはできないのだ。

