【ホラー小説】デッドエンド・シンドローム #1
あらすじ
天才プログラマー・手塚樹が開発するVRホラーゲーム『LAST ASYLUM』。それはプレイヤーの脳波から悪夢を自動生成する画期的なシステムを搭載していた。だが開発終盤、ゲーム内に謎のコードが出現。テスターは次々と精神に変調をきたし、プロジェクトに不穏な影が差し始める。
カリスマディレクターの神宮寺はそれを「最高の没入感」と一蹴するが、怪奇現象は樹自身の過去のトラウマを抉るように現実世界を侵食。やがて現れた謎の天才デバッガー・音無律の存在は、事態をさらに加速させる。
これは過労が見せる幻覚か、コードに宿った怨念か。「最高の恐怖」を追求した果てに、創造主たちを待ち受ける戦慄の真実とは。
第1章:始まりのノイズ
西暦2025年6月14日、土曜日、午前2時48分。
眠らない街、渋谷の喧騒は、スクランブル交差点を見下ろす高層ビルの27階までは届かない。株式会社ネクスト・ディメンションのフロアを支配しているのは、静寂という名の緊張だった。窓の外で明滅する巨大な広告ビジョンの光が、ブラインドの隙間から青や赤の縞模様を投げかけるが、オフィス内の空気は澱み、まるで深海の水圧のように開発者たちの肩にのしかかっていた。

手塚樹は、自分の指先がキーボードの上で化石になっていくような感覚を覚えていた。カフェインとアドレナリンで無理やり回している思考は、粘性の高い液体の中を進むように鈍重だ。フロアに散らばる寝袋からは、数人の同僚たちの疲れた寝息が聞こえる。鼻腔をくすぐるのは、埃と、飲み干されたエナジードリンクの甘ったるい匂い、そしてサーバー室から漏れ出してくる微かなオゾンの香り。クランチモードに突入して、もう二週間が経っていた。

樹の視線の先、4Kモニターに映し出されているのは、VRホラーゲーム『LAST ASYLUM』のソースコード。何十万行にも及ぶデジタルの奔流だ。それは彼にとって、宇宙そのものだった。完璧なシンタックス、無駄のないロジック、効率化された関数。コードは美しくなければならない。それが、プログラマーとしての樹の揺るぎない哲学だった。

だが、今、彼の目の前にある「それ」は、その哲学への冒涜だった。
「……なんだ、これは」
乾いた唇から、自分でも驚くほど掠れた声が漏れた。問題の箇所は、プレイヤーの恐怖値を管理するモジュールの一角。そこには、樹が書いた覚えのない、醜悪で、冗長で、まるで悪意を持って絡みつく蔦のようなアルゴリズムが記述されていた。自己参照を繰り返し、決して到達点のないループを描きながら、メモリの隅を少しずつ、しかし確実に汚染していく。まるで、生きているかのように。
誰かが間違ってコミットしたのか? いや、このレベルのコードを書く人間はチームにいない。そもそも、このロジックには目的が見えなかった。ただ、そこに「在る」ためだけに存在しているような、寄生虫的なコード。樹はすぐさま削除しようと指を動かし――止まった。
削除できない。正確には、削除すると他の正常なモジュールに予測不能なエラーが連鎖的に発生するのだ。まるでガン細胞のように、正常な細胞と癒着し、切り離すことを拒んでいる。

「……まさか」
樹の脳裏に、ふと数ヶ月前の記憶が蘇る。開発初期、彼はあるコードブロックに魅入られていた。それは処理効率をわずかに犠牲にするものの、構造的に信じられないほどシンメトリーで、美しいアルゴリズムだった。それはバグを内包していた。稀に、本当に稀に、予期せぬ挙動を引き起こす可能性があった。だが、樹はその美しさを切り捨てることができず、「仕様」という名の免罪符を与えて、プロジェクトの深層部に残したのだ。

あの時のコードが、今になって暴走を?
いや、違う。樹は即座にその考えを打ち消した。彼が残したコードは、あくまで数学的な美しさを持つ、静的な芸術品だった。今、目の前で蠢いているこれは、生物的な醜さを持つ、動的な悪意そのものだ。両者は似ても似つかない。
疲れているんだ。彼は自分に言い聞かせ、一度モニターから目を離した。凝り固まった首を回し、誰もいないはずのフロアの暗がりへと視線を移す。デスクの列が、まるで墓標のように並んでいた。
その時だった。
フロアの奥、スリープ状態で漆黒の闇を映しているだけのモニターの一つに、一瞬だけ、砂嵐のようなノイズが走った。そしてノイズの中心に、まるで水面に顔をつけたときのように、ぼんやりとした人の顔のようなものが浮かび上がったように見えた。

「え……?」
樹が瞬きをした次の瞬間、モニターは再びただの黒い鏡に戻っていた。静寂。聞こえるのは空調の低い唸りと、サーバーラックのファンの回転音だけだ。
――いや、違う。
樹は息を殺し、耳を澄ませた。ファンの重低音に混じって、何か別の音がする。サーバー室の方向からだ。キーンという高周波音とも違う、もっと有機的な音。複数の人間が、ひそひそと何かを囁き合っているような……。
彼はゆっくりと席を立ち、音のする方へ数歩、足を踏み出した。だが、近づくにつれて囁き声は遠のき、サーバー室のドアの前に着く頃には、それはいつもの機械音にしか聞こえなくなっていた。
「……気のせいか」
過労だ。寝不足とカフェインの過剰摂取が見せる幻覚と幻聴に違いない。樹はそう結論づけた。だが、オフィスの中央に戻り、自席の椅子に腰を下ろしたとき、自分の首筋を冷たい汗が一筋、ゆっくりと伝っていくのを感じた。その感触だけが、やけに生々しかった。
彼はもう一度、モニターに向き直る。無機質な文字の羅列が、先ほどよりも深い闇をたたえて、じっとこちらを見返しているような気がした。
『LAST ASYLUM』――最後の精神病棟。
そのタイトルが、今、初めて本当の意味を持ち始めたかのように、樹の網膜に焼き付いていた。

