三陸沖地震・津波の夜。山猫堂で過ごしながら東日本大震災直後の人の営みを思い出す|岩手県陸前高田市
三陸沖で2026年4月20日に発生したマグニチュード7.5の地震及びそれによって生じた津波の報に触れた時間を泊まれる古本屋山猫堂で過ごしながら、2011年3月11日の夜を思い出していた。
今回のnoteでは、そんな4月20日の話をしようと思う。ちなみに泊まれる古本屋山猫堂では、4月26日(日)の夜に「あたりまえの反戦」をテーマにmujoh motel(ムジョーモーテル)を開催する。
mujoh motelは、答えのない問いについて対話型のワークショップである。地政学リスクの高まりが叫ばれて久しい昨今、既に世界は度々戦火に見舞われ、日本も他人事ではなくなってきている。
一方で、日本各地では反戦を掲げた動きが老若男女を問わずに見え始め、そうした流れが勢いを増しつつある。きっと、今だからこそ私たちは改めて「反戦」というテーマについて考えた方が好いに違いない。
「反戦」というテーマは大きすぎる。だから独りで考えるよりは、誰か、様々な人々と様々な考えや想いを交わしながら考えるのが好いかもしれない。ぜひこの機会に「反戦」について考えてみて欲しい(参加予約は以下のInstagramアカウントなどへのDM、店頭でできます)。
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三陸沖地震による津波発生時、泊まれる古本屋山猫堂で過ごす中で思い起こした東日本大震災直後の数日間
4月20日の夕方、岩手県陸前高田市の泊まれる古本屋山猫堂で本を読んでいるとスマートフォンが突如として叫びを上げ始めた。直後、地面からけたたましい音が上がるとともに建物が強く揺れた。店内にいた店主とスタッフ、お客様たちと目配せしながら様子を窺いつつ、各々災害情報サービス等で情報を探る。
併せて、安否確認等の連絡を取り合う。その間、津波警報のアラートが鳴り響く。津波に関する情報がSNSや災害情報サイトに表示されるよりも早い津波警報の報に驚きつつ、その非日常感に『何かおどろおどろしい事態が迫っているのではないか』と警戒意識が高まっていった。
揺れが収まったのを確認し、店内を見て回ると落ちていたのはレコード1枚と鹿の角1本のみだった。以前から泊まれる古本屋山猫堂の建物、その下の地盤は強く、あまり揺れの影響を受けないと聴いていたけれど、これほどまでとは思わなかった。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。率直に言って驚いた。
皆でキッチンへと向かい、テレビでリアルタイム災害情報を確認すると津波に関する情報が入って来る。また各地で避難指示が強力に出されている状況であるのを知る。同時に、隣接する沿岸市町村から訪れている私たち数名が帰れない状況に置かれたのを理解した。
この瞬間、泊まれる古本屋山猫堂に集まっていた面々は、昨年の事例から、津波警報が津波注意報になるまで自家用車での移動に制限が生じるのを理解していた。また、津波警報が津波注意報になるまでに数時間を要するのも理解していた。
というわけで、暫く泊まれる古本屋山猫堂に滞在するのが自ずと決まった。店主である越戸氏の提案で、店内にある材料を用いて食事をとりつつ、最悪の場合は泊まる方向で状況の推移を伺うこととなった。
食事は、タコ焼き粉が状況に適合していたことから、タコ焼き粉と冷蔵庫内の材料を用いてタコのないタコ焼きを作ることになった。その場に集まった面々で準備や調理を分担し、タコ焼き用プレートを囲んでタコ焼きを作っていく。
災害時にありながら、温かく楽しい時間が流れた。皆でタコ焼きを作りながら談笑し、災害状況の推移を見守る。そこには、緊急時にあって互いに互いを支え合いながら困難に向き合っていく人と人との営みがあった。思えば、東日本大震災、大津波に見舞われた2011年3月11日もそうだった。

東日本大震災を、誰かが助けてくれた物語ではなく、人々の力で生き抜いた現実だったと忘れないようにしたい
なんとなしに多くの人々が忘れているような、忘れていないまでも記憶の片隅に置いて蓋をしてしまっているような、あるいは誰かが創り出してしまった被災地復興物語で記憶を塗り潰してしまったような、そんな気がするけれど、2011年3月11日、発災直後から数日間、多くの人々が人と人との営みによって互いの生命を支えていた期間があった。
国や県、市町村によって支えられたのではなく、概ね地域に住まう人々の力だけで支え合い、命を繋いだ期間があった。そこには確かに、地域の営み、人と人との営みが存在した。私の話を例にすれば、先月書いた発災直後の避難の後、私の住む部落(地区)は、数日の間山の上で生活していた。
あの日、防潮堤を超えて海水が降り注ぐ中を命からがら逃げてきた十数名の人々は、山の上にあった住家の庭に集まった。激しい余震が続く中だったこと、他人の家であったことから、家の中には入らず、焚き火を起こし、火を囲むようにして事態の確認を行っていた。
夕方頃に、消防団が山を越えた先の部落(地域)から避難所に集まった人々によって作られた白飯のおにぎりを持ってきた。『明日以降、食べられるか分からない』という言葉に、誰もが不平不満を漏らさなかったのを覚えている。あの状況で、配給が安定的になされると思うのは無理があった。
車は何台かあったけれど、全員が避難所に行くには台数が不足するし、そもそも何かあったときに動かせなくなるのは避けたかった。山を越えるには時間帯が悪すぎる。そもそも避難所に入れるかどうかさえ疑わしい。だから、焚き火を囲い、何人かは車中泊をし、何人かは近くのプレハブの中で夜を過ごすことにした。
食べ物は、津波から逃れた家から持ち出せるものを持ち寄り、それで何日かを耐える方向で話し合われた。酒はあったので、大人たちは『こんな状況になったら、飲むしかない』と話しながら焚き火の番をしつつ飲み明かした。現実問題として、飲むしかない状況だった。
誰もが不安な状況ではあったけれど、誰もがパニックを起こしはしなかった。また誰もが連帯していた。その後、徐々に事態が分かって来て、余震も減っていく中で、物資の供給が行われ始めたけれど、やはり数日間は山の上で過ごした。
余震が概ね静まり、残った家々に人々が分散した後も、やはり各々が各々の役割を決め、できることをして、生活の基盤を再構築し始めた。煉瓦や石で暖炉を作り、ドラム缶で風呂を作り、斧で薪を割り、瓦礫の山の中から見つかる大量の酒を分け合い、最低限の生活基盤が復旧するまで、残された地域の中で、生き残った人々が連帯し、命を支え合ったのである。
2026年4月20日の夜、泊まれる古本屋山猫堂でタコ焼きを囲みながら、そんな遠くなった日の記憶を思い起こしていた。そして改めて災害時に人と人とが寄り合い、支え合い、食事を囲む人の営みの好さを感じていた。人間らしさ、温もりを感じた。
きっと、東日本大震災が起きたあの日、自分たちの力だけで生き延びたあの時間を私たちは忘れてはいけないのだと思う。気付けば国や誰かが助けてくれる、そんな他力本願な想いに駆られがちな昨今だけれども、本来的に人間の力とは、人の営みとは、もっと逞しく頼もしいはずだ。
救世主が現れる美しくて眩しい物語ではない、人の手によって形作られる泥臭い現実を忘れずにしたいものである。
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