【ホラー小説】デッドエンド・シンドローム #2
第2章:囁くデバッグログ
あの夜から三日が過ぎた。週明けのオフィスは、週末の休息を燃料にした偽りの活気が満ちていたが、それも昼を過ぎる頃には燃え尽き、再びクランチモード特有の重苦しい空気に支配されていた。手塚樹は、あの晩に発見した寄生虫のようなコードの正体を掴めずにいた。それはまるで狡猾な生物のように、彼が解析しようとすると活動を停止し、彼が目を離すと再びメモリの片隅で、静かに増殖を始めるのだった。

異変が表面化したのは、外部委託しているデバッグチームからの最初のレポートが届いた、火曜日の午後だった。
「なんだこれ……」
隣の席のプログラマーが、呆然と呟く声が聞こえた。樹も自身のモニターに表示されたデバッグログに目を通し、眉をひそめる。バグ報告のフォーマット自体はいつも通りだ。発生状況、再現手順、期待される動作、実際の動作。しかし、その「実際の動作」の欄に記述されたテキストは、およそゲームの不具合報告とは思えぬ、異様なものばかりだった。

【案件番号0734:精神病棟・西棟3階の廊下にて、壁の汚れのテクスチャが、5年前に死んだ飼い犬(ポメラニアンのポコ)の姿に変化する】
【案件番号0741:地下の遺体安置所にて、特定の引き出しを開けると、内部から小学校時代の担任教師の声で『手塚くん』とプレイヤー名を呼ばれる音声が再生される(※テスターの姓は手塚ではない)】
【案件番号0755:誰もいないはずの独房から、自分の母親がよく歌っていた鼻歌が聞こえる】
樹の背筋を、冷たいものが走った。報告は、どれもこれもテスター個人の、それも他人が知るはずのないパーソナルな記憶に深く関わるものばかりだった。これは単なるバグではない。「サイコ・リアクティブ・エンジン」が、プレイヤーの脳波から恐怖を生成する際に、何らかの形で深層心理の情報を抜き取り、それを悪用しているのだ。

レポートは午後になっても途切れず、夕方になる頃には、デバッグチームのプロジェクトマネージャーから一本の内線が入った。「テスターの半数以上が、原因不明の精神的不調を訴え、業務の続行を拒否している」と。
「お話があります」
樹は決意を固め、ガラス張りの社長室のドアをノックした。中にいたのは、ディレクター兼CEOの神宮寺恭哉だった。高価なイタリア製のスーツを着こなした彼は、樹を招き入れると、人の良さそうな笑みを浮かべた。しかし、その目の奥は深淵のように昏く、一切の感情を映していなかった。

「デバッグレポートの件です。明らかに異常です。エンジンがプレイヤーの記憶に過剰介入している。これは倫理的にも危険です。一旦、テストを中断して原因を……」
「見たよ、そのレポート」
神宮寺は樹の言葉を遮り、楽しそうに言った。
「素晴らしいじゃないか。実に素晴らしい。怖かっただろうね、彼らも。自分のためだけに用意された、オーダーメイドの恐怖だ。これこそ、私が『LAST ASYLUM』で実現したかったことだよ」
「ですが、これは……!」
「これは、バグかね? 手塚くん」
神宮寺はゆっくりと立ち上がり、窓の外の夕暮れに染まる渋谷の街を見下ろした。
「私は、仕様だと思うがね。恐怖とは、パーソナルな記憶と結びついた時にこそ、本物になる。見知らぬ怪物より、自分の部屋のクローゼットの暗闇が怖いのと同じだ。我々は、最高の没入感を手に入れたんだ。数人のテスターの動揺など、必要経費だよ」
その言葉は、悪魔の囁きのように滑らかで、奇妙な説得力があった。樹の正論や倫理観は、神宮寺の巨大な狂気の前では、まるで無力だった。彼は、この男が正気でないことを確信した。そして、このプロジェクトは、自分が思っている以上に危険な領域に踏み込んでいるのだと。
社長室から追い返された樹は、自席で最後の手段に出た。テスターがプレイ中に録音した音声ログの解析だ。何十時間にも及ぶデータの中から、異常報告があったタイムスタンプ周辺を切り出し、ノイズキャンセリングとイコライザーをかけていく。

ほとんどはゲーム内の環境音――軋む床、滴る水音、遠くで響く鎖の音――だけだった。だが、ある一つのログで、樹の指が止まった。案件番号0741、「手塚くん」と呼ばれたテスターのデータだ。再生速度を0.5倍に落とし、特定の周波数帯をブーストする。
――ザザ……キーン……
ノイズにしか聞こえない。だが、さらにフィルタを重ね、リバース再生を試みた瞬間、樹はヘッドホンを投げ捨てていた。
間違いない。ノイズの奥で、ほんの一瞬、甲高く引きつった人間の悲鳴のような音が、確かに記録されていた。それはゲームの効果音などではない。苦痛に満ちた、本物の絶叫の断片だった。
「……手塚くん? 顔色、真っ青だよ」
給湯室で、白石志津が心配そうに樹の顔を覗き込んだ。彼女の手に握られたマグカップの、明るいキャラクターデザインが、この場の空気にはあまりに不釣り合いだった。

「志津さん……このゲームは、おかしい」
「……また、その話? 少し休みましょうよ。神宮寺さん、すごい人じゃない。きっと大丈夫だって。みんな、このプロジェクトに賭けてるんだから」
彼女の言葉は、善意からくるものだとわかっていた。だが、今の樹には、あまりに楽観的で、遠い世界の言葉のように聞こえた。彼女はまだ、知らないのだ。このプロジェクトの闇の深さを。
樹は何も言わず、自分のデスクに戻った。ヘッドホンを再び装着し、先ほどの「悲鳴」のデータを、何度も、何度も再生する。モニターの中では、『LAST ASYLUM』のタイトルロゴが、古びた精神病棟のイラストの上で、不気味に明滅していた。

その病棟の、無数に並んだ窓の一つ。
樹には、その黒い四角い闇が、まるで一つの巨大な目となって、自分をじっと見つめ返しているように思えてならなかった。
