『夜明けの18秒』episode 4 記憶が目を覚ます時【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】
プロローグ・episode1 小さな違和感と、雪の降る日に
episode2 不可逆な時間
episode3 ひとりの記憶、ふたりの放課後
episode 4 記憶が目を覚ます時
僕の記憶が、目を覚ましたようだった。
冬の終わり、雪がようやく溶け始めた頃のことだった。あの時僕とヨアケはツリーハウスの脇から続く獣道をたどり、小さな泉へとたどり着いた。
夜と朝を跨ぐ空には、まだ星の名残が残っていた。最後の光を放つように。泉の表面は、鏡のように静かで、風もなく、音もなかった。ヨアケは銀色の懐中時計を取り出すと、僕の手にそっと重ねた。
「……ここにね、はじまりの光が差すの。6時41分18秒。たぶん、ぴったり」
「どうしてそんなに正確に?」
「みてて、きっとわかるから」
時計の針が6時41分を指した。そうして、秒針はゆっくりと進んでいく。
カチ、カチ、カチ…
時計の秒針を刻むようにヨアケは、かぞえ始めた。
「……1、2、……10、11、12…………」
僕の声も、しずかに声が重なっていく。
「…15、16、17、18…」
その瞬間だった。木々のあいだから差し込んだ一筋の光が、泉の水面に触れた。コバルトブルーの湖面が、きらきらと砕けるように震え、深い底から金色の揺らぎが立ち上がる。
まるで、眠っていた世界が、今この瞬間だけ、呼吸を始めたようだった。言葉が出ないほどに、ただ、美しかった。胸がしずかに、満たされていく。
「ほら、言ったでしょ?」
「うん。ヨアケ…すごい」
「これはね、世界のはじまりの時間なの。忘れちゃだめだよ、ナオ。いつか、暗い闇が終わる時間。迷ったとき、きっと思い出すから」
水面の光は、ヨアケの瞳を照らした。まっすぐと澄んだ泉と同じ色をしていた。
「この時計は、代々引き継がれてきたもの。おじいちゃん、おばあちゃんや、その前のもっと前から私の家族に伝わるもの。これは、昨日、今日、明日を作る唯一の時間を作る時計。私たちはこの時計の中で生きているみたいだね」
ヨアケは、くしゃりと笑い、時計を大事そうになでたあと、首を傾けて僕を見た。ブラウンの髪の毛が光に透けてサラサラと音がした。
「ナオ。明日また、迎えにいくね」
⸻
耳に残るその声を最後に、記憶はパタリと途切れた。
「ヨアケ。ミーシャもいた。あのとき、たしか、また迎えにくるって、君が言ったんだ」
ヨアケと、僕は同じこと思い出していたのかもしれない。この冷えた泉の前で。自然に、そしてゆっくりと、震えるように首を縦に振った。
「時間の泉のほとり。パパとママには内緒。ナオ。私、そう言った。迎えにいくねって」
泉の色が木漏れ日の光の中で揺らぐのがまだ見えた気がした。
ヨアケの瞳が、ふいに遠くの空を見た。その目の奥に、誰にも見えない景色が浮かんでいる。
「“クレーンフェルト”の話、覚えてる?」
僕がそう言うと、ヨアケは小さく頷いた。
「うん。本のなかの町だったよね」
「始まりの町。そう、書いてあった」
ヨアケは少しだけ目を細めた。瞳の奥が、まるでページを一枚一枚めくるように揺れていた。
「この世界には、二つの時計がある。銀色の時計、それともうひとつ」
「黒い、時計」
ふたりの声が重なった。
”ひとつは、前へすすむあしを照らすもの。
ひとつは、今を閉じ込めだれかをまもるもの。
世界を変えたいと、強く願ったとき。
それは、ふたつに別れるのです。
時をこえるものは、命をひきかえにした、願いの中にだけ。”
まだ幼かった僕とヨアケは、ツリーハウスの中で肩を寄せ合いながら、あの本を開いていた。ページの隅には猫の足あと、町の上にはやさしい雪。時計のない町を白猫が歩き、子どもたちだけが乗れる“過去行きの列車”を探す物語。
「クレーンフェルト…」
声に出して、僕はその町の名前を呼んだ。本棚からふいに落ちた本。あれは、ヨアケと時間を重ねた、思い出そのものだった。
「あの本は、きっと道しるべ。昨日よりも、もっと前の、私たちの思い出より深い何かがある気がする。不思議じゃない?夢中になって、読んだよね。少し難しくて、古くて…」
「でも、読まずにはいられなかった」
「ねえ、ナオ。あの本に出てくる白い猫。ミーシャみたいだったよね」
僕は驚いてミーシャを見た。ミーシャは少し先の雪の上に立ち、僕たちのやりとりを静かに見つめていた。全てを知っているような眼差しで。
ヨアケが続ける。
「あの物語の旅も、この雪も、この記憶も。私たち、何度も繰り返してるのかもしれない。昨日のつづきを、ずっと、ずっと、探してるのかもしれない。そんな、気がする」
その言葉が、胸の奥にふわりと落ちた。ページの向こうにあったはずの記憶が、確かに僕たちの昨日として、手のひらに戻ってきていた。
「私、本当は知ってた。ナオと過ごした日があったこと。心のどこかに、いつもいたの」
記憶は、過去ではなく”いま”を形づくるものだった。僕たちの手の中に、それが確かに戻ってきた。『迎えにいくね』ヨアケは確かにあの時そう言った。
『 ⸻もうすぐ、迎えがくる 』
パーシは、言っていた。時間は、まだ終わっていない。始まりの時を告げるように。
この道は、記憶のかけらを拾う旅。
ひとりでは見えなかった“過去の地図”を、ふたりで重ねていく旅。ヨアケの手が、かすかに僕の袖に触れた。
「私、怖い気持ちもあるけど。それでも、知りたい。思い出したいの。きっと、それが、私の本当の今日だから」
「うん、ヨアケ…思い出すって、ただ景色を取り戻すことじゃない。あのとき、そこにいた誰かの気持ちを、もう一度、自分の中に感じることなんだ。そうやって初めて、昨日が、ちゃんとあったって言えるんだと思う」
「うん。ふたりなら、昨日の続きに行ける気がする」
本の続きが景色のように溢れてくる。
「ナオ、列車の名前、覚えてる?」
僕たちは、顔を見合わせる。ヨアケの瞳に僕が映る。そして息をついて、ふたりの呼吸が重なった。
「ネバートレイン」
雪の上で、ミーシャが空を眺めて短く鳴いた。瞳の奥にどこか光がさしたように。
「ナオ、私たちには、時間がなくなってしまったんだね。大切だった、私たちの時間」
僕と、ヨアケの目の前には、白銀の世界だけが、浮かんでいる。冷たく、つもり続ける雪。溢れるように、記憶をかき消す、雪。
「いま何分で、何秒で、何時なのか。そういうことが、分からない。それって、寂しいね」
ヨアケは小さく息を吸って、空を見上げた。そして、僕の方を向いて、ふわりと笑った。
「でもね、その分、景色とか、風の匂いとか、太陽の角度とか、そういうもので今日、を感じてる。そうやってちゃんと一日を生きてるって、思えるの。それって、すごく幸せなことだと思わない?それは、きっと隣にナオがいてくれたからだと思う」
彼女の声は、とても静かだった。
「ねえ、ナオ。なんだろう。沸き立つみたいに、記憶が溢れてくる…うわぁ。なんだか、幸せ…」
ヨアケは、どこか遠くを眺めながら言った。
「ナオ…私たちの体は、まだ6歳。でも、体だけは、成長している。そうでしょう」
そう言うと、ヨアケはふいに僕の手をとって、そっと自分の胸にあてた。鼓動が手のひらに伝わってくる。そうして、僕たちは目を閉じた。向かい合っておでこをこつん、とあてて。
「1、2、3、4、5.……」
ふたりで、黙って数える。雪のなかで、静かに、時を数えるように。
「……60」
数え終えたとき、ヨアケは僕を見つめて、やさしく微笑んだ。
「ね、ナオ。私たちは、ちゃんと、時を刻めるよ。大丈夫。取り戻しに行こう。私たちの時間を。ふたりで…。記憶は過去じゃない。思い出すたびに、私は“今”を取り戻してる。昨日を思い出すって、今日を生きることだから」
今日の境界線が、静かに揺らいでいく。その鼓動は、明日を迎える、ふたりの旅の始まりなのかもしれない。記憶は溶け出すことなく、心に形になって繋がっていく。
繰り返される今日の、老いだけが進むこの町。それは無言の中に広がるたしかな傷。
この、今日を終わらせなければいけない。昨日と今日は、続いているのだ。そうじゃないと、永遠に、本当の今日は、訪れないはずだから。
僕は、ヨアケの手をギュッと握った。この今の瞬間を、僕は忘れたくない。僕たちの時間を、止めてしまったのは誰なのだろう。それが、世界の秘密に触れる怖さより、今を失うことの方が初めて怖くなった。ヨアケは、優しく手を握り返す。
「きっと、ミーシャについていけば、何か、変わる気がする。そう思わない?行こう。ナオ」
ミーシャは、過去を導く影なら、ヨアケは未来を選ぶ光なのかもしれない。雪景色が、たしかに瞬いていた。
僕たちはそのまま手を握り、歩き出した。
遠い記憶のかけらを、ひとつずつ拾いながら。いつか約束した、まだ来ていない朝を迎えるために。そして、世界が終わる、その前に ⸻。
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